第2話 止まっていた時間
市場の喧騒を背に、キッドは王城への道を歩いていた。
軍服を脱いだ目立たぬ格好のまま、人波を縫って進む。
その半歩後ろを、黒と白のウェイトレス姿のまま、ルイセが音もなくついてくる。逃げようと思えばいつでも逃げられる。抗おうと思えばいつでも抗える。なのに彼女は、ただ黙って、引かれた手の先を歩いていた。
その気配を背に感じながら、キッドは奇妙な心地を覚えていた。一度は命を奪い合った相手が、今は無防備に、自分の後ろを歩いている。
かつて、伝説の暗殺者と刃を交えたとき、キッドは一人ではなかった。背中を預けられる相手がいた。二人がかりで、守るべき標的を守り抜いた。彼女が――シャドウウィンドが、必ず仕留めるはずの標的を、初めて取りこぼした、あの夜。
その戦友は、もう隣にいない。
そして自分は――英雄と呼ばれた身でありながら、すべてを失い、辺境の小国で軍師の真似事をしている。
その始まりは、二年ものあいだ止まっていた時間が、ふたたび動き出した、あの日に遡る。
あれは、雪の深い山の奥でのことだった。
当時のキッドは、ほころびた黒のローブを羽織り、無精髭を伸ばし、世を捨てたように暮らしていた。訪ねてくる者などいない。……いや、一人だけ、いた。
「キッド様、どうかそのお力で、我が国をお救いください」
澄んだ声とともに扉を叩くのは、紺の王国の王女ルルー。病床の父に代わって国政を担う、まだ十五の少女だった。
小国を率いる王女が、供もわずかに、こんな山奥まで幾度となく足を運んでくる。魔物がほぼ狩り尽くされた今の世とはいえ、それは正直、無謀としか言いようがなかった。
「いや、ごめん、無理」
ばたん。懇願を最後まで聞くこともなく、キッドは扉を閉ざした。一度や二度ではない。断っても、断っても現れる彼女に、やがてキッドは、まともに話を聞くことすらしなくなっていた。
もう、権力争いに巻き込まれるのは、こりごりだった。
かつて緑の公国に、「公国の双翼」と讃えられた二人がいた。次代を担う貴族の子にして、剣に愛された男ジャン。そして、若き宮廷魔導士のキッド。
だが、その輝かしい未来を、権力の渦が無残に呑み込んでいった。
見捨てられなかっただけだ。襲われた民も、嵌められた友も。その代償に、爵位も、地位も、名誉も失った。裏切り者の汚名まで着せられ、追われるように公国を去った。
……詳しい経緯を、今さら並べ立てる気にはなれない。ただ、人の醜さに反吐が出て、山にこもった。それだけのことだ。
公国を去ったあの日から、キッドの時間は止まっていた。だから、ルルーが何度来ようと、答えが変わることはない。そのはずだった。
その日も、キッドは冷たく彼女を追い返した。深い雪の中を、無理を押して来た少女。身体を壊す前に帰れ――それだけ言い残し、扉を閉じた。
ところが、日が傾きはじめても、外の気配が消えない。訝しんで扉を開けたキッドは、その場に凍りついた。
降りしきる雪の中、くせのある栗色の髪にも、小さな肩にも、白く雪を積もらせて、ルルーが立っていた。まるで彫像のように動かず、それでいて、静かに微笑んで。
「何をやっているんですか!?」
「首を縦に振っていただけるまでは、帰りません。……そう、申し上げたでしょう?」
怒りも、恨みもない声だった。ただ凍えながら、彼女は笑っていた。キッドはとっさに、その手を掴む。氷のように冷たい。言葉にならない何かを飲み込んで、彼は雪を払う間も惜しんで、ルルーを家の中へと引きずり込んだ。
暖炉の前に座らせ、毛布をかけ、湯を沸かす。湯気の立つカップを両手で包み、震えながらそれをすする姿は、とても一国の王女には見えなかった。ただ寒さに凍えた、一人の少女だった。
「なぜ、そこまでして俺に助けを求める? 魔導士が一人いたところで、国なんて変わりはしない」
突き放すようなキッドの言葉に、しかしルルーは、引かなかった。返ってきたその声には、少女のものとは思えぬ芯があった。
「……ええ。変わらないと、私も思います。魔導士がお一人、増えたところで」
意外な同意に、キッドは眉を上げる。ルルーは、カップを包む手にわずかに力を込め、まっすぐに続けた。
「我が国は小国です。兵の数では黒の帝国どころか、紫の王国にも及ばない。国庫も、魔導士の質も、何もかもが足りていません。まともにぶつかれば、勝ち目はない。……それは、私がいちばん、よくわかっています」
淡々と、しかし正確に。自国の弱さを、少女は一つも誤魔化さずに並べてみせた。数えるほどの手駒しか持たぬ盤面を、上から見下ろすように。
「だから私が欲しいのは、強い魔導士ではありません。足りない駒で、それでも勝つ道を描ける、頭です。――軍師として、私に力を貸してください」
キッドは、口をつぐんだ。憐れみを誘うだけの、雪の中の健気な少女。そう思って眺めていた。その少女が今、勝ち筋のなさを、自分と同じ高さで見据えている。
――この子は、見えている。非力を嘆くのではなく、非力を前提に、そこからの一手を求めている。それは、紛れもなく為政者の目だった。
「軍師、か。……だが、あんたが思っているようなものは、俺にはないぞ。奇策を練って、後方でどっしり構えているような柄じゃない。俺にできるのは、せいぜい、負けない戦いをする程度だ。……むしろ、俺は前に出る。この魔法で、死なせずに済む奴を、一人でも多く拾うほうが、性に合っている」
キッドの自嘲に、ルルーは少しも表情を曇らせなかった。その瞳が、静かな熱を帯びていく。
「それで、構いません。……いいえ。むしろ、そんなあなたにこそ、来ていただきたいのです。兵とともに前線に立ち、その力で、一人でも多くを死なせずに済ませる。――そういう軍師に、なってほしいのです」
キッドは息を呑んだ。勝つ道を描ける頭が欲しいと言った少女は、その勝利の中身にまで、踏み込んできた。
ただ勝てばいい、ではない。兵を、民を、死なせずに勝て、と。それは、為政者の理屈を越えた、もっと素朴で、もっと切実な願いだった。
ふと、肩を並べて戦った友の顔が浮かんだ。あの男も、自分の力を必要としてくれた。目の前の少女は、あいつとは違い、戦う力すら持たない。それでも、乏しい駒を数え、誰も死なせぬ道を探そうとしている。凍えながら、雪の中に立ってでも。
その姿が、止まっていた時間の氷を、ゆっくりと溶かしていく。離れていても、あの友に恥じぬ自分であるために。自分もまた、止まっているわけには、いかない。
「……わかりました、ルルー王女。微力ながら、この頭と、この魔法。あなたのために使いましょう」
張り詰めていたものが、解けたのだろう。凛としていた王女の顔が、年相応の少女のそれに戻り、ぼろぼろと涙をこぼした。国を守るために、たった十五の身で、勝てぬ盤面を睨み続けてきた少女の、涙だった。キッドは黙って、それを見守った。
凍てついていた時間は、あの少女の手で溶かされた。
そして今、その溶けたばかりの時間の隣を、もう一人、時を止めていた女が歩いている。
半歩後ろを歩きながら、ルイセは前を行く男を見ていた。
昼の陽に透けた黒髪が、かすかに茶を帯びている。背が高く、手足が長い。そのぶん肉の薄さが目につく、痩せた身体つきだ。刃越しに向き合ったときには、もっと大きく見えた気がした。
城の門が見えてきたところで、ルイセは、自分の手がまだ何かを握っていることに気づいた。
店のナイフとフォークだった。手を引かれるまま歩いてきて、置いてくる間もなかったのだ。
(……こんなものを手にしたまま城に入ったら、どう考えても捕まります)
ルイセは、二本を手早くエプロンの内側へ滑り込ませた。刃物を身に隠すのは、昔から得意だった。
男の背に続いて、王城の門をくぐる。衛兵たちは、軍服を脱いだキッドに敬礼し、その後ろに続くウェイトレス姿の女にも、咎める素振り一つ見せない。
(……この城の警備は、いったいどうなっているのですか?)
王女の私室――城でも最も厳重なはずの一室へ、ほとんど素通りで通されていく。
暗殺者として、他国の王城に忍び込んだこともある。だが、これほど容易く王族の間近まで至ったのは、初めてだった。
(それとも、この男が、それほどまでに信用されているとでも……?)
水色の簡素なワンピースを纏った少女――ルルーが、穏やかな笑みで二人を出迎える。
「ルルー王女、急にすみません。実は、探していた人材が、見つかったんです!」
「本当ですか!?」
ルルーの顔が、ぱっと輝いた。その無邪気な表情に、王族らしい厳粛さは微塵もない。王女が普段着のままであることにも、男は気に留める様子すらなかった。
(人材……ああ、暗殺の話ですね。なるほど、それで私を連れてきたと。……ええ、構いませんよ。ひと仕事、受けてあげます。それで、貸し借りはなしです)
一人得心するルイセだったが、続くキッドの言葉は、その予想を裏切った。
「騎士団も魔導士たちも、どちらを任せても問題ありません。剣の腕では大国の騎士団長以上。魔法の腕でも、並みの宮廷魔導士では及びません。軍師補佐として、この国に迎え入れていただけませんか」
(……軍師補佐? いったい、誰の話をしているのです?)
話が、まるで見当違いの方へ転がっていく。
置いてけぼりを食ったルイセが、思わず眉をひそめた――その時だった。キッドは彼女を振り返り、その正体を、隠しもせず、むしろ誇るように告げた。
「彼女の名はルイセ。……かつて、シャドウウィンドと呼ばれた暗殺者です」
その一言に、場の空気が張り詰めた。ルイセの思考が、凍りつく。
(――この男。まさか、私を売るつもりですか)
目から、すっと温度が引く。影に潜み、風のように誰にも縛られぬ、その名を。よりにもよって、一国の王女の前で、こともなげにさらけ出すとは。
眠っていた暗殺者の本能が、彼女の奥底で、静かに首をもたげた。
シャドウウィンド。その名に、ルルーの肩が、わずかに揺れた。ひところ国々を震え上がらせ、対峙した者は語り継ぐ者すら残らぬと言われた、伝説の暗殺者。その名を、十五の少女が知らぬはずもない。赤茶色の瞳に、ほんの一瞬、怯えにも似た揺らぎが差す。
だが――それは、本当に一瞬だった。
ルルーは、背筋を正した。そして、ウェイトレス姿のルイセに向き直り、深く、頭を下げた。
「……キッド様が見込み、隣に立つことを選ばれたかたなら、私が恐れる理由など、ありません。ルイセさん。どうか、我が国のために、軍師補佐としてそのお力をお貸しください」
一国の王女が、伝説の暗殺者に、頭を垂れている。込み上げた怯えを飲み込んだのだろう。正体を知った上で、なお、手を差し伸べて。
(この、王女……)
首をもたげかけたルイセの本能が、行き場を失った。売られるのでも、恐れられるのでもない。ただ、受け入れられた。過去ごと、影ごと、正体ごと。あの店で、敵意のない男に毒気を抜かれた、あの感覚。それが今度は、この少女の度量の前で、もう一度、彼女の刃を鈍らせた。
「……お待ちください。私はてっきり、暗殺の話だと思ったのですが?」
「軍師補佐の話に決まっているだろう。お前ほどの腕を、ウェイトレスで腐らせておくのは、もったいない。剣も魔法も、この国を守るため、存分に振るってもらうぞ」
平然と言い放つキッドに、ルイセは目を細めた。影に生きていた頃を思わせる、冷たい一瞥。だが、キッドは動じるどころか、むしろ愉快そうに笑うだけだった。
「何を睨んでいる。お前がウェイトレスをしているほうが、よほど質の悪い冗談だぞ」
「……ですが」
ルイセは、一度、言葉を探した。
「私が抜けると、店長が困ります。昼どきは、人手が足りていませんので」
キッドが、目を瞬いた。それから、なぜか可笑しそうに口の端を上げる。
「それなら、こっちで手を打つ。……ルルー王女、あの店に、代わりの者を回していただけませんか」
「ウェイトレスさん、ですか? できるだけのことはいたしますが……剣も魔法も使えるかたとなると、見つかるかどうか……」
ルルーが、真剣な顔で眉を寄せた。
「そんなウェイトレスは、普通いません! ……いや、いましたけど。とにかく、皿を運べる人なら、それで十分です」
「ああ、よかった。それでしたら、なんとかなりそうです」
「それと、店もずいぶん散らかしたからな。迷惑料も、いくらか包んでおく」
キッドは、こともなげに付け足した。
ルイセは、小さくため息をついた。この男が本気なのか、ただの気まぐれなのか、いまだに掴めない。ただ――
(……命の借りがあります。それを返すまでのあいだだけ。それが済めば、私は影へ帰る。それだけのことです)
そう自分に言い聞かせて、彼女はうなずいた。暗殺者らしい、貸し借りの理屈だった。
――もっとも、その建前がどこか薄っぺらいことには、彼女自身、とうに気づいていたのだが。
「……わかりました。その軍師補佐、お引き受けします」
キッドが、嬉しそうにその手を握る。刃を握り続け、血に染まってきたこの手を、ためらいもなく。
こうして、紺の王国に、奇妙な三人が揃った。
追放された英雄の軍師。非力ながら、勝ち筋を見据える王女。そして、影を捨てきれぬ、伝説の暗殺者。
乏しい手駒で、それでも勝つ。それが、キッドに課された仕事だった。
凍りついていた時間が溶け、盤上の駒が、少しずつ並びはじめる。
――迫りくる紫の王国の影を前に、はぐれ者たちの盤面が、今、動き出そうとしていた。




