第8話 二つの道
キッドは、捕虜と負傷者を、二度目の荷を運んできた補給部隊に託した。ただ一人、敵将レオスの身柄だけを除いて。一軍を預かっていた将だ。後方へ送るより、手元に置いておきたかった。
すべてを終えた頃には、日はすでに西へ傾いていた。その夜は戦場にとどまり、兵と馬を休ませる。
夜が明けると、紺の王国軍は再び東へ動き出した。国境を越え、紫の王国の土を踏む。
道中、敵が態勢を立て直して迎え撃ってくることは、十分に考えられた。だが、斥候が持ち帰るのは、戸を閉ざした村々と、人影の絶えた街道の話ばかりだった。紫の軍勢は、影も見せない。
敵地で迎える最初の夜、キッドは野営地の外れへ足を向けた。
馬をつないだ一角に、見張りの兵に挟まれて、一人の男が腰を下ろしている。白いものの混じった髪を短く刈り込み、日に焼けた顔には深い皺が刻まれていた。右の手首には、真新しい布が巻かれている。男は、つながれた馬たちを、飽きもせずに眺めていた。
「馬が好きなのか」
声をかけると、男――レオスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……紺の軍師殿か」
「キッドだ」
レオスの眉が、わずかに動いた。
「キッド……。緑の公国の、双翼の片割れか」
「昔の話だ」
レオスは名乗り返さなかった。代わりに、顎で馬たちを示す。
「今日は、あまり駆けさせなかったようだな。賢明だ。あの戦のあとで無理をさせれば、三頭に一頭は脚を傷める」
キッドは、思わず目を見張った。行軍の足をわざと緩めたのは、まさしくそのためだった。
「よく見ている。……あの戦でも、あんたは馬の脚を見て、守りに切り替えたな」
「見抜かれていたか」
「読んでいたさ。いい将なら、そうすると」
レオスは、しばらく黙ってキッドを見ていた。やがて、喉の奥で短く笑う。
「なるほど。わしは、初めから、そちらの読みの内で踊っていたわけだ。……相手があの双翼と知っていれば、戦い方も変えていたものを」
「変えていたら、どうした」
「さて。少なくとも、ああもあっさりと、盾の内に籠もりはせなんだ」
自嘲の響きはあった。それでも、負けを認める声に、卑屈さはなかった。むしろ、盤を挟んだ相手に向けるような、負けん気がのぞいている。
レオスは、ふと真顔に戻った。
「送られていった兵たちは、どうなる」
「安心しろ。客人扱いとまではいかないが、騎士の作法は心得ている。城の外へ出すことはできないが、一人も、粗末にはしない」
レオスの目が、キッドの顔の上で止まった。嘘を探す目だった。やがて、その目から、わずかに険が引いていく。
「……そうか」
短く言って、レオスは右の手首へ目を落とした。布の下で、指がゆっくりと握られ、また開かれる。
「あの女に斬られた。だが、見てのとおり、指は動く。腱を、わずかに外してある。剣を落とさせるだけの傷だ。……あの刹那に、狙って、そう斬った」
悔しさより、感嘆に近い響きだった。
「あの女は、何者だ」
「うちの軍師補佐だ」
「それだけか」
「それだけだ」
レオスは、ふっと息を吐いた。それ以上は、問わなかった。
「若い頃は、紫に並ぶ者なしと言われたものだがな。戦場では久しく剣を交えておらなんだとはいえ、一太刀も届かんとは」
夜風が、かがり火を揺らした。馬が一頭、鼻を鳴らす。
キッドは、その横顔へ問いを投げた。
「一つ、聞いていいか。あんたの王――ベリル王は、どういう人だ?」
レオスの目が、すっと細くなった。
「陛下を売れと言うのなら、聞く耳は持たんぞ」
「売れとは言わない。王都を、戦場にしたくない。それだけだ」
しばしの沈黙があった。レオスは、つながれた馬へ目を戻す。
「……陛下は、勝ち目のない戦に、民を道連れにする方ではない」
それだけ言って、口を閉ざした。その横顔には、まだ続きがあるように見えた。
「だが、ただで膝を折る方でもない。それは、覚えておかれよ」
キッドは礼を言い、その場を離れた。背中に、もう視線は感じなかった。老将の目は、再び馬たちへ戻っているのだろう。
(ただで膝を折る方でもない、か)
ほどなくして、紺の王国軍は、紫の王都を目前にするところまで進んだ。
王都の手前、最後となるであろう野営の夜。かがり火が揺れ、夜風が陣幕をはためかせている。
キッドは、ルルーのもとへ向かった。王都へ踏み込む前に、どうしても確かめておかねばならないことがあった。
「ルルー王女、よろしいですか」
草の上に腰を下ろし、水を口に含んでいたルルーが、顔を上げた。
「はい、もちろんです」
慣れない行軍で、疲れは溜まっているはずだ。それでも彼女は、そんな素振りを少しも見せずに微笑んだ。キッドが声をかけると、この少女はいつも、つられてこちらの顔までほころぶような笑みを返す。なかなか、できることではない。
キッドは、その前に膝をつこうとした。それより先に、ルルーが隣の草をぽんぽんと叩いた。ここに座れ、ということらしい。
少々気恥ずかしさを覚えながら、キッドはその隣に腰を下ろした。
「何か、大事なお話ですね?」
見透かされていたか、とキッドは小さく息をついた。
「ええ。これからの方針についてです。俺たちには、二つの道があります」
「二つ、ですか?」
「一つは、このまま戦って、紫の王国を力で取る道です。向こうが城に籠もるか、打って出てくるかはわかりません。ですが、どちらにしても、血は流れます。味方にも、敵にも。その代わり、勝てば紫の王家を排除し、こちらの信頼できる者にこの地を治めさせることができます」
ルルーは黙ってうなずいた。その眼差しは、一国を背負う者のそれだった。
「もう一つは、戦わずに、交渉で終わらせる道です。紫は虎の子の魔導士を失いました。勝ち目が薄いことは、向こうもわかっているはずです」
「ベリル王なら、きっとわかっておいでです。……二度ほど、お会いしたことがあります。民の不幸を我がことのように嘆き、民の幸せを我がことのように喜ぶ。そういうかただと、私は感じました」
キッドの耳に、野営地の外れで聞いた声がよみがえった。勝ち目のない戦に、民を道連れにする方ではない、と。
敵の老将と、この王女。まるで違う場所から見た二つの目が、同じ王の姿を描いている。そしてキッドは、ルルーの人を見る目を疑ったことがなかった。この少女に見つめられると、自分でも見えていない心の底まで、見透かされている気がするのだ。
「なら、交渉の目は十分にあります。ただ――向こうに、それなりの実を残さなければ、話はまとまらないでしょう。問題は、ベリル王の力をどこまで残すかです。爵位を与えて紫の王都から離せば、王も民も納得しない。かといって王都に残せば、いずれ力を蓄えて、牙を剥くかもしれません」
それが、キッドの悩みどころだった。
戦えば、勝つのは紺だ。その自負はある。しかし、ここで両国が兵を削り合えば、その隙を待っているのは黒の帝国だ。失った兵を立て直すには、時がかかる。その隙を突かれれば、防ぎきれない。だからこそ、戦わずに降すのが最善だった。
とはいえ、落としどころを誤れば、ルルーの足もとが揺らぐ。ベリル王の力を残しすぎることだけは、避けねばならなかった。
「でしたら、ベリル王には侯爵の位をお渡しして、これまでどおり、紫の地を治めていただきましょう。それなら、兵も民も、不満は抱かないはずです。領地の収入の一部をこちらへ納めていただければ、私たちにも利があります」
キッドは、言葉を失った。
考えていたなかでも、最大の譲歩だった。この条件なら、ベリル王が首を縦に振る見込みは、極めて高い。
同時に、危うい賭けでもある。統治を任せれば、最低限の兵を持つことも認めざるを得ない。いずれ力を整えて背かれれば、黒の帝国どころではなくなる。まして、帝国と手を結ばれでもすれば、紺は終わる。
「……ルルー王女。それでは、もしベリル王が背いたとき、抑えが利きません」
「構いません。そのときは、私がその程度の器だったということです。たとえそうなっても、キッド様の責任ではありません。すべて、私が負います」
赤茶色の瞳が、揺るぎなくキッドを見つめていた。
キッドは、その瞳を見返したまま、続く言葉を呑み込んだ。この主の決断は、もう覆せない。
ならば、自分のすべきことは一つだ。彼女の望むとおりに事を運び、その上で、誰一人として彼女に背かせない。そのために、持てるすべてを尽くす。
「……わかりました。その条件で、交渉にあたります」
「はい。よろしくお願いしますね」
そう言って、ルルーはいつものように微笑んだ。
東の空が白み始めると、紺の王国軍は野営を払い、紫の王都を望む丘へ進んで陣を張った。
城門は固く閉ざされ、城壁の上には兵の影が並んでいる。それでもなお、紫の軍は打って出てこなかった。
籠城の構えだった。王都を傷つけてでも戦う意志がある、とも見える。だが裏を返せば、敗戦の報を受け、野戦ではもはや勝てぬと冷静に見切ったということでもある。頭に血を上らせて城を飛び出す者は、あの城にはいないらしい。
(交渉の余地は、ある)
問題は、誰が使者としてベリル王のもとへ赴くかだった。
両国の行く末を決める交渉になる。周りはすべて敵という場で、ルルーの真意を損なわずに伝え、一国の王と対等に渡り合える者でなければならない。
陣の奥に張った天幕の中で、ルルー、キッド、ルイセの三人が向かい合う。
「私が、直接交渉に参ります」
沈黙を破ったのは、ルルーだった。その真剣な眼差しに、キッドは顔をしかめる。
「ルルー王女、さすがにそれは無謀です。あなたが人質に取られでもすれば、形勢が引っくり返りかねない。それは、王女ご自身もおわかりのはずです」
ルルーは唇を噛み、視線を落とした。胸の内が、つい口をついて出たのだろう。その危うさは、彼女自身がいちばんよくわかっているように見えた。
「……ですが、交渉が破れれば、王都は戦場になります。それだけは、避けたいのです。ベリル王を説くには、私の思いを、ありのままお伝えしなければ……」
「ならば、俺が行きます」
キッドは即座に言った。
「待ってください!」
今度はルルーが、慌てたように制した。
「俺では、王女の思いを伝えきれないとお考えですか?」
「そうではありません!」
否定の声には、強い熱がこもっていた。キッドを見上げる瞳が、揺れている。
「キッド様に、何かあったら……私は……」
震える声だった。王女の理ではない。一人の少女の、ありのままの怯えだった。
「俺なら大丈夫です。魔導士としての俺の力は、ご存じでしょう。それでも、不安ですか?」
「……そんなことは、ありません。ですが……」
ルルーは、その先を継げなかった。キッドの力を疑っているのではないのだろう。信じることと、案じることは、一つの胸に同時に宿る。
うつむいたままの王女を前に、キッドは困り果てて眉を寄せた。
そのとき、黙って二人のやり取りを見ていたルイセが、静かに口を開いた。
「ルルー王女。ならば、私が護衛として、キッド君に同行します。何かあっても、私が必ず、キッド君を逃がしてみせます」
「ルイセさん……」
ルルーが、ゆっくりと顔を上げた。
この王女は、ルイセがかつて何と呼ばれていたかを知っている。キッドが、その口で告げた。
もっとも、その刃が振るわれるところを、間近で見たことはない。先の戦でも、本隊の後ろから、崩れていく鉄の壁を遠く望んだだけだ。
ルルーの瞳が、ルイセの黒い瞳をまっすぐに捉えた。何かを確かめるような、長い一瞬だった。
「……わかりました。キッド様とルイセさんに、お任せします。その代わり、お二人とも、無事に戻ってきてください。それが条件です」
「はい。必ず、交渉をまとめてきます」
「キッド君のことは、任せてください」
支度のため、キッドとルイセは連れ立って天幕を出た。
「助かったよ。ルイセが、嘘でも俺を逃がすと言ってくれたから、王女も納得してくれたんだろう。剣の腕じゃ、俺はお前の足もとにも及ばないからな」
軽い調子で言って、キッドは肩をすくめた。
返事がない。隣を見ると、そこにルイセの姿はなかった。振り返れば、彼女は数歩後ろで立ち止まり、じっとこちらを見つめている。
「……どうした?」
「嘘ではありません」
鋼のように、揺るぎのない声だった。
一瞬、何の話かわからなかった。すぐに、自分の言葉を思い出す。嘘でも、と言ったのは、ほかならぬ自分だ。
「いや、でも、城の中には何百という兵がいるんだぞ。そこを、たった二人で――」
ルイセの目は、微動だにしなかった。
ありえないはずの光景が、脳裏をよぎった。群がる兵のあいだを、指一本触れさせずにすり抜け、斬り伏せていくルイセの姿。鉄の壁の内側で、彼女が何をしてのけたかを、キッドはもう知っている。それが、ただの絵空事とは思えなくなっていた。
「……まあ、無事に戻れるよう、うまく話をまとめるさ。けど、万が一のときは――頼む」
「はい」
短く答えたルイセを残し、キッドは自分の天幕へ向かった。
遠ざかっていくその背を、ルイセは黙って見送った。
逃がしてみせる、と言ったのを、この人は王女をなだめるための方便と受け取ったらしい。
(私はともかく、あなただけは逃がしてみせます。……絶対に)
支度を整えた二人は、紫の王都の城門へ向かって歩きだした。
ルイセの腰に、白と黒の双剣はない。使者に、刃は要らない。
出陣の朝、ルイセはこの人に、紫の王の暗殺を申し出た。この人は、それを拒んだ。
その王のもとへ、今、刃を持たずに向かっている。
腰の軽さを、不思議と心許ないとは思わなかった。




