スキャンダルという煙幕
時:1930年(昭和五年)、3月
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官府
その日武官室は、作戦会議というよりは、精神病棟の集団セラピーのような様相を呈していた。
「……正気ですか、大佐」
副官の伊藤整一中佐は、ひきつった笑顔で言った。彼の手にある高価な万年筆は、今にもへし折れそうに曲がっている。
「私が聞き間違えたのでなければ……大佐は今、『私が女装して大使館を脱出し、代わりに小百合君が男装して私になりすます』と、そう仰いましたか?」
東郷一成は、真顔で頷いた。
その机の上には、パリから取り寄せた最新モードのドレス、コルセット、そして最高級の化粧品セットが、極秘の暗号表の上に無造作に広げられている。
「その通りだ、伊藤君。
私は欧州へ行かねばならん。ターゲットの破綻は秒読みだ。今動かねば、日本が欲しいものは永久に手に入らん。
だが、大使館の周りを見てみたまえ」
東郷はブラインドの隙間を指差した。
通りには新聞記者、FBIの監視車両、そしてONI(海軍情報局)の私服捜査官が、アリの這い出る隙もないほど張り付いている。
「彼らは『東郷一成』という東洋の男を監視している。
男が出てくれば、トイレに行くのでさえ尾行がつくだろう。
だが……『東洋の富豪の未亡人』が、優雅に欧州旅行へ出かけるとしたら?」
「……だからといって!」
ロンドンに軍縮会議随員として出発を控えている南雲忠一が、頭を抱えて叫んだ。
「なぜ貴様がやる! 替え玉を使え!
大体、貴様のその……ハニートラップ返しの件は、アメリカ側に知られているはずだろう!
『東郷は女装する』という情報があったら一発でバレるぞ!」
東郷はニヤリと笑った。
それは策士の笑みだった。
「そこだ、南雲。そこが一番の勝機なのだ」
東郷は、一枚の人事異動リスト(ONI内部資料の写し)を提示した。
「以前、私にハニートラップを仕掛けて失敗したパーカー中佐とヒギンズ中佐。彼らはどうなった?」
「……パナマとアラスカへ左遷されたと聞いたが」
「そうだ。しかも『極秘任務における重大な過失』という理由でな。
アメリカ海軍にとって、自国の諜報員が『女装した日本人に返り討ちにされた』などという事実は、歴史から抹消したいほどの恥辱だ。
だから彼らは関係者を全員飛ばし、作戦レポートを焼却し、その事実を組織の記憶から『なかったこと』にした」
東郷は、化粧筆を指揮棒のように振った。
「つまり、今大使館を監視している新しい捜査官たちは、私の『前科』を知らない。
彼らのプロファイルにある東郷一成は『冷徹な軍人』であり、『女装癖のある提督』ではない!
組織の隠蔽体質が生んだ、完璧な情報の空白だ!」
伊藤と南雲は、絶句した。
敵の「恥の隠蔽」さえも利用するのか、この男は。
「それに……」
東郷は、部屋の隅で直立不動の姿勢をとっている橘小百合を見た。
「サイズの問題もある。
伊藤君では背が足りん。南雲君では……顔が怖すぎる。
私の軍服を違和感なく着こなし、遠目から見て私のシルエットを再現できるのは、身長の高い小百合君しかいない」
小百合は、無表情のまま一歩前に出た。
彼女の手には、すでに東郷の第二種軍装(白)が握られている。
「……試着、完了しました。
肩パッド2枚、シークレットブーツ5センチ、胴回りにサラシを巻いて調整。
シルエット誤差、許容範囲内です」
「見ろ、やる気満々じゃないか」
東郷は満足げに頷いた。
「ま、待て小百合ちゃん! 君も止めてくれ!」
南雲が悲鳴を上げる。
「君は陸軍出身だろう! こんな茶番に付き合って、プライドはないのか!」
「……プライドは、任務の遂行を阻害します」
小百合は淡々と答えた。
「それに、東郷大佐の女装技術は、陸軍の変装術教範と比較しても、合理的かつ高度です。
骨格の誤魔化し方、視線誘導のための装飾品の配置……学ぶべき点が多いです」
「学ぶなそんなもん!!」
カオスだった。
日本の命運を賭けた極秘作戦の直前会議は、男物の軍服を着込む美少女と、コルセットを締め上げられる中年男性(東郷)と、それを囲んで絶叫する提督たちという、地獄絵図になっていた。
「ぐっ……! 伊藤君、紐をもっと引け!
ウエストをあと3センチ絞らんと、ドレスのラインが出ない!」
「た、大佐! これ以上は内臓が破裂します!」
「構わん! ターゲットを騙すには、第一印象が全てだ!
圧倒的な『美』と『圧』で、相手の思考を停止させるんだ!
……南雲、貴様もだ! ぼさっとするな、私のカツラの位置を確認しろ!」
「俺は……俺は帝国海軍の軍人だぞ……!
なんで同期の女装の手伝いなど……!」
南雲は涙目でカツラを調整した。
翌日。
大使館の通用門から、一台の黒塗りのリムジンが滑り出した。
後部座席には、豪奢なドレスに身を包んだ、大柄な東洋の貴婦人。
そしてその隣には、執事のような顔をして死んだ目をしている南雲忠一。
門のところで、FBIの捜査官が車を止めた。
「止まれ。……中を確認する」
窓が開く。
濃厚な香水の香りと共に、貴婦人が顔を覗かせた。ベールの奥から、射るような眼光が捜査官を貫く。
「……あら、何か御用かしら?
わたくし、急いでおりますの。船が待っておりますから」
その声は低く、艶やかで、そしてドスが効いていた。
捜査官は、その圧倒的な「何か」に気圧され、思わず後ずさった。
「あ、いや……失礼しました、マダム。どうぞ」
車が走り去る。
捜査官は、同僚に電話を入れた。
「……ターゲット(東郷)ではない。
……なんか、すげえのが通った。東洋の富豪の未亡人か何かだ。関わらないほうがいい」
同時刻、大使館の二階。
窓辺に立つ「東郷大佐(小百合)」が、カーテンの隙間からその車を見送っていた。
彼女は咳き込むふりをしながら、心の中で敬礼を送った。
(……ご武運を、マダム。
……留守は、お任せください)
⸻
時:1930年(昭和五年)、2月末
場所:上海、外灘の裏通り・茶館
その茶館は、銀の暴落で破産した商人たちの怨嗟の声で満ちていた。
一杯の茶をすするにも、以前の倍の銀貨が必要になっている。アメリカのメロン財務長官が放った「銀売り」という爆撃は、この街の繁栄を根こそぎ吹き飛ばしていた。
華僑の大物、林文蘭は、奥の個室で一枚の写真とメモを前に、冷ややかな笑みを浮かべていた。
メモの差出人は、ワシントンの東郷一成。
『……アメリカ人の自信を揺さぶり、彼らの目を“下世話な方向”に向けさせたい。……貴殿らのネットワークで、この“面白い話”を広めてはもらえぬか』
添付されていたのは、ONI(米海軍情報局)の内部から流出したと思われる、一枚の不鮮明な写真。
ホテルの密室で、金髪の美女(米国のハニトラ要員)に対し、着物姿の東洋人(女装した東郷)がショールを掛けてやっている、シュール極まりない構図。
そして、それに添えられたキャプション原案。
『米諜報部の美女、日本武官の“美貌”に敗北! 世紀のハニートラップ失敗劇』
「……ふふふ。傑作だわ」
林文蘭は、扇子で口元を隠した。
「アメリカ人は我々の銀を紙屑にした。我々を乞食同然にした。
……ならば、我々は彼らを“世界の笑い者”にしてやりましょう」
彼女は、部下の新聞屋に指示を出した。
「上海、香港、シンガポール……全アジアのゴシップ紙に載せなさい。
そして、その記事をニューヨークとワシントンのイエロー・ペーパー(三流新聞)に転載させるのよ。
『アメリカの諜報員は、女装した男と女の見分けもつかない節穴だ』とね」
それは、武器を持たない者たちによる、ささやかな、しかし強烈な復讐だった。
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時:1930年(昭和五年)、3月
場所:ワシントンD.C. 海軍情報局(ONI)長官室
ONI長官の執務室は、電話のベルと怒号で爆発寸前だった。
「どうなっているんだ!!」
長官が、朝刊をデスクに叩きつけた。
『ワシントン・ヘラルド』の一面トップ。
『海軍の赤っ恥! 日本の“英雄”に仕掛けられた“夜の罠”』
『税金で雇った美女とシャンパン! 失敗した作戦の責任者は闇に葬られた?』
記事には、左遷されたパーカー中佐たちの実名までリークされていた。
情報は正確すぎる。内部事情を知る者からのリークとしか思えない。
「長官! 議会の軍事委員会から電話です! 『予算がないのに女遊びの金はあるのか』と激怒しています!」
「ホワイトハウス報道官からも問い合わせが! 『これは事実か? 大統領は知らされていないぞ』と!」
「記者団が! 記者団が正門に押し寄せています!」
長官は頭を抱えた。
これは「過去の不祥事」だ。だが、国民にとっては「今のスキャンダル」だ。
不況で苦しむ国民にとって、「軍が税金でハニートラップを仕掛けて失敗した」というニュースは、格好のガス抜き、いや炎上のネタだった。
「……東郷だ。あの男がリークしたに違いない!」
長官は歯ぎしりした。
「全捜査官を動員しろ! 日本大使館を徹底的にマークするんだ!
奴が記者会見を開いて、あることないこと喋りだす前に口を封じろ!」
ONIの機能は、完全に麻痺した。
彼らの目は「日本大使館の表門(東郷が出てくる場所)」と「議会への言い訳」に釘付けになった。
皮肉なことに、彼らが必死になればなるほど、現場の捜査官たちの注意は「スキャンダルの火消し」に向けられ、大使館周辺の物理的な監視の質は低下した。
⸻
時:同日 午前10時
場所:日本大使館・正門前
大使館前は、カオスだった。
「真相を語れ!」と叫ぶ記者団。「税金泥棒!」と叫ぶ失業者。そしてそれを阻止しようとする警官隊とONIの捜査官たち。
フラッシュが焚かれ、怒号が飛び交う。
その喧騒の真ん中に、副官の伊藤整一が現れた。
彼は無数のマイクを向けられながら、悲痛な(演技の)表情で言った。
「……東郷大佐は、今回の報道に深く心を痛めておられます。
体調を崩され、現在はベッドに伏せっておられます。
……医師の診断により、当面の間、一切の面会をお断りします」
カメラが一斉に、大使館の二階の窓に向けられた。
カーテン越しに、パジャマ姿で咳き込む「東郷大佐(小百合)」のシルエットが浮かび上がる。
「おお……可哀想に」
「アメリカの卑劣な罠に、心労が重なったんだ」
同情的な空気が流れる。
誰も気づいていなかった。
その混乱の裏側、大使館の通用門から、一台の黒塗りの車が静かに滑り出していったことを。
後部座席には、派手なドレスを着た、やけに肩幅の広い「貴婦人」。
検問の捜査官は正門の騒ぎに気を取られ、さらに「東郷は病床にいる」という強烈な刷り込みのせいで、その車の中身を詳しく確認しようともしなかった。
「……通していいぞ。ただの金持ちのババアだ」
捜査官は手で合図し、車を通した。
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場所:車内
ワシントンD.C.を抜けた車の中で、東郷一成(女装中)は、ベールを上げて深いため息をついた。
「……やれやれ。華僑の皆さんの『復讐心』は、最高の目くらましになったな」
隣の南雲が、引きつった顔で言った。
「……見事すぎて、空恐ろしいよ。
自分のスキャンダル(未遂)すら武器にして、敵の目を自分(の影武者)に釘付けにするとは」
「これが『情報の柔道』だ」
東郷はコルセットの苦しさに顔をしかめながらも、不敵に笑った。
「敵が強く押してくればくるほど、その力を利用して投げ飛ばす。
ONIは今頃、私の『病床』を見張るのに必死だろう」
車は、レイクハースト海軍航空基地へと向かう。
アメリカ政府が「過去の恥」に振り回されている間に、東郷は「未来の覇権」を握るために、大西洋を飛び越えようとしていた。
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