第10話 凪
紫の王都に、キッドはなお留まっていた。
降伏を受け入れたとはいえ、それで二つの国が一つになるわけではない。旧紫の地をどう治めるか。紫の軍を、どう紺の国軍へ組み入れるか。紫の貴族たちを、どう遇するか。どれ一つとして、後回しにできるものはなかった。
本隊を率いたルルーは、発つ前にこの城でベリルに侯爵の位を授け、ひと足先に紺の王都へ戻っている。こちらの後始末は、キッドに一任されていた。
山と積まれた書類の合間を縫って、キッドは紫の城の奥へ足を運んだ。
「レオス将軍を、紺の王都へお招きしたいのです」
執務の間で向かい合ったベリル侯は、すぐには答えなかった。机の上で指を組み、キッドの顔をじっと眺めている。
「……あれを、か」
「騎士団の指南役として、です。紺の騎士には、陣の組み方を知る者がおりません」
「表向きは、な」
ベリル侯の口の端が、わずかに上がった。
「余の手元から、いちばん使える駒を抜いておきたい。そういうことであろう」
キッドは、否定しなかった。この男を相手に取り繕っても、得るものはない。
「両方です」
「正直なことだ」
ベリル侯は、喉の奥で笑った。怒りの色は、どこにもない。むしろ、面白がっているように見えた。
「よかろう。持っていけ。……ただし、あれが首を縦に振ればの話だ。余の命であっても、嫌なことは嫌と言う男でな」
レオスは、城の馬屋にいた。
右の手首には、まだ布が巻かれている。それでも、左手に握った馬櫛で、一頭の栗毛の背を丁寧にすいていた。馬は目を細め、老将の肩に鼻面を押しつけている。
キッドが用向きを告げても、レオスは手を止めなかった。
「陛下は――いや、侯は、何と」
「あんたが首を縦に振れば、と」
レオスは、鼻を鳴らした。
「……あの方らしい」
馬櫛が、馬の首筋を滑る。一往復、二往復。やがて、手が止まった。
「一つ、聞く。なぜ、わしだ。紺には、あの女がいるだろう」
「あいつは、群れを率いて戦うより、一人で斬り込むほうが向いている。戦には陣を組める者が要る。それに、あいつには、そばで守ってもらわないと、俺が死ぬ」
レオスは吹き出したが、すぐに咳払いでごまかした。それから、馬櫛を置いて振り向く。
「この老いぼれに、まだ使い道があるというのならな。……引き受けよう」
そう言ってから、ふと思い出したように付け加える。
「それに、あの女には、まだ一太刀も返しておらん」
「やめておけ」
キッドは、思わず笑った。
だが、その笑みの裏で、別の勘定もしていた。老将の腕を紺の騎士団のために借りる。同時に、野心を捨てぬと言い放った元王の手元から、その手足を一本、離しておく。ルルーの選んだ道を守るのは、自分の役目だ。
栗毛が、名残惜しげに老将の袖を食んでいた。
ルイセがキッドと共に紺の王都へ戻ってから、ひと月が過ぎた。
その朝も、彼女は訓練場に立っていた。馬上の魔導士たちに手本を見せる合間に、訓練場の向こう側へ目をやる。
「盾が低い! 隣の肩を見ろ。お前の盾は、お前一人を守るためのものではないぞ!」
しわがれた声が、朝の空気を震わせていた。
騎士たちが盾を構え、横一列に並んでいる。その前を、レオスがゆっくりと歩いていた。一人の盾を手で押し上げ、別の一人の足の位置を、爪先で直していく。
来たばかりの頃は、騎士たちの目も冷たかった。ついこのあいだまで刃を向け合っていた国の将だ。無理もない。
それが、ひと月でこうなった。
レオスは声こそ大きいが、若い騎士を人前で辱めることはしない。できない者の隣に立ち、できるまで同じことを繰り返させる。できた者には、短く「それでいい」とだけ言い、皺の深い目もとをわずかに緩める。その一言を聞きたくて、騎士たちが背筋を伸ばしているのが、遠目にもわかった。
(……敵の将だった男に、ひと月で)
人のそばへ潜り込む術なら、ルイセも心得ている。身なりを変え、素性を偽り、誰にも気取られずに標的の間近まで寄る。暗殺者の仕事は、つまるところ、それだった。
だが、あの老将がしているのは、そういうことではない。何一つ偽らず、ただ若い者たちの隣に立っている。それだけで、向こうから寄ってくるのだ。目の前の若者たちを、死なせたくない。きっと、それだけなのだろう。
稽古が一段落したらしい。騎士たちに休めと命じたレオスが、こちらへ歩いてくる。
ルイセは、小さく息をついた。用向きは、わかっている。
「軍師補佐殿」
「遠慮します」
レオスが口を開くより先に、ルイセは答えた。
「まだ何も言っておらんが」
「手合わせを願いたい、でしょう。これで七度目です」
「手首は、もう治ったのだがな」
「では、なおさら遠慮します。治ったものを、また斬ることになりますから」
レオスは一瞬、目を丸くした。それから、腹の底から笑った。騎士たちが、何事かとこちらを振り返る。
「八度目は、明日だ」
笑いの残る声でそう言い置いて、老将は騎士たちのもとへ戻っていった。
(……どうして私の周りは、こう、懲りない人ばかりなのでしょう)
一人目は、ウェイトレスだった女を、軍師補佐に据えた男だ。
その男の姿を、ルイセはここしばらく、ほとんど見ていなかった。旧紫の地の始末に追われ、朝から晩まで執務室にこもりきりだと聞いている。
そう思ったところで、訓練場の入り口に人影が差した。
腕に書類の束を抱えたキッドが、あくびを噛み殺しながら立っていた。
「……珍しいですね。書類の山に埋もれて、そのまま化石になったのかと思っていました」
「ひどい言われようだな」
キッドは苦笑しながら、隣に並んだ。目の下に、薄く隈が浮いている。
「旧紫のことは、ようやく目処がついた。今日は、久しぶりに外の空気を吸いに来たんだ」
キッドの目が、訓練場の向こうへ向いた。盾を並べる騎士たちと、その前を歩く老将の背中を、目で追っている。
「たいしたもんだな、あの爺さんは」
「七度、断りました」
「何をだ」
「手合わせを」
キッドが吹き出した。
「そうか。まだ諦めてないのか」
ひとしきり笑ってから、キッドはふと、ルイセのほうを見た。
「そういえば、ひと月、ろくに顔を合わせなかったな」
「そうですか。気づきませんでした」
ルイセは、魔導士たちのほうへ目を戻した。
(二十八日です)
口には出さなかった。出す理由も、ない。
数えていたわけではない。暗殺者の頃からの癖で、日数が勝手に頭に残るだけだ。ただ、それだけのことだった。
「これで、ようやく次に進める」
キッドが、独り言のように言った。
「次、ですか」
「ああ、次だ」
それ以上は、言わなかった。問えば、この人はおそらく答えるだろう。それでもルイセは問わなかった。問わずとも、いずれ、この人の隣で知ることになる。
そこへ、慌ただしい足音が割り込んだ。
「キッド様! こちらでしたか!」
息を切らして駆けてきたのは、王女付きの近衛だった。
「どうした、騒々しい」
「緑の公国から、使者が参られました。ルルー王女が、キッド様にもご同席を、と」
「……緑の公国?」
その名を口にした瞬間、隣の男の気配が、変わったのを感じた。
ルイセは、横目に彼を見る。
この人の顔なら、いくつも見てきた。飄々と笑う顔。子どものように吹き出す顔。紫の兵が動いたと知ったときの、余分なものをすべて削ぎ落とした顔。刃越しに見た、あの夜の顔。
だが、今の顔は、そのどれとも違った。奥歯を噛むような、古い痛みをこらえるような翳りが、そこにあった。
緑の公国を追われた双翼の片割れ。紫の王の口からこぼれたその言葉を、ルイセは覚えている。この人がかつて仕え、そして追われた国だ。
(……いいえ。この人に、こんな顔をさせるのは、国ではない)
この人の目は、いつも国ではなく、人に向いている。ならば、その翳りの先にいるのは、あの国の誰かだ。
そこまで考えて、ルイセは思考を止めた。その誰かが何者なのかは、自分の知るところではない。他人の古傷を、無遠慮に暴く趣味もなかった。
「……わかった。すぐ行く」
短く言って、キッドは踵を返した。書類の束を抱え直す手が、わずかに強張っていた。
その背を追いながら、ルイセの胸に、正体の知れないさざなみが立った。
つい今しがたまで胸の奥にあった、名前のない温かさとは、まるで別のものだった。




