第9話 王の器
使者の証を掲げ、キッドとルイセは紫の王国の王都へ足を踏み入れた。
固く閉ざされていた城門が、二人を通すだけの幅に開く。通りの両脇から、民の目が注がれていた。怯え、憎しみ、好奇。そのどれにも応えず、キッドは厳めしい兵たちに囲まれて、王城への道を進んだ。
城の奥へ進むにつれ、空気が張り詰めていく。やがて通されたのは、謁見の間だった。
広間には、兵が隙なく並んでいた。飾りではない。王の命一つで剣を抜き、侵入者に斬りかかる者たちの立ち方だった。
それでも、キッドは不思議と焦りを覚えなかった。背後に、ルイセがいる。それだけで、百の兵に守られているような心地がした。
(……この感覚は、覚えがある)
かつて、背中を預けた友がいた。剣に愛された男、ジャン。あの男と並んで立つとき、キッドは背後を振り返ったことがない。
その友と二人がかりで、ようやく凌いだ相手がいる。その相手が今、自分の背後に立っている。
妙なものだ、と思う。付き合いは、まだ長くない。なのに、あの頃と同じ確かさが、胸の内にあった。
キッドは一つ息を吐き、玉座へ目を向けた。
紫の王国の王、ベリル。
四十代の後半と見える、堂々たる風貌だった。銀の髪が燭台の光を受け、深い瞳には知の色がある。敗色の濃い国の王とは、とても思えない落ち着きだった。
「紺の王国ルルー王女の名代として参りました。軍師を務めております、キッドと申します」
名乗った瞬間、ベリル王の目に、光が走った。
「……キッド、だと」
低く、よく通る声だった。玉座の主は、しばしキッドを見据えていた。
「緑の公国を追われた双翼の片割れが、紺の軍師に収まっていたとはな。……こんなことなら、紺に取られる前に、余が誘っておくべきだったか」
後悔とも、世辞ともつかない言葉だった。キッドは恭しく頭を下げた。背後で、ルイセもそれに倣う気配がする。
「過分なお言葉です。拝謁を賜り、感謝申し上げます」
「この状況で、前置きは要らん。紺の使者としての話を聞こう」
鋭い眼差しに、揺らぎはない。世辞や取り繕いの通じる相手でないことは、一目でわかった。
キッドは、本題に入った。
「我が王女は、これ以上、両国の兵が傷つくことを望んでおりません。それで喜ぶのは、黒の帝国だけです」
言葉を切り、ベリル王の顔を窺う。表情は、動かない。
「国境の件が口実にすぎないことは、お互い承知のはずです。紫が兵を挙げたのは、黒の帝国から民を守るには国を大きくするほかない、そうお考えになってのことでしょう。ですが、このまま両国が削り合えば、帝国に付け入る隙を与えるだけです。王のお考えとは裏腹に、民をかえって危うくすることになります」
「……それは、その通りだろう。では、紺は余に何を求める?」
「これ以上の無益な争いを避けるため、潔く降っていただきたく、参りました」
広間が、どよめいた。
「我らが負けるはずがない!」
「戦は、まだ終わっておらん!」
怒号が飛ぶ。ベリル王は、顔色一つ変えなかった。降伏を求められることは、とうに読んでいたのだろう。玉座の上で、軽く手を上げる。
それだけで、広間は水を打ったように静まった。
見事な統率だった。兵たちが心からこの王に従っていることは、疑いようがない。
「戦わずに負けを認めよとは、ずいぶんと都合のよい話だ。それを言うからには、我が兵と民が呑めるだけのものを、持ってきているのだろうな」
「はい。まず一つ」
キッドは、まっすぐに玉座を見上げた。
「レオス将軍は、生きておられます。捕虜となった兵も魔導士も、手当てを済ませてあります。降っていただけるなら、全員、この地へお返しします」
肘掛けに置かれたベリル王の指が、わずかに握られた。
「……レオスが、生きているか」
それだけだった。だが、その一言に滲んだものを、キッドは見逃さなかった。王の顔ではない。長く背を預けてきた者の無事を聞いた、一人の男の顔だった。
民の不幸を我がことのように嘆き、民の幸せを我がことのように喜ぶ。ルルーの見立ては、正しかったのだろう。
「続けよ」
「はい。降伏を受け入れていただければ、この地は紺の王国の領土となります。ですが、ベリル王には侯爵として、これまでどおり、この地を治めていただきます。軍は紺の国軍として我らの指揮下に入っていただきますが、治安を保つのに要るだけの兵は、お手元に残していただいて構いません。外敵には、我らがあたります。ベリル王には、この地の発展に力を尽くしていただき、領内の収益の一部を、守りの費用として王家へ納めていただければ結構です」
さきほど怒号を上げた兵たちの口から、今度は戸惑いのどよめきが漏れた。
実のところ、ベリル王の治世が続くのと、ほとんど変わらない。攻め込んでおいて敗れた側にとっては、破格と言っていい条件だった。
兵たちの顔に、その意味が染み込んでいく。それを見届けて、キッドは続けた。
「黒の帝国は、もとからの民を一等市民、従った国の民を二等市民、征服した国の民を三等市民として扱っています。その差を固めることで、支配を広げてきました。紫も紺も、このまま削り合えば、いずれ帝国に呑まれるでしょう。そのとき我らが、帝国の民と同じに扱われることは、決してありません」
キッドは、一歩、前へ出た。
「この国の文化も、誇りも、何より民の暮らしも。それを守るには、共に帝国に抗うほかに道はない。……ベリル王、どうかご決断を」
広間に、沈黙が落ちた。
ベリル王は、玉座の上で目を閉じた。
王として生き、国に身を捧げてきた男が、今、何を秤にかけているのか。その重さを、自分が量りきれるとは思わない。キッドは、ただ待った。
やがて、王の目が開いた。
「……それは、キッド殿が王女に進言してのことか」
「いえ。ルルー王女ご自身のお考えです」
ベリル王は、目を細めた。口の端に、笑みとも呼べぬものが浮かぶ。
「甘いことだ。一度は軍門に降ろうと、余は野心を捨てんぞ」
諦めた者の声ではなかった。乱世を生き抜いてきた王の、剥き出しの覚悟だった。
「ルルー王女は、それを承知の上で、あなたにこの地を託すと決められました」
「そのような火種を抱えたまま、この先の乱世を勝ち抜けると、キッド殿はお考えか」
「そのために、俺がいます」
広間の空気が、変わった。
ベリル王の眼光が、ふたたび鋭さを増す。戦場の将の目ではない。政の渦の中で数多の謀を見抜き、玉座を守り通してきた者の目だった。魂の底まで覗き込まれるような視線を、キッドは正面から受け止めた。
退く理由はない。ルルーの選んだ道を、信じている。
どれほどの時が過ぎたか。ベリル王が、ふと目を閉じ、ゆっくりと開いた。そこにはもう、先ほどの圧はなかった。
「……よかろう。我らは紫の王国の名を捨て、紺の王国の傘下に入る」
兵たちが、息を呑んだ。胸の内は、それぞれだろう。それでも、王の決断に異を唱える者は、一人もいなかった。
「……ありがとうございます」
キッドは、深く頭を下げた。礼だけではない。これから共に戦う者への、誓いのつもりだった。
「それにしても、ルルー王女は、恐ろしい者を配下にしたものだ」
キッドは、顔を上げた。
「恐ろしい者? ……俺のことですか?」
「そなたもだが、それ以上に、後ろの者だ」
王の視線の先には、ルイセがいた。いつもどおり、何の色も浮かべていない顔だ。
「余が下手なことを口にすれば、即座にここまで駆け上がり、余を人質に取るつもりでおったな。武器も持たぬのに、喉元に抜き身の剣を突きつけられているような心地だったぞ」
キッドは、言葉を失った。
(降伏勧告の最中に、そんなことを考えていたのかよ……)
振り返ると、ルイセは小さく肩をすくめただけだった。弁解の一つもない。
広間の兵たちに、それらしい様子はなかった。誰一人、気づいてはいなかったのだろう。すぐ前に立っていたキッドでさえ、何も感じなかった。
この女が、気配を漏らすとは思えない。ならば、狙った王ただ一人にだけ、わざと届かせていたのか。
「うまくいって、よかったですね」
ルイセは、世間話でもするように言った。
「……あまり無茶はしてくれるなよ」
キッドは、ため息まじりに返した。
玉座までは、二十歩ほど。ルイセなら、瞬き一つのあいだに詰めてしまうだろう。もし王が別の言葉を選んでいたら――考えるだけで、背筋が冷える。
それでも、責める気にはなれなかった。『キッド君のことは、任せてください』と、天幕で、彼女はルルーに約束した。その言葉を、彼女なりのやり方で果たそうとしていたのだ。胸に浮かぶのは、ありがたさばかりだった。
「無茶はしていません。私は、自分のすべきことをするだけです」
変わらぬ物言いに、キッドの顔が、思わずほころんだ。
「ともかく、ありがとうな」
ルイセは何も言わなかった。ただ、その口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
こうして、紺と紫の争いは幕を下ろした。紺の王国は、ほとんど血を流すことなく紫の王国を併合し、その国土は倍を優に超えた。
だが、真の戦いは、これからだ。
黒の帝国の影は、今も変わらず、この地に迫っている。




