鬼か仏か(前編)
社殿の段差に足をかけた途端、めまいがした。船にいる時のように体幹が不自由になり、立っているのが辛くなる。刀を支えにしたが、膝をついてしまう。
(くそ……、こんな時に)
俺の体はいよいよ限界に近づいていた。まだ倒れるわけにはいかない。アテナを取り戻すまでは。
「あんた、やっぱり病気なんだな」
瑞角がしゃがみ込んで俺の肩に手を置いた。瑞鳳までも心配そうに立ちすくんでいる。
「酒が切れただけだ。誰か買ってきてくれると助かるんだが」
息が苦しく、言葉も上手く発せない。熱さに耐えかね、ジャケットを脱ぎ捨てた。
「ざまあないね。僕らに帰れって行った癖に、あんたが帰って寝た方がいいんじゃないの。あはは」
瑞鳳の野郎、緊張感のない笑い声立てやがって。ブン殴ってやりたいが、力が入らない。
「ま、病人はそこの日陰で休んでれば。僕らだけで十分でしょ。隠密行動なら得意だしさ」
瑞鳳が自分の刀を肩に担いで渡り廊下を歩きだした。あいつ、どういうつもりだ。
「おい、瑞角……、あの馬鹿を止めろ。一人で行かせるな」
「一人じゃないならいいんじゃないですか」
瑞角が無謀なことを言い出した時は、耳を疑った。
「僕らは竜神様を倒しにきたわけじゃない。花嫁さんを助ければいいんでしょう。それなら望みはある。さっさと行って戻って来ますよ」
可愛くもないウインクを残し、瑞角まで行ってしまった。あいつらに伝えていないことがある。ここにはあの男もいる。神社に足を踏み入れた瞬間にわかった。不確定な要素が多すぎる。危険だ。
肝心な時に足を引っ張るこの神格を呪いながら、一歩ずつ足を踏み出す。
この社殿、歴史のある建物のようだが、木は真新しく、床には砂粒一つ落ちていない。廊下を直角に曲がると、床に座り込んだ瑞角が数十メートル先に見えた。蒼白な顔で、所在なく腕を伸ばしている。不測の事態に茫然自失しているようだ。
俺は肩を落とし、ゆっくり歩いた。瑞角が過呼吸を起こしそうになっていたので、目を塞いだ。
瑞角の正面には大広間があり、神棚が部屋の半分を占めていた。竜の飾りがついた鏡に男が映り込んでいる。その足下にはもう一人が倒れていた。
床に溜まった血が筋を作り、俺の靴まで流れてきた。
血を滴らせた刀を持つのがリヒターで、倒れてぴくりとも動かないのが瑞鳳だというのは一瞬でわかった。
俺は瑞角のように怯えたりしなかった。先手を打つべきか、出方を待つか戦いの準備に専念していた。この最悪の状況を乗り切るにはそれしかないと思った。
「やあ、ショータ。待ってたよ」
憎らしい程の余裕が、冷酷さを際だたせる。横たわる瑞鳳には目もくれない。
俺は冷静でいたつもりだったが、ギリギリの所で踏みとどまっているのは瑞角と同じだ。満杯になったコップにあと一滴でも入れば決壊するように、俺の心も壊れる寸前まで追い込まれていた。
「なんで……、閣下がここに。それにどうして瑞鳳を……、これは何かの夢?」
背後の瑞角の譫言を口にした途端、空気の振動を感じる。俺はリヒターと瑞角の直線上に横っ飛びで割って入った。瑞角を守るための反射的な行動だ。
俺の肩に何かが当たって裂ける。受け身を取って立ちあがって間もなく瑞角が倒れる音が響いた。
「まだだよ、ショータ。君は最後のつもりだったのに」
リヒターの靴音が近づいてくる。俺の傷は浅いが、瑞角は胸の当たりから血を流している。
「それが今回の見返りか、リヒター」
すらりと伸びたリヒターの指が、奴のこめかみに添えられる。俺は押さえていた感情を爆発させた。
「そんなことのために、瑞角たちを。貴様は……、貴様は、そんな小さな男だったのか!」
失われたリヒターの腕が、当然のように生えている。これが出来損ないの偽物だったらまだ救いがあるのに。悪夢だったら許されるのに。現実は悪夢より残酷だ。
「何か行き違いがあるようだ。訂正させてくれ。僕は僕の意志でここにいるんだよ。気づかせてくれたのは君だ」
俺は抜刀し、隙だらけのリヒターに斬りかかる。不意を突いたにも関わらず、奴の刀の腹でたやすく受け止められた。鍔ぜり合いもこちらに分はなかった。力負けし、ゆっくりと押し返される。さらに蹴りを食らって床に叩きつけられた。
「話をさせてくれよ、頼むから。僕はご存じの通り外面だけの卑しい人間だ。それでも許してくれる人間はいるものだ。結果を出している間はそれだけで良かった。君も僕を尊敬してくれた。でも今は違う」
何が違うというのだ。確かに俺はこいつを邪険にしたこともあったが、兄のように慕い尊敬してきた。瑞角だって同じだった。こいつには俺たちの気持ちは届かなかったのか。
「誰も僕を省みない。君もそうだ。神格を縛る邪魔な存在としてしか扱わない」
リヒターは座り込んだ俺の顎を掴み、顔を上げさせる。
「内心君のことが目障りだったよ。どれだけ血で汚れても、清らかさを忘れない。君と僕とは対極の存在なんだ」
美しい鬼と、血で汚れた仏が相対する。俺たちは今日初めて出会った敵のようにいがみ合った。そうか、俺はまた間違えたんだな。だとしても、
「言いたいことはそれだけか」
リヒターの手首を握りしめ、押し退ける。
「お前が俺を憎んでいるのはよくわかった。だが、瑞角たちを傷つけた理由にはなっていない」
「堕ちるところまで堕ちると気分がいいものさ。僕は君を乗り越え、もう一度返り咲く。そのためならどんなことでもしてみせる」
俺の横なぎの一閃は、リヒターの帽子を吹き飛ばした。互いに距離を取り、仕切り直す。俺は太刀を青眼に構えた。桜下絶唱とは別の能力を使う。
「韋駄天欠理」
リヒターに真正面から斬りかかるが、先ほどとは違う。韋駄天欠理は世界から俺の二歩分の時間を消す能力だ。俺は消し飛んだ時間の中を自由に動ける。
一で、柱を斬り、
二で、リヒターの頭上の天井に張り付いて勢いをつけた。
時間が戻る。リヒターがまず目にするのは、きしむ柱だ。俺の姿を感知しても、反撃は間に合わない。
「さすがだ。まだ奥の手を隠しているとはね」
太刀をリヒターの首筋に振るう。空しさで剣が鈍らないようにと祈りながら。
「終わりだ、リヒター。地獄で瑞角達に詫びろ」
勝利は目前かと思った矢先、リヒターが振り返り暗い笑みを浮かべた。
「でも足りないな。三歩なら良かったのにね」
力を隠し持っていたのは俺だけではなかった。リヒターの背中から鋭い棘のようなのものが無数に伸び、俺の体を刺し貫いた。




