第11話 差し出された手
王の間に足を踏み入れた瞬間、キッドを迎えたのは、重い静寂だった。
玉座の前に、紺のドレスのルルーと、近衛の騎士たちが並んでいる。その視線の先に、一人の騎士の背中があった。
白地に緑の意匠をあしらった軍服。緑の公国の、外交使節の正装だ。肩の上で切りそろえた麦わら色の髪が、窓からの光を受けている。背丈は、ルルーとさして変わらない。それでも、まっすぐに伸びたその背筋を、キッドが見間違えるはずもなかった。
宮廷魔導士だった頃、この背中は、いつもキッドを守るように、その半歩前にあった。
「……コレット」
その名が、知らず口をついて出た。
使者が、弾かれたように振り返る。
「キッド様!」
大きな瞳が、みるみる潤んでいく。こぼれかけたものを、彼女は唇を噛んでこらえた。そして、ぐいと手の甲で目もとを拭うと、再び玉座へ向き直った。背筋を正す。使者の顔だった。
ルルーが、助けを求めるような目でこちらを見た。この国に来て以来、見たことのない困り顔だった。
「キッド様、よく来てくださいました。このかたが、緑の公国の使者として、来られたのですが……」
キッドのすぐ後ろで、ルイセが足を止める気配がした。
使者が、姿勢を崩さぬまま口を開く。
「キッド様もお見えになりましたので、改めて、我が国の言葉をお伝えします」
澄んだ声が、広間に響いた。
「先ごろ、ジャン様が、緑の公国の公王に即位されました」
キッドの胸の奥で、何かが静かに鳴った。
「その即位に伴い、キッド様の名誉は正式に回復され、爵位の剥奪も撤回されました。キッド様は今も、緑の公国の宮廷魔導士です。紫の王国を降した紺の軍師の名が、我が国にまで届き、ようやくその居場所を知ることができました。我が国の宮廷魔導士が、他国に長く留まることは、外交の上でも望ましくありません。貴国には、速やかなキッド様の返還を求めます」
迷いのない口上だった。他国の王女を前にしても、声は少しも揺れない。
ルルーが、すがるようにこちらを見た。
「――と、おっしゃっていて。正式な書状も、お持ちなのです」
キッドは、すぐには答えられなかった。
ジャンが、公王になった。
二年前、罪を一人でかぶって公国を出たとき、それだけを願っていた。あいつなら、いつか必ずそこへ届く。そう信じて、山にこもった。その願いが、今、叶ったのだと知らされている。
そして同時に、帰ってこいと、手を差し伸べられている。
「ルルー王女。少し、彼女と二人で話をさせてもらえませんか」
ルルーが、小さくうなずいた。
キッドは前に出てコレットの腕を取り、広間を出た。背後で、何か言いかけたルルーの声と、ルイセの沈黙が、一緒に遠ざかった。
近くの空き部屋に入り、扉を閉める。
振り返った途端、コレットの顔から、使者の仮面が剥がれ落ちた。
「キッド様……っ」
声が、震えていた。
「ずっと、お探ししていました。二年間、ずっと。ジャン様も、私も。どこにいらっしゃるのか、生きていらっしゃるのかさえ、わからなくて……」
「悪かった。誰にも、行き先を言わなかったからな」
「悪いのは、私です」
コレットは、うつむいた。握りしめた拳が、白くなっている。
「あの日、私はおそばにいませんでした。キッド様の護衛なのに。お一人で集落へ向かわれたと聞いたとき、私は王都で、何も知らずに……。一緒にいたなら、キッド様ではなく、私が行ったのに」
あのときも、同じことを言っていた。処分が下った日、泣きそうな声で、何度も。その声を、キッドは今も覚えている。
「お前のせいじゃない。俺が、勝手に決めたことだ」
「ですから、今度こそ」
コレットが顔を上げた。潤んだ瞳の奥に、芯の通った光がある。彼女は、キッドに向かって、迷いなく右手を差し出した。
「帰りましょう、キッド様。緑の公国へ。ジャン様も、お待ちです」
差し出された手を、キッドは見つめた。
この手を取れば、二年前のすべてが戻る。友の隣へ、慣れた戦場へ、帰ることができる。ジャンが王となった国で、もう一度、あいつと肩を並べられる。
だが、キッドは、その手を取らなかった。
「すまない、コレット」
声が、掠れた。その先を継ぐのに、一呼吸が要った。
「今の俺は、紺の王国の軍師だ。……助けたいと思った人がいる。その人が、まだ何も手にしていないうちに、背を向けるわけにはいかない」
「でも……!」
「緑の公国を見捨てるつもりはない。直に仕えるのとは違う形で、力を尽くす。……ジャンには、おめでとうと伝えてくれ」
コレットは、差し出した手を、ゆっくりと下ろした。
しばらく、うつむいたまま動かなかった。泣くのだろうか、とキッドは思った。
だが、次に顔を上げたとき、そこにあったのは涙ではなかった。
「……いやです」
「いやって、お前な……」
「キッド様がうなずいてくださらなければ、私は使者の役目を果たせていません。ですから、キッド様がうなずいてくださるまで、私はここに残ります」
一歩も退く気配はない。まるでそこが戦場であるかのように、キッドを見据えている。
「それに、キッド様の護衛は、私の役目です。二年分、お返ししなければなりません」
(……変わってないな)
こうと決めたときのコレットを、言葉で引き下がらせるのは至難の業だ。二年前も、そうだった。
キッドは、深いため息をつくしかなかった。旧紫の始末にようやく目処がついたと思えば、また厄介ごとが一つ、増えた。
コレットを城内の客間へ案内させ、キッドは王の間へ戻った。
姿を見せると、ルルーとルイセ、側近たちの視線が、一斉に集まった。キッドは短く、事情を話した。自分は緑の公国へ戻るつもりはないこと。使者は、それでも引き下がらないこと。
話を聞くうちに、強張っていたルルーの顔が、少しずつほどけていった。
「……よかった。キッド様は、この国に残ってくださるのですね」
その声は、安堵に、わずかに震えていた。
「ええ。まだ、何も成し遂げていませんからね」
ルルーが、静かにうなずく。と、背後から、低いつぶやきが聞こえた。
「……命拾いしましたね。人を無理やり軍師補佐にしておいて、自分だけ緑の公国に戻るなどと言い出したら、刺し殺すところでした」
振り返るまでもなかった。声に滲む怒気は、とても冗談とは思えない。
(……聞かなかったことにしよう)
キッドは咳払いを一つして、ルルーに向き直った。
「ルルー王女。ただ、これは好機でもあります」
「好機、ですか?」
「緑の公国と、同盟を結ぶ好機です」
ルルーの目が、見開かれた。
それは、キッドがこの国に来たときから描いていた絵だった。
黒の帝国の南に紺、西に緑。どちらも、単独で帝国と渡り合える国ではない。帝国に勝つには、南と西から同時に攻めるしかない。そのためには、緑との同盟が必要だ。
ただ、これまでの紺は、あまりに小さかった。緑と同じ卓に着くことすら、かなわなかった。だから、まず足場を固めた。紫を降し、国の大きさはかつての倍以上。ようやく対等に話ができる。
そこへ、向こうから使者が来た。話の糸口は、あちらが用意してくれたようなものだ。
「俺が戻らないとだけ答えれば、話はこじれるだけです。ですが、同盟の席で俺の身の振り方を話し合うのなら、ジャンも、公国の貴族たちも、席に着かざるを得ません」
ルルーは、黙っていた。ややあって、顔を上げる。
「私も、参ります」
「……ルルー王女。それは、もはや使者ではありません」
「ええ。ですが、こちらの本気は伝わります。緑の公国は、我が国より大きな国です。その国に、こちらから同盟を求めるのですから、礼を尽くさねばなりません」
ルルーは、キッドの目を見据えた。
「同盟は、国と国の話です。ですが、その根にあるのは、人と人でしょう。こちらの覚悟を示さずに、どうして真意が伝わりますか。……それに、キッド様のお身柄の件も、公王陛下とじかにお話ししておきたいのです」
キッドは、言葉を返せなかった。
雪の山奥に、何度も足を運んできた少女だった。使いの者ではなく、自分の足で。その想いがあったからこそ、今、自分はここにいる。
「……わかりました。一緒に行きましょう。ジャンには、ルルー王女にじかに会ってもらうのが、いちばんかもしれません」
「はい!」
ルルーが、花の開くように笑った。
王の間を出たその足で、キッドは客間へ向かった。扉の前に立つと、向こうから、行ったり来たりする足音が聞こえた。叩くと、ぴたりと止まる。
扉を開けたコレットは、キッドの顔を見るなり、背筋を伸ばした。
「キッド様。考え直してくださったのですか」
「半分だけな」
キッドは、紺の王女が同盟の話をしに、自ら緑の公国へ赴くことを告げた。自分も、それに同行することを。
コレットの瞳が、見る間に輝いていった。
「キッド様が……緑に……!」
「戻るんじゃない。紺の軍師として、同盟の話をしに行くんだ」
「それでも、です!」
コレットは、胸の前で両の拳を握りしめた。
「では、道案内は私が務めます! 帝国の領を避けて通れる道も、宿場も、全部わかっています。それに、道中の護衛も!」
「……ああ。頼む」
どこまでも、まっすぐな娘だった。二年前と、何も変わっていない。
客間を出て、キッドは廊下の窓辺で足を止めた。
西の空が、夕陽に染まっている。
二年前、罪を一人でかぶって、あの国を出た。そして今日、帰ってこいと差し出された手を、取らなかった。
その国へ、今度は自分の足で向かう。紺の軍師として。
あの国には、ジャンがいる。




