16%ルール
時:1930年(昭和五年)、春
場所:ロンドン、セント・ジェームズ宮殿・軍縮会議場
円卓を囲む列強の代表たちの間には、目に見えない火花が散っていた。
アメリカ国務長官ヘンリー・スティムソンは、自信満々に提案書をテーブルに叩きつけた。彼はこの一撃で日本の「特型駆逐艦」を封じ込め、これまでの劣勢を挽回せねばならないと信じていた。
「……諸君! 駆逐艦とは本来、水雷艇を駆逐するための小型艦であるべきだ!
しかるに日本が建造している『フブキ・クラス(特型)』はどうだ?
排水量1,700トン、12.7センチ砲6門、強力な魚雷発射管9門。……これはもはや駆逐艦ではない! 『小型巡洋艦』だ!
このような脱法的な艦種が横行すれば、建艦競争は無限に加速する!」
スティムソンは、日本全権団を指弾した。
「よって米国は提案する!
駆逐艦の定義を厳格化し、1,500トンを超える大型駆逐艦の保有量を、駆逐艦総トン数の『16%』に制限する!
これこそが、世界の海に秩序をもたらす唯一の道である!」
スティムソンの視線は、日本全権・若槻禮次郎と、随員の山本五十六に釘付けになっていた。
(これだ。まず日本の『特型』を封じ込める。これ以上作らせない!)
だが、山本五十六は涼しい顔で茶を啜っていた。
反対の声を上げたのは、予想外の方向――イギリス海軍だった。
マクドナルド首相は気まずそうに目を逸らし、隣の海軍大臣アレグサンダーに目配せをした。
アレグサンダーが、咳払いを一つして口を開く。
「……えー、ミスター・スティムソン。
貴国の提案は、理念としては素晴らしい。……だが、我が英国としてはその『16%ルール』には、同意しかねる」
「……は?」
スティムソンの笑顔が凍りついた。
「な、なぜですか!? 日本の特型が脅威なのは、貴国とて同じはずでしょう! 貴国の駆逐艦隊は旧式化しているのですよ!?」
「日本『だけ』なら、そうですな」
アレグサンダーは、苦虫を噛み潰したような顔で、一枚の写真をテーブルに滑らせた。
それは、フランスのブレスト海軍工廠で進水したばかりの、新型駆逐艦の写真だった。
『ル・フブキ(Le Fubuki)級 駆逐艦・一番艦』
「……見ての通りだ。フランス海軍は、日本から購入した特型駆逐艦の設計図と技術供与を元に、同型艦の量産を開始している。
ご存知のように、フランスは今回の条約で『補助艦の制限』には参加しないと言っている。
つまり……フランスは制限なしに、この『特型』を地中海と大西洋に浮かべるつもりだ」
アレグサンダーは、悲鳴に近い声を上げた。
「もし我々が条約で『1,500トン以下の小型艦』に縛られたらどうなる!?
ドーバー海峡や地中海で、我が軍の貧弱な駆逐艦が、フランスの強力な特型に一方的に蹂躙されることになるのだぞ!
……冗談ではない! フランスが特型を持つなら、我々も対抗上、大型駆逐艦(後のトライバル型など)を大量に持たねばならんのだ!」
スティムソンは絶句した。
日本を縛るための鎖が、フランスを経由して、イギリス自身の首を絞めていたのだ。
そこへ日本側全権団の随員、山本五十六少将が涼しい顔で発言を求めた。
「……議長。少しよろしいですか」
山本は通訳を介さず、流暢な英語で語り始めた。
「スティムソン長官は『特型は特殊な艦だ』と仰る。
ですが、日本が持ち、フランスが採用し、今やイギリスもその必要性を認めている。
……これはもはや『特殊(Special)』ではありませんな。
『世界標準(Global Standard)』と言うべきでしょう」
山本は、両手を広げた。
「T型フォードが世界中で走っているように、優秀な工業製品が普及するのは市場の摂理です。
我が国の特型駆逐艦は、フランス政府からも『高性能かつ経済的』と高い評価を頂いております。
……それを『持ちすぎるな』と制限するのは、自由貿易への干渉ではありませんかな?」
「詭弁だッ!!」
スティムソンが叫ぶ。
「兵器と自動車を一緒にするな! これは軍縮会議だぞ! 平和のための会議だ!」
「ええ。ですから」
山本は冷ややかに切り返した。
「世界標準となった1,700トン級の艦を『駆逐艦のスタンダード』として再定義すれば良いのです。
1,500トン以下などという、時代遅れの基準に固執するから話がややこしくなる。
……それにアメリカ海軍の皆様も、本音では特型のような『航続距離の長い大型駆逐艦』が欲しいのではありませんか? 広い太平洋を渡るために」
その言葉に、アメリカ代表団の背後に控えていた海軍軍人(プラット次期作戦部長)たちが、思わず小さく頷いてしまったのを、スティムソンは見逃さなかった。
米海軍もまた「日本を縛るため」に無理やり小型艦を主張していただけで、本音では太平洋を横断できる大型駆逐艦が欲しくてたまらなかったのだ。その金が今あるかは別として。
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時:1930年(昭和五年)、春
場所:ロンドン、セント・ジェームズ宮殿・米国代表団休憩室
ヘンリー・スティムソン国務長官の顔色は、ロンドンの空よりも灰色だった。
彼の手元には、ある「極秘報告書」があった。
報告書(スウェーデン発):
『クルーガー帝国、事実上の日本海軍管理下へ。SKF、エリクソン、グレンゲスベリの支配権が日本へ移動することが確定的に』
スティムソンは、震える指でこめかみを押さえた。
隣に座る海軍次期作戦部長、ウィリアム・プラット提督が、呻くように言った。
「……長官。このニュースが何を意味するか、お分かりですか?」
「……日本が、技術と販路を拡大したということだろう?」
「いいえ! そんな生易しい話ではありません!」
プラット提督は、二つの報告書を重ね合わせた。
「『SKFのベアリング』と『エリクソンの電気技術』。
これを、『特型駆逐艦』に組み込んだらどうなると思いますか!?」
提督は、黒板に荒々しく図解した。
「特型駆逐艦の最大の弱点は、その重武装ゆえの『重量』と『人力操作の限界』でした。
巨大な砲塔は旋回が遅く、荒天時の照準は困難だった。
だが!
SKFの最高級ベアリングとエリクソンの電気制御駆動を使えば、数トンの砲塔が指一本で回るようになります!
エリクソンの堅牢な通信ケーブルと自動電話技術を使えば、船内通信が劇的に強化され、被弾時にも途絶しにくい分散型の通信網が構築されます!
つまり日本は……
『特型』という怪物のリミッターを、スウェーデンの技術で解除してしまったのです!」
スティムソンは息を呑んだ。
単に「強い船」ではない。「超・高性能化した船」が生まれる。
「そして最悪なのは……」
イギリス海軍との連絡将校が、青ざめた顔で入ってきた。
「……フランスが、その『完全版・特型』を欲しがっていることです。フランスは、ワシントン会議で『お前はイタリアと同じレベルな』と格下げされて以来、ずっとイギリスに思うところがあったのです。
今や日本はフランスに対し、船の設計図だけでなく、SKFやエリクソンの部品供給までセットで提案しています。
『日本の設計と、欧州の最高級部品。これらを組み合わせた最強の駆逐艦を作りませんか?』と」
「……なんてことだ」
スティムソンは天を仰いだ。
日本は、自国の軍拡のためにスウェーデンを買収しただけではない。
その技術を「セット販売」の付加価値として利用し、プライドをつけ合わせにして、フランスを完全に抱き込んだのだ。
これでは、アメリカが「特型は特殊な艦だから規制すべきだ(16%ルール)」と主張しても、フランスが「いや、それは素晴らしい技術革新だ。我々も採用する」と言い出せば、議論は成立しない。
「……イギリスはどう出る?」
スティムソンは縋るように聞いた。
プラット提督が、絶望的に首を振った。
「イギリス海軍もパニックです。『共通の敵が死にかけている今、フランスが特型を量産したら、絶対ウチの首(スエズ運河)を絞めに来る』と。
……彼らにとってフランス海軍の増強は、ナポレオン戦争のトラウマを呼び起こす悪夢なのです。
『フランスが“SKF・エリクソン搭載の特型”を持つなら、我々の旧式駆逐艦では太刀打ちできない』と。
……彼らは今、日本代表団(山本五十六)の部屋に走っていますよ。
『ウチにも売ってくれ』と懇願しにね」
会議室の外では、日本の外交官たちが談笑している声が聞こえる。
彼らは武器をちらつかせて脅しているのではない。
「最高品質の商品カタログ」を広げて、顧客(英仏)と商談をしているだけなのだ。
「……軍縮会議ではない」
スティムソンは、報告書を握りつぶした。
「これは……『日本海軍・春の大展示即売会』だ……」
アメリカは、軍縮という「数」のゲームをしていたつもりだった。
だが日本は技術と産業という「質」のゲームに持ち込み、テーブルそのものをひっくり返してしまったのである。
「……そして私が一番絶望しているのは、この大混乱の中で『我らがアメリカ合衆国が、フランスを止める手段を一つも持っていない』ということだ」
彼はカタログの「クリムソン型駆逐艦(平甲板型)」のページを開いて、無造作にテーブルに投げ出した。
「プラット提督。普通、こういう時、超大国アメリカはどうすると思う?
フランス大使を呼びつけて、こう囁くのがセオリーだ。
『フランス君、日本からそんな怪しい船を買うのはやめたまえ。代わりにウチの優秀な駆逐艦を安く売ってやるし、建造費もドルで融資してやろう』……とな」
スティムソンは、自分自身を指差した。
「……だが、今の我々にはそれができない!
なぜなら我々アメリカの駆逐艦は、欧州大戦で作った1,200トンのブリキ缶しかないからだ!
日本の特型(1,680トン・12.7cm連装砲3基)に比べれば、オモチャみたいなスペックだ。フランス海軍に見せれば鼻で笑われるだろうよ」
プラットは呻いた。
「……事実です。
性能で劣る上に、メンテナンス不良でボロボロの我々の駆逐艦を、フランスが欲しがるわけがない。
商品価値がないのです」
スティムソンは、完全に孤立していた。
イギリスはフランス(=日本の技術)に怯えて規制反対。
日本は「ウチの製品は人気商品ですから」と開き直り。
自国の海軍までが「日本の方が正しい(大型艦が欲しい)」という顔をしている。
そして何より、アメリカには今、日本に対抗して建艦競争をする「金」がない。
ここで決裂して無条約になれば、日本とフランス(とイギリス)だけが大型駆逐艦を量産し、アメリカだけが取り残される。
「……分かった」
スティムソンは、心臓の発作を抑えるように胸を押さえた。敗北の味は、鉄の味がした。
「16%ルールは……撤回する。
駆逐艦の定義を……見直そう……」
その瞬間、ロンドン条約の「毒」が一つ抜かれた。
史実において日本海軍を苦しめ、無理な軽量化による「友鶴事件(転覆事故)」や「第四艦隊事件(船体切断)」の原因となった「個艦トン数制限」の呪縛が、ここで消滅したのだ。
これ以降、日本海軍の駆逐艦は無理な設計をする必要がなくなった。
船体を大きくし、重心を下げ、十分な強度を持たせた上で、SKFのベアリングとエリクソンの通信機器を搭載した「完全版・特型」へと進化していく。
そのころ山本五十六は、フランス代表団の控え室を訪れていた。
そこには、上機嫌でワインを開けるフランスの提督たちがいた。
「メルシー、提督。貴国のおかげで、我々はイギリスに一泡吹かせることができた」
「いえいえ」山本は笑った。「良い品(特型)は、良い顧客に使っていただいてこそ輝きますから」
日本は自国の新兵器を「輸出商品」にすることで、軍縮条約の規制を「市場の論理」で粉砕してしまったのである。
日本は特型駆逐艦を堂々と量産できる権利を勝ち取り、英仏は互いに戦力を確保し、アメリカは……ただ、外交的敗北の味を噛み締めた。
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