第3話 借りものの温もり
その朝、魔導士たちの訓練場に立っていたのは、ルイセだった。
あの日のウェイトレスの制服は、紺の軍服に変わっている。着慣れぬ布の感触が、まだどこか、他人のもののようだった。
「手綱に気を取られすぎです。一度、やって見せます」
並んだ魔導士たちへ短く言い置くと、ルイセは軽く馬を駆った。
馬上の身体に、無駄な力みはない。長く、そうして生きてきた者の動きだった。
流れるように片手を掲げ、ひと言、発動の言葉を落とす。
次の瞬間、その指先から、炎の牙が生まれる。空を裂いて奔った紅蓮の軌跡が、魔導士たちの瞳に焼きついた。
「おおっ……!」
どよめきが上がる。向けられていた視線が、一斉に熱を帯びた。その熱が、ルイセにはどうにもむず痒い。
魔法を見せて、こんな目を向けられたことはなかった。
暗殺者だった頃、刃を手にした自分に向けられる顔は、恐れか、怯えか、憎しみか。そのどれかでしかなかった。
違う顔を初めて見たのは、暗殺者をやめてからだ。食べていくために、たまたま人手を探していた店に入った。皿を運び、ナイフとフォークを添える。刃物を手に卓へ寄っても、客は怯えなかった。笑って、礼さえ言った。
嬉しかったわけではない。ただ、まぶしかった。なぜ、そんな顔ができるのか。わからないまま、街を移っても、同じ仕事を探した。
今、向けられている目は、あのまぶしさに、少しだけ似ている。
似ているからこそ、落ち着かなかった。
(……そもそも、どうして私が、こんなことを)
胸の内で苦笑して、彼女は思い返す。
半ば強引に軍師補佐の役目を押しつけられた、その翌日のことだ。キッドに、こう頼まれた。
「魔導士たちに、馬に乗ったまま魔法を使えるよう仕込んでほしい」
「魔法の腕を底上げするのは、わかります。ですが――馬上で、ですか?」
ルイセは、首をかしげた。
かつて魔法を操る暗殺者だった彼女には、騎乗しながらの魔法が、個で戦う上でどれほど有効か、その身体が覚えている。
だが、国に仕える魔導士は違う。彼らは、組織で戦う。単騎では小さな火種でも、数十、数百と束になれば、遠く離れた敵陣を焼き払う力になる。だからこそ、魔導士は重装歩兵の盾の内側に置かれ、決して単独で前へは出されない。
魔導士が馬上で魔法を放つ状況があるとすれば、それは盾が破られ、彼らが逃げるときだけだ。つまり――負け戦。負けたときのための備えなど、どこの国も仕込みはしない。
(それなのに、なぜ)
答えを探すように見たルイセに、キッドは、こともなげに言った。
「これからの戦いには、要るんだ。……それに」
彼は、どこか面白がるような目をした。髪と同じ、光の加減で茶にも見える黒い瞳だった。
「お前がシャドウウィンドだった頃の、あの夜。退いていくお前は、隠していた馬に飛び乗って、騎乗したまま魔法で追っ手を撒いた。あれほど見事にやれる奴は、そういない」
(……よく、覚えていますね)
ルイセは胸の内で、小さく息をついた。追撃を断って逃げおおせたのは事実だが、誇れることではない。それは彼女にとって、これまでにただ一度の、討ち損じの記憶だった。
「やれと言うのなら、やります。ですが、人にものを教えたことなど、ありませんよ」
「かまわん。手本を見せてくれれば、それで十分だ」
――そうして引き受けた役目を、今、こうして果たしている。
魔導士たちの騎乗での動きは、初日とは見違えるほどになっていた。理屈っぽい者の多い彼らには、言葉を重ねるより、黙って手本を示すやり方が合っているらしい。
同時に持続力も上がってきていた。魔力の源である霊子は、人の心から生まれる力だ。それゆえ、使えば使うほど頭の芯が重くなり、底をつけば、立っていることさえ難しくなる。初めのうちは、いくらも撃たずに膝をつく者もいた。それが今では、撃ち続けられる数が日ごとに伸びている。
訓練場の向こうからは、キッドが鍛えているはずの騎士団の、統率の取れた掛け声が届いていた。追放された魔導士に、国の兵を委ねる――本来ならありえない話だ。だが、この国の者たちは、自らの非力をよく知っていた。頼れるものには、相手が誰であれ頼る。その必死さが、余所者のキッドを受け入れさせたのだろう。
ふと、視界の端に人影が差した。
訓練場の入り口に、キッドが立っている。腕を組み、静かにこちらを見ていた。いつからそこにいたのか。
ルイセは魔導士たちに自主鍛錬を命じると、無言のまま、彼のもとへ歩み寄る。
「魔導士たちを私に任せきりで、ご自分は見物ですか。いいご身分ですね」
棘のある言葉だったが、不思議と、冷たさはなかった。
「見物とは心外だな。騎士団の稽古を見てきたところだ。……今から剣を仕込んだところで、戦には間に合わん。だから、あっちには動き方だけを叩き込んでいる。どのみち、俺に剣は教えられんしな」
「それにしても、こちらを私一人に任せきりというのは、どうかと思いますが?」
「ルイセを信用しているからな」
さらりと返されて、ルイセの言葉が、一瞬、行き場を失った。感情を表に出すのは、得手ではない。それを見透かされたようで、どうにも据わりが悪かった。
キッドは近くの石段に腰を下ろすと、隣を軽く叩いた。座れ、ということらしい。
ルイセが腰を下ろすと、彼は腰の水筒を差し出してくる。
「飲むか? 特製だ」
受け取って、口をつける。ほのかに甘く、薬草めいた香りがした。
悪くない。半ば意地のように、勢いよくあおる。
「いい飲みっぷりだな」
「……うるさいですね」
喉を鳴らして飲み下してから、ルイセは、彼の腰へ目をやった。もう一つ、水筒があるはずなのに、それらしいものが見当たらない。
(……この人の分は?)
「一つ、聞きますが、あなたの水筒はどちらに?」
「ん? それしかないぞ」
キッドが指さしたのは、ルイセの手の中の――たった今まで、口をつけていた水筒だった。
(――――)
思考が、一拍、止まる。
(では……今、私が唇をつけたここは、さっき、この人が――)
理解が追いついた瞬間、首の後ろから、かっと熱が上がった。ルイセは水筒を、突き返すように押しつける。
「っ、これ、お返しします!」
「なんだ、口に合わなかったか?」
「そう、ではなく……!」
訝しげに水筒を受け取ったキッドは、何を気にする様子もなく、そのまま口元へ運んでいく。
(あ――)
止める間もなかった。彼の唇が、たった今ルイセが触れたのと寸分違わぬ縁に、無造作に触れる。喉が上下する音が、やけに近くで聞こえた。
伝説の暗殺者として、幾度も死線をくぐってきた。血の匂いにも、殺気にも、眉一つ動かさずにいられる。それなのに――ただ水を飲むだけの男の、その喉の音一つに、ルイセは視線の置き場を失っていた。
(……なんなのですか、この男は)
そこへ、慌ただしい足音が割り込んだ。
「キッド様! こちらでしたか!」
息を切らして駆けてきたのは、城門の衛兵だった。握りしめた手の中で、一通の書状がくしゃりと歪んでいる。
「どうした、騒々しい」
キッドが水筒を腰に戻しながら、座ったまま向き直る。
「隊商の者が、これをキッド様に、と。ご本人にじかに、急ぎ渡してほしいとのことで」
(……隊商?)
ルイセは、差し出された書状へ目を落とした。封蝋も紋章もない、旅荷の底で擦れたような粗末な紙だった。
王家へ宛てたものではない。役人の手を経たものでもない。この男ひとりに宛てた、私信だ。
キッドは受け取るなり封を切り、目を走らせた。
短い文面だったのだろう。読み終えるまでに、いくらもかからなかった。だが、そのあいだに、キッドの気配が変わった。
ルイセは、横目に彼を見た。
飄々とした笑みが、消えている。といって、怒りでも焦りでもない。余分なものをすべて削ぎ落とし、ただ一点を見据える者の顔だった。
その顔を、ルイセは一度だけ見たことがあった。刃越しに。守るべき標的を背に、彼女の前へ立ちはだかった、あの夜に。
「……紫の王国が、兵を集め始めた」
低く、キッドがつぶやいた。独り言のような声だった。
(紫の王国……)
この国と境を接する隣国。国の大きさも、抱える兵の数も、この小国を上回る。
そこまで思い至って、ルイセはもう一つのことに気づいた。報せを運んできたのは、王女付きの近衛の騎士ではない。隊商の私信を預かっただけの、門衛だ。つまり――城はまだ、このことを知らない。
暗殺者だった頃から、よく知っている。国の使いが馬を乗り継いで運ぶ報せより、荷を積んで国境を越える商人の噂のほうが、しばしば早い。だから裏に生きる者は、そうした糸を何本も握っている。
この男も、同じ糸を握っているのだろう。国を追われたはずの、この男が。
「ルルー王女のところへ行く」
書状を畳みながら、キッドが立ち上がった。
国が、でも、戦が、でもない。この男が真っ先に口にしたのは、王女の名だった。付き合いは短くとも、ルイセはもう、それを見抜いていた。この男の目は、いつも国そのものではなく、それを背負う人に向いている。
「ルイセ、お前も来てくれ」
「……私も、ですか?」
「当然だろう。お前は、軍師補佐だ」
言うが早いか、キッドは踵を返した。
その背を追いながら、ルイセは、つい今しがたまで首筋にあった熱が、嘘のように引いていくのを感じた。代わりに肌を撫でるのは、よく知った冷たさだった。血と鉄の匂いの、その手前にある、戦の気配。
形は違えど、そういう場所へは、数え切れぬほど踏み込んできた。いつも、一人で。
それからの数日で、城の空気は目に見えて変わった。
キッドはまず、足の速い騎士を何人か選び、国境へ放った。次いで、別の兵たちを街道沿いの丘へ、いくつも送り出した。持たせたのは剣ではなく、覆いのついた油の灯りだった。
城に残った者たちには、訓練場の片隅で奇妙な稽古をつけている。灯りの覆いを、開けては閉じる。長く、短く、また長く。向かい合った者が、それを見ては何かを書きつけていく。
魔導士たちを鍛える合間に、ルイセは幾度か、その稽古へ目をやった。
(……合図、でしょうか)
暗殺者の仕事にも、灯りの合図は使う。だが、それで伝えるのは、せいぜい「来た」「退け」の二つ三つだ。あの明滅は、それにしては細かすぎる。長短の並びが、一度として同じにならない。
何を伝えるつもりなのか。問えば、この男はおそらく答えるだろう。それでも、ルイセは問わなかった。問わずにいられる程度には、この男のやることを、もう見てきていた。
夜になると、キッドは城壁に上がる。それがここ数晩の日課になっていることを、ルイセは知っていた。人の出入りに目を配るのは、昔からの癖だ。
その夜も、城壁の上には、キッドの背があった。
ルイセが足音を殺して隣に並んでも、彼は振り向かない。街道の続く闇の彼方を、じっと見つめている。
眼下の城下は、とうに灯を落としていた。見えるのは、黒く沈んだ丘の稜線と、その上の星ばかりだ。
――ふいに、その稜線の一点に、灯りがともった。
星ではない。小さな橙の光が、消える。またともる。長く、短く、短く、長く。訓練場で見た、あの明滅だった。
キッドの唇が、声もなく動いている。光が一つ瞬くたびに、何かを拾い上げるように。
やがて、光が絶えた。
「……出たか」
キッドが、ぽつりと言った。
(出た……?)
「紫の本隊が、国を出た」
ルイセは、丘の稜線へ目を戻した。光は、もうどこにもない。
あれは、合図などではなかったのかもしれない。二つ三つの意味しか持たぬ灯りで、こうも迷いなく何かを読み取れるはずがない。
キッドが、城壁の縁から手を離した。
「朝までに、皆を集める。……忙しくなるぞ」
それだけ言って、キッドは階段へ向かう。ルイセは黙って、その背に続いた。




