第5話 出陣
紫の王国の動きを誰より早く掴んでいたキッドは、隊商の文が届いたその日から、軍に備えを命じていた。おかげで、出兵の支度は驚くほど速く進んだ。
兵たちは瞬く間に戦支度を済ませ、夜明け前の軍議から、日が高く昇るより早く、軍勢は出陣の態勢を整えていた。補給の段取りも、指示書にまとめて、文官長に預けてあった。
自室に戻ったキッドは、軍服の上に革の胸当てを着けた。騎士のような重い鎧はまとわない。魔導士たちにも、自分と同じく軽装を命じてあった。
部屋を出ると、廊下の先でルイセが待っていた。
「キッド君。魔導士隊も騎士団も、支度は済みました。すでに広場に整列しています」
報告するルイセもまた、軍服の上に胸当てを着けていた。腰には、二振りの剣を下げている。白と黒の、独特の反りを持つ双剣。――その剣に、キッドは見覚えがあった。
あの夜、闇の中から幾度となく喉元へ迫った刃だ。二人がかりでようやく凌いだ、シャドウウィンドの剣。忌まわしくもあり、同時に、その切れ味にだけは疑いを挟む余地のない剣だった。
とうに捨てたはずの名の、その剣を、彼女は今日、選んで腰に下げている。それが何を意味するのか、問うまでもなかった。
「わかった。魔導士たちを、頼んだぞ」
「ええ。承知しています」
短い返事に、気負いはなかった。いつも通りの、平らな声だ。それがかえって、キッドには頼もしかった。
「じゃあ、先に広場へ行っていてくれ。俺は、ルルー王女に挨拶をしてくる」
「わかりました」
ルイセはうなずくと、足早に廊下の向こうへ消えた。
その背を見送って、キッドは王の間へ足を向けた。
負けるつもりはない。それでも、戦場へ出る以上、しばしの別れになることだけは確かだった。発つ前に、ひと言だけでも交わしておきたい。
だが――王の間は、もぬけの殻だった。
「……あれ?」
兵たちを見送るために、先に広場へ出たのだろうか。首をひねりながら、キッドもそちらへ向かった。
広場へ続く通路の出口で、足を止める。目を走らせたが、王女の姿はなかった。
代わりに目に入ったのは、整然と列をなす騎士と魔導士たちだった。魔導士たちの先頭には、ルイセの姿がある。
彼女を除けば、この国の兵にとって、これが初めての本格的な戦だ。短い期間ながら、実のある訓練は積んできた。腕が上がったことは、彼ら自身も感じているはずだ。それでも――いや、それだからこそ、どの顔にも、緊張の色が濃く滲んでいた。
「無理もないか……」
キッドは、小さく息を吐いた。
緊張は、判断を鈍らせる。訓練で身につけた動きさえ、硬く縛ってしまう。力を出し切れぬまま散っていった兵の例など、歴史をひもとけば枚挙にいとまがない。
敵と相対するまでに、この固さをどれだけほどいてやれるか。
「……なんとかするしかないよな」
自分に言い聞かせ、通路を出ようとした、そのとき。
「キッド様!」
背後から、澄んだ声がかかった。もうすっかり耳に馴染んだ声だ。ようやく挨拶ができる――そう思って振り返ったキッドは、次の瞬間、目を見開いた。
ルルーが、鎧をまとって立っていた。
白く磨かれた胸甲に、紺の縁取り。くせのある栗色の髪を、紺のリボンでひとつに結んでいる。この国の色をまとった、小柄な騎士の姿。光を受けて柔らかく輝くその立ち姿が、ほんの一瞬、キッドの目には、神話の女神のように映った。
(……張り切って部屋へ走っていったのは、これか)
「……ルルー王女。その格好は、何ですか」
「似合いませんか?」
似合うかどうかは、この際、問題ではない。キッドは、思わずこめかみを指で押さえた。
王女は城で、勝利の報せを待っていてくれればいい。鎧など、まとう必要はまったくないのだ。
「……似合ってます。似合ってますが、どうしてそのような格好を」
「これから戦場へ赴くのですから、鎧を着るのは当然かと思いますが」
「…………」
「…………?」
言葉を失うキッドを前に、ルルーは微笑んで小首をかしげた。
「……今、戦場へ赴くと聞こえた気がするのですが」
「はい。そう言いましたよ」
「……誰が、戦場へ行くのですか」
「もちろん、私が、ですよ」
王が戦場に出るなど、ふつうは考えられない。とはいえ、例がないわけではなかった。ジャンなら、たとえ公王の座に就こうと、迷わず剣を取って最前線に立つだろう。白の聖王国の先代聖王もまた、自ら前線に出ていたと聞く。
しかし、ルルーは剣も魔法も扱えない。王女であることを除けば、戦場では一人の少女にすぎない。守る手間が増えるばかりか、戦況を乱す種にすらなりかねなかった。
「ルルー王女。俺たちは物見遊山に行くわけではありません。命のやり取りをしに行くんです。王女は城で、吉報を待っていてください」
諭すような言葉に、ルルーは目を閉じた。
数拍の沈黙のあと、ふたたび開く。澄んだ瞳が、正面からキッドを捉えていた。
「キッド様。私は、剣も魔法も使えません。戦場に立っても、戦力としては何の役にも立たないでしょう。ですが、私は王女です。兵たちが王女に向ける想いは、わかっているつもりです。その私が戦場に立てば、兵たちの心は奮い立つはずです。……見てください」
ルルーの視線が、通路の先――広場に並ぶ兵たちへ向く。
「皆、これから命を懸ける戦を前に、怯えています。ならば、私を使ってください。戦力としては使えなくとも、王女としてなら、使い道があるでしょう」
「ルルー王女……」
キッドは、己を恥じた。王女であることを除けば、一人の少女にすぎない――たった今、そう考えた自分を。
違う。この子は、とっくに王の覚悟を、骨の髄まで宿している。雪の中に立ち尽くした、あの日から。
止められない。いや、止めるべきではないのだ。
「……わかりました。共に参りましょう」
「はい」
力強くうなずいたルルーの顔は、もう、いつものあどけない少女のものに戻っていた。
キッドはルルーを伴って通路を抜け、整列する兵たちの前へ進み出た。
鎧姿の王女を認めた瞬間、列にどよめきが走る。王女がこの戦に加わるなど、誰一人、思いもしなかったのだろう。
600の顔を、キッドはゆっくりと見渡した。
緊張は、確かにいくらか薄れて見える。だが、驚きが緊張に取って代わっただけだ。浮き足立った兵を、戦場へは連れていけない。
キッドは、腹の底から声を張った。
「聞いてくれ!」
ざわめきが、ぴたりとやんだ。
「敵は、およそ900。こっちは600だ。数じゃ、向こうが上だ。……だから、まともにはぶつからない」
列の何人かが、顔を見合わせた。
「魔導士隊。お前たちはこのところ、尻の皮が剥けるほど馬に乗らされた。騎士団。剣を振るより先に、走り方ばかり叩き込まれた。何のためだったのか、今日わかる」
列のどこかで、小さく笑いが漏れた。
「それから、俺は後ろでふんぞり返って指図する軍師じゃない。魔導士隊の先頭で、お前たちと一緒に駆ける。いちばん危ない場所には、まず俺が行く。……俺の策は、お前たちが最後まで走り続けて、初めて成り立つ。だから、倒れるなよ」
『おおっ!』
呼応して、兵たちが声を上げた。その勢いを逃さず、キッドは続ける。
「それと、もう一つ。……見ればわかるな。ルルー様が――自ら、この戦場に立つと決められた!」
打ち合わせていたかのような間で、ルルーがすっと一歩、前へ出た。
「皆さん」
澄んだ声が、広場に染み渡っていく。
「私は、剣も魔法も使えません。この国は小さく、兵の数でも紫に及びません。……それは、私がいちばんよく知っています」
兵たちが、息を詰めた。
「ですから、私は、勝つ道を描ける軍師を探しました。誰も死なせずに勝とうとする軍師を。そして、その人は、勝つと言ってくれました」
ルルーは、並んだ顔を、端から端まで見渡した。
「私にできるのは、共に立つことだけです。ですから、立ちます。皆さんにだけ、命を懸けさせはしません。……戦が終わったら、皆さんと一緒に、この広場へ帰ってきます。一人も欠けずに。それが、王女としての、私の願いです」
その姿は、もう年端もいかない少女には見えなかった。
兵たちの目にも、己の命を預けて悔いはない――そう思わせる王の姿が、映っているのだろう。
広場に静寂が落ちる。熱をはらんで張り詰めた静寂が。
「……ルルー様!」
列のどこかから、声が上がった。
「必ず、共に帰りましょう!」
「王女様は、俺たちがお守りします!」
声が、列から列へと渡っていく。やがてそれは、一つのうねりになった。
『おおおおっ!』
雷鳴のような歓声が、広場を揺るがした。兵たちの顔から、緊張も動揺も、きれいに拭い去られている。
(……俺が何かするまでもなかったな)
旗として掲げるつもりでいた。その旗が、自ら風を掴んで、掲げた者より高くはためいている。そんな心地だった。
(あなたに仕えたことを、誇りに思いますよ。――必ず、勝たせてみせます)
キッドは胸の内で、改めてルルーのために勝利を誓った。
こうして、歩兵450、騎兵100、魔導士50――計600の紺の王国軍が、戦場へ向けて進軍を開始した。
対する紫の王国軍は、およそ900。数の上では、覆しようのない差だった。
それでも、この軍に、俯く者は一人もいなかった。




