第7話 殻を穿つ
馬上のキッドは、旋回を続ける魔導士たちの向こうに、敵陣の変化を見て取った。
紫の王国軍の動きが、止まったのだ。
それまで、四方から降りそそぐ魔法に右往左往していた重装歩兵が、ぴたりと足を止めている。前列が盾を地に突き立て、後列がその上に盾を重ねる。隙間という隙間が、鉄で塞がれていく。中央の魔導士たちも、こちらを狙うのをやめていた。代わりに、狙いも定めず、殻の真上へ魔法を放ち続けている。炎と氷が絶え間なく交差し、空に幕を張っていく。飛び込んでくる魔法を、空で食い止めるための幕だ。
鉄の殻に籠もった、巨大な亀。それが、今の紫の王国軍だった。
「……持久戦に切り替えたか」
キッドは、思わず唸った。
初めて目にする戦法に、あれほど乱れていた軍だ。それを、この短いあいだに落ち着かせ、損耗を承知で守りに徹させた。
しかも、こちらの泣きどころを正確に突いている。機動魔導士は、いつまでも駆け続けられるわけではない。守りを固めて耐え抜けば、先に尽きるのはこちらのほうだ。
敵将は、それを見抜いたのだろう。
いい将だ、とキッドは思う。そして――だからこそ、この一手を選ぶと読んでいた。
キッドは、すぐ後ろを駆けるルイセを振り返った。
「ルイセ、お前の出番だ。俺が隙をつくる。……見逃すなよ」
答えはなかった。ただ、ルイセの馬が隊列を離れ、まっすぐに鉄の壁へ向かって駆けだした。
一騎だけで、重装歩兵の壁の真正面へ。
駆ける馬の上で、ルイセが鞍に足をかけた。身を低く屈め、脚をたたむ。跳びかかる前の獣のように、その身体が力を溜めていく。手綱だけは片手に残し、馬の進む先を寸分も狂わせない。
キッドは、正面の右寄り、盾の継ぎ目へ手を向けた。間を置かず、爆裂球を三つ。一つ目と二つ目は、空の幕に呑まれた。三つ目が、継ぎ目で爆ぜる。盾が歪み、何人かの重装歩兵がたたらを踏んだ。壁に、刹那の揺らぎが走る。
壁まで、あと数歩。ルイセは、その揺らぎを逃さなかった。溜めた力が、一気に解き放たれる。鞍を蹴った身体が宙に躍り、歪んだ盾の上を越えていく。宙で抜かれた白と黒の刃が、一瞬、陽を弾いた。
そして、その姿は鉄の壁の向こうへ消えた。
キッドは、奥歯を噛んだ。
心配がないと言えば、嘘になる。それでも、キッドは手綱を返した。ここで自分がすべきことは、彼女の身を案じることではない。彼女が開くものを、待つことだ。
「魔導士隊は射程の外へ下がって息を整えろ! 騎兵はその守りにつけ!」
言い置いて、キッドは本隊へと馬を走らせた。
レオスは、己の判断が正しかったことを確信しつつあった。
盾を叩く音が、まばらになってきている。頭上で砕ける炎や氷も、明らかに数を減らしていた。
「将軍、このまま耐えるだけで、本当に……」
不安げな副官に、レオスは頭上から目を離さぬまま答えた。
「耐えればよい。魔導士の魔力には限りがある。だが、それより先に尽きるのは、馬の脚だ」
盾を閉ざす前に見た、敵の馬を思い出す。その首筋の汗が、白く泡立ち始めていた。
若い頃、騎馬で幾多の戦場を駆け巡った。馬がどこで息を上げ、どこで潰れるか、この身が覚えている。人を乗せて全力で駆け続けられる時間など、たかが知れているのだ。
こちらの損耗も軽くはない。それでも、耐え抜きさえすれば、最後に立っているのは紫の王国軍だ。
五十の坂を越え、自ら斬り結ぶことをやめ、兵を率いる側に回ってから久しい。戦場の風を読む目までは、衰えていない。レオスは、そう自負していた。
そこへ、悲鳴が上がった。
敵の魔法ではない。壁の内側からだった。
「将軍! 内側に、敵が一人――!」
一人。その報告の意味を、レオスはすぐには呑み込めなかった。
目を向けた先で、重装歩兵が崩れ落ちていた。鎧は割れていない。それなのに、一人、また一人と、糸の切れた人形のように、膝から落ちていく。
その中心に、女がいた。
紺の軍服に、胸当て一つ。両の手に、白と黒の剣。
重装歩兵が振り下ろす鉄の刃を、紙一重でくぐり抜ける。
すれ違いざま、鎧の継ぎ目へ刃を吸わせる。膝の裏。脇の下。兜と襟のわずかな隙間。刃が入るたび、また一人、鉄の塊が地に沈んだ。
囲もうとする兵のあいだを、女は風のようにすり抜けていく。囲んだと思ったときには、もう囲みの外にいる。
レオスの背を、冷たいものが這い上がった。
見知らぬ女だった。紺の王国に、これほどの使い手がいるという話は聞いたことがない。名のある騎士ですらない。まして、女だ。細身の、まだ若い女だ。うなじで一つに束ねた黒髪が、身を翻すたびに跳ねている。
だが、肌が粟立っている。数え切れぬ戦場をくぐり抜けてきたこの身が、あれは侮ってよい相手ではないと告げていた。いや――侮れば、死ぬ。
壁は、外からの攻めには鉄壁だ。しかし、内側から継ぎ目を断たれれば、脆い。一箇所が崩れれば、そこから紺の歩兵がなだれ込む。そうなれば、この陣は終わる。
あの女を止めねばならない。そして、この場であれを止められる者がいるとすれば――
「将軍!?」
副官の声を背に、レオスは剣を抜いていた。
久しく人と剣を交えていない身でも、かつて紫の王国に並ぶ者なしと謳われた腕だ。重装歩兵の陣を割って進み、女の前へと立ちはだかる。
女が、足を止めた。
息一つ乱れていない。こちらを見る目に、怒りも昂りもなかった。ただ、測っている。そういう目に見えた。
「紫の王国軍将軍、レオスだ。……名を聞こう」
名乗りにも、問いにも、女は応えなかった。
侮りは、ひとかけらもない。レオスは初手から、全霊を込めて踏み込んだ。
長年の鍛錬が、身体に刻み込んだ一撃。袈裟に斬り下ろす刃は、並の騎士なら剣ごと叩き斬る。
その刃が、空を斬った。
女は、半歩しか動いていない。なのに、刃はかすりもしなかった。
返す刃で、横に薙ぐ。女の身体が沈む。頭上を刃が過ぎる。
突く。女の肩が、半身に開く。切っ先が、その脇を虚しく抜けていく。
読まれている。
踏み込みの深さも、刃の軌道も、次の一手さえも。剣を振るう前から、すべてを見透かされている。
レオスは、歯を食いしばって剣を振るい続けた。一度でいい。一度、この刃が届けば――
ふと、女の姿が視界から消えた。
次の瞬間、右の手首に熱が走った。剣が、指から離れていく。鈍い音を立てて、地に落ちた。
振り向く暇もなかった。背後から、剣を握ったままの腕が首に巻きつく。首の両脇を、細い腕が締め上げてくる。
振りほどこうとした手に、力が入らない。視界の端から、暗いものが滲んでくる。
(殺さ、ない……のか……)
狭まっていく視界の向こうで、鉄の壁が崩れていく。崩れた継ぎ目の外から、地鳴りのような鬨の声が迫ってきた。
それを最後に、レオスの意識は途切れた。
敵陣の中央が、波打った。
整然と固まっていた重装歩兵の動きが、目に見えて乱れ始める。命令が途切れたのだ。指揮を執る者が、いなくなった。
ルイセが、楔を打ち込んだ。
「全歩兵、突撃! 正面の右寄り、崩れた継ぎ目を突け!」
キッドの号令に、待ちかねていた歩兵たちが一斉に駆けだした。
訓練で叩き込んできたとおりの動きだった。隊列を崩さず、一つの塊となって、ルイセが断ち切った継ぎ目へなだれ込む。
退がりかけた魔導士隊も、騎兵に守られながら再び前へ出て、残る力を振り絞って援護の魔法を放った。
内と外から圧を受けた紫の王国軍は、もはや殻を保てない。要であった重装歩兵の陣形が食い破られ、瓦解したその時点で、勝敗は決していた。
――紺の王国、死者なし。重傷者、十名にも満たない。
完全な勝利だった。
「お見事です、キッド様」
熱がようやく引き始めた頃、ルルーが馬を寄せてきた。
「いえ。この国の騎士や魔導士たちが、優秀だったおかげです」
手綱を軽く引きながら、キッドは答えた。謙遜ではなく、本心だった。
追放された余所者の魔導士に、偏見なく従う。それがどれほど得がたいことか、キッドは誰よりも知っていた。
「ふふ、ありがとうございます」
自国の兵を褒められ、ルルーは花がほころぶように笑った。
その笑顔を見て、キッドは思い当たる。――兵がこうも誠実なのは、この王女がそうであるからだ。
剣を振るうことはなくとも、彼女は戦っていた。前線に立たずとも、後ろから兵を鼓舞し、支え続けている。力を持たぬ己に何ができるかを、彼女はいつも考えているのだろう。
(……俺がこうして戦えるのも、あなたのおかげですよ)
「キッド君」
声に振り向くと、ルイセが歩いてくるところだった。単身で敵陣の只中へ斬り込んだというのに、その身には、傷ひとつ見当たらない。
「ルイセ、よくやってくれた。お前が壁を割ってくれなければ、こうはいかなかった」
「いえ。あのくらい、たいしたことはありません。……あなたがたと戦った夜に比べれば」
シャドウウィンドと呼ばれた彼女と刃を交えた夜の記憶が、脳裏をかすめる。
(……ルイセが敵じゃなくて、本当によかった)
「敵将は、生きています。捕らえた魔導士も、全員まとめてあります。負傷者の手当ても、あらかた終えました。……敵の分も含めて」
その報告に、キッドはうなずく。
敵であっても、戦が終われば無益に命は奪わない。手当てを施し、いずれは領民として迎える――それが騎士の作法であり、戦のあとの秩序を保つための知恵でもあった。侵した土地の民を、いたずらに損なうのは愚策にすぎない。
これだけの魔導士を失えば、紫の王国の戦力は大きく削がれる。魔導士は一朝一夕に育つものではない。立て直しは、そう容易ではないはずだ。
「ただ、思ったより捕虜の数が多くて……。管理に兵を割くのはともかく、食料のほうが、少し厳しいかもしれません」
「それなら、心配いらない」
こともなげな答えに、ルイセが目を瞬いた。
そこへ、伝令が駆け寄ってくる。
「キッド様! 後方に、味方の旗です!」
地平の彼方に、紺色の旗を掲げた一隊が姿を現していた。荷を満載した馬車の列が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
出陣の前に、城に残る文官長へ預けてあった指示書の段取りどおりだった。本隊から半日遅れで、二度目の荷を送り出すこと。その量は、捕虜を抱えることを見越して、多めに積むこと。
「……勝てば、捕虜が出る。負ければ、荷は要らない。どちらに転んでも、無駄にはならないだろう」
ルイセが、呆れたような、感心したような、なんとも言えない目でこちらを見ていた。
キッドは、空を仰いだ。隣に控える王女とルイセ、そして城で国を支える者たち。その顔ぶれが、胸をよぎっていく。
(俺はつくづく、人に恵まれている)
憂いは、もうない。
国を守るために出た軍だった。だが、城へは引き返さない。この軍のまま、敵の王都へ攻め上がる。




