第1話 影と風のウェイトレス
「剣の腕が立つ奴か、俺に並ぶ魔導士か……そんな都合のいい人手が、どこかを歩いていないものかな……」
昼下がりの食堂の、窓際の奥から二番目の卓で、外套のフードを目深に被った男が、ぼやきとも祈りともつかぬ独り言を落とした。名をキッド。
この小さな紺の王国に軍師として仕える身だが、その来歴を、この街で知る者はいない。隣国からの侵攻の噂に揺れる国で、軍事のことだけに集中したくとも、いかんせん手が足りなかった。
と、そこで、一人のウェイトレスが肉料理を運んできた。
片手の盆から皿を並べ、反対の手には、先の尖ったナイフとフォークを器用に挟み持っている。
二本を指のあいだでたがえることなく、一度でテーブルへ添えようという、手慣れた所作。妙に堂に入った、刃物に馴染んだ指先だった。
その横顔を、何の気なしに見上げて――キッドの全身が、凍りついた。
背筋が粟立つ。わけもわからぬまま、心臓が早鐘を打つ。
そこにいるのは、一介のウェイトレスにすぎない。それでも、体は本能で叫んでいた。逃げろ、と。
この感覚には、覚えがある。忘れられるはずがない。
きっちりと結い上げた、夜の闇より深い、艶のない黒髪。左目の端にかかる長い前髪。切れ長の黒い瞳に宿る、研ぎ澄まされた光。血の気のない薄い唇。透けるように白い肌。氷を削り出した彫像のように、整いすぎた造作。
「……嘘だろ」
かつて、まだ別の国にいた頃。キッドは背中を預けた戦友とともに、一人の暗殺者と対峙したことがある。
風のように現れ、影のように消え、相まみえた者はことごとく命を落とす。それゆえ、その姿を語り継ぐ者すらいない――伝説の暗殺者、シャドウウィンド。
あの死闘を、生きて切り抜けたのは、後にも先にも、キッドと友の二人きり。だからこそ、二人だけが知っている。その正体が、こんなにも若く、恐ろしいほど美しい、一人の女であることを。
その顔が――卓の傍らで、給仕をしている。
「なぜ、こんなところに……!?」
驚愕のまま、キッドは椅子を鳴らして立ち上がった。
「シャドウ――!」
だが、その名を呼び終わる前だった。
ウェイトレスは盆を置くと、空いた手でキッドの口を塞ぐ。同時に、ナイフとフォークを握ったままの手を、その切っ先を揃えて、キッドの喉元へ、ぴたりと当てた。
たかが食器の、二つの先端。それだけのはずが、触れたその冷たさに、キッドは本物の刃を突きつけられたかのように息を呑んだ。刻まれた恐怖が、生々しく這い上がってくる。
「……外で、お話ししましょうか」
静かでありながら、有無を言わせぬ声。射抜くような視線に、キッドは黙ってうなずくほかなかった。
店の裏手にある薄暗い路地へと連れてこられたキッドは、改めて、女の装いを見た。
ふくらはぎまで届く、黒のワンピース。その上に白いエプロン。腰の後ろで、紐を蝶の形に結んでいる。
襟と袖口にはぴんと糊がきき、髪にはヘッドドレス。
黒と白のクラシカルな出で立ちは、どこから見ても、真面目なウェイトレスそのものだった。
――それが、かえって不気味だった。
湿った空気の中、キッドは気配を探った。
背丈は、キッドの肩ほど。細身だが、その身体には、獲物を前にした獣のような張りがある。逃げ道はない。彼女がその気になれば、次の瞬間には息の根を止められているだろう。
緊張に包まれたまま、キッドは慎重に口を開いた。
「この店でウェイトレスとは……暗殺か?」
「はい、給仕です」
即答だった。揺らぎはない。
(やはりか……。この格好も、街に紛れるためだろう。こうして向き合っていても、殺気の欠片も感じない。たいした技量だ。それにしても、標的は誰だ?)
「暗殺対象は?」
「対象客ですか? この街の人間なら誰でもかまいません」
「――――!?」
今夜のおすすめ料理でも伝えるかのような、穏やかな口調。しかし、その意味するところは、正気の沙汰ではなかった。
(誰でもかまわないだと!? それはつまり……無差別大量殺人ということか!?)
「……誰に頼まれた?」
「誰に? そうですね……店長でしょうか?」
その言葉に、キッドの頭が真っ白になった。
(な、なんだと!? この店の店長が、王都の民を皆殺しにしようと目論んでいるというのか!? 理解不能だ!)
「一体、何が目的でそんなことを?」
「…………? 自分の料理を、多くの人に食べてもらいたいからではないでしょうか?」
暗殺者は小首をかしげ、まったく悪意のない表情で答えた。
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。
気まずい静寂の中、キッドはようやく、自分が何か決定的な誤解をしているのではないかと思い始めた。
「……もしかして、本当にこの店で働いているだけなのか?」
「ですから、最初からそう言っているではないですか」
途端に、先ほどまでの恐怖が蜃気楼のように霧散し、代わりに、勘違いへの恥ずかしさが込み上げてくる。
総毛立った凄みの正体が、店の食器だったと思えば、なおさら打ちのめされる。
「……すまない。どうやら俺の思い違いだったようだ、シャドウ――」
彼女はすっと手のひらを向け、キッドを制した。
「その名前で呼ぶのはやめてください。とうの昔に捨てました。今の私は、ただのルイセです」
「ルイセ……本当の名前か?」
「ええ」
暗殺者が本名を名乗る。それは、彼女が稼業から身を引いたことの証でもあった。
「……もう暗殺はやっていないのか?」
「はい」
「どうして?」
ルイセは、少しだけ間を置いた。
「あなたがたに、阻まれたからです」
その声に、感傷はなかった。事実を読み上げるような響き。
「狙った標的は、一人残らず葬る。それが、シャドウウィンドでした。……ですが、あの夜だけは、刃が届かなかった。あなたと、あなたの戦友。二人がかりで守り抜かれ、私は初めて、獲物を討ち損じたのです」
淡々と、彼女は続けた。
「必ず仕留める。その一点だけが、私の価値でした。それが崩れたなら、暗殺者でいる意味はありません。……それに、戻ってみれば、私に命じる者は、一人も残っていませんでしたので」
だから引退した、と。
言われてみれば、あの夜を境に、シャドウウィンドの噂は、ぱったりと途絶えた。撃退したとはいえ、まともな傷一つ負わせられなかった相手が消息を絶ったのは、ずっと謎だった。世間も次第に、その名を口にしなくなった。あれが若い女だったと明かしたところで、誰も本気にはしなかっただろうが。
(……そういえば、あの頃だったか。国々が珍しく足並みをそろえて、闇に生きる者たちを狩り立てていると聞いたのは)
命じる者が、一人も残っていない。その意味を、キッドは問い返さなかった。
拠り所を失い、芯を抜かれたように流れ流れて、この女は場末の店でエプロンを締めている。
キッドの中で、何かが疼いた。
(……惜しい)
これほどの技を持ちながら、行き場をなくして燻っている。もしその手を、人を殺めるためではなく、別のもののために振るえたなら――
そこまで考えて、キッドは、ふと違和感を覚えた。
この女は、何一つ偽りを口にしていない。
あれほど自分を怯えさせた女が、隙だらけで立っている。
――その時だった。
路地に面した壁の向こう、店の中から、くぐもった悲鳴と、荒々しい怒号が響いた。
何かが倒れる音。
ルイセの目つきが、鋭く変わる。踵を返し、店へ戻ろうとした彼女を、キッドが呼び止めた。
「待て。飛び込むのは、中の様子を把握してからだ」
「……でも、どうやって? ここからでは、店内は見えません」
「俺には、とっておきがある」
キッドは説明を省き、右手をかざして、低く告げた。
「――ダークアイ」
応じるように、その手の先で、空間がえぐり取られたように黒く染まった。
黒い球だった。光さえ吸い込むような、底のない黒。その塊がふわりと宙を渡り、開け放たれた窓から、店の中へ滑り込んでいく。
キッドの視界が、二つに裂けた。自分自身の目が見る路地と、天井近くに浮かぶ球から眺めた店内。前を向いたまま、上からの景色までが、頭の中に重なってくる。混ざることなく並び立つ像を抱えるのは、常人なら意識が焼き切れかねない荒業だ。鈍い痛みが、渦を巻き始めている。
――見える。
(……人質が一人。賊は三人。――一人だけ、動きが違う)
キッドは即座に盤面を読み取った。
「中に三人、抜き身。奥の一人が女を人質に取っている。残り二人は入り口寄りで、左の一人は手練れだ。人質は右手側、他の客は床に伏せている」
短く、正確に。一言ごとに、ルイセの目が細められていく。店の見取り図を、思い描いているのだろう。
「――わかりました」
一呼吸の間。それだけで、制圧の手順を組み終えたらしい。
「その程度なら、私一人で十分です」
言うが早いか、ルイセはナイフとフォークを構え直した。
唇が、吐息ほどに動く。素っ気ない、何か。キッドの耳では、聞き取れなかった。
その二本に、淡い光がともる。刃がこぼれれば、それだけで折れかねない代物。それを戦える得物に仕立てるべく、彼女が刃と柄に強化の魔法を纏わせたのだ。
術を操り、剣を振るう。魔法剣士ならではの手札だった。ウェイトレスの食器が、暗殺者の双剣になる。
その構えに、キッドの脳裏で、記憶の中の暗殺者がよみがえった。白と黒の双剣を、淀みなく使いこなしていた、あの姿が。
(……ああ、そうだ。この構えだ。やっぱり、敵にだけは回したくない)
直後、ルイセがかき消えた。
――風だ、と思った。
裏口から吹き込んだ一陣が、床を滑るように奔った。
人質を押さえていた男の手首を、ルイセのフォークがすくい上げるように弾く。
凶器が女の客の喉から逸れた刹那、彼女は肘で男の顎を打ち抜く。崩れる腕から女を奪い取り、切っ先の通り道へ、自らを割り込ませた。
あとの二人が、遅れて向き直る。
素人の一人が、がむしゃらに剣を振り下ろす。
ルイセは、ナイフとフォークを交差させてそれを受け止めると、手の返しひとつで横へ流した。
泳いだ相手の懐へ踏み込み、ナイフの柄頭を鳩尾へ。男は身体を折って膝をつく。
最後の一人。手練れの男だけは、反応した。舌打ちとともに、剣が横ざまに走る。
ルイセはナイフの背で受け流す。だが、男も読んでいた。間を置かずに閃いた切り返しの刃を、咄嗟に重ねた二本で受ける。男はそこへ全体重を預けた。食器越しに、重い圧が腕へのしかかる。
ナイフとフォークが、まとめて封じられた。男の口の端が、わずかに吊り上がる。
ルイセは押し返さなかった。刃を噛み合わせたまま、ふっと力を抜く。
つっかえを外された男が、半歩、前へつんのめった。その半歩のうちに、彼女は軸足を踏み替えていた。
スカートの裾がひるがえる。
天井から見下ろす目には、それが、床に咲いた黒い花のように映った。
その場で独楽のように旋回し、裾が円く広がる。
蝶結びの紐が、尾を引いて弧を描く。それでいて、髪は一筋も乱れない。
その花の中心から、白い脚が一閃した。勢いを、そのまま一直線の蹴りへと注ぎ込んで。
はしたなさを気にする素振りは、微塵もない。かかとが、男の胸の真ん中へと深々とめり込んだ。
男が後ろざまに吹き飛ぶ。
卓の間の通路を、足も着かずに宙を行く。椅子をかすめることもなく、その背中が奥の壁に叩きつけられた。
そこからずるずると崩れ落ち、それきり、ぴくりともしなかった。
三人を瞬く間に。そのどれもが、刃の腹と柄と体術だけで沈められていた。
血は、一滴も見当たらなかった。
(……速い。俺の読みより、二手も三手も早い)
キッドが見抜いた難所を、ルイセはすべて最短で解いていた。
人質を先に。身を盾にして。厄介な一人は後回しに、確実に。筋書きを、あらかじめ心得ていたかのように。
人質の女が、へたり込んだまま、かすれた声で礼を言う。ルイセは目礼を返した。
――その、油断とも呼べぬ一瞬。
店の隅、卓の陰に伏せていた客の一人が、音もなく身を起こした。その手に、投げナイフ。刃の切っ先が、ルイセの背へと狙いを定める。
ルイセは気づいていない。彼女の死角。
その男を見ていたのは、頭上の黒い球だけだった。
(――四人目か! 表の三人を囮に、機を窺っていたな。俺も、見落としていた)
「――ダークブレット」
球が震えた。小石ほどの弾が撃ち出され、一直線に、男の肩を貫く。呻きとともに、投げナイフが乾いた音を立てた。
その目が、振り返るルイセを捉えた。床の投げナイフと、肩を掴んでうずくまる男。何があったのかを、一目で悟ったようだった。
そこまでだった。手を下ろすと、球は薄れて失せ、二枚目の景色も、ふつりと途切れた。
キッドはその場にしゃがみ込み、しばし息を整える。それから、裏口をくぐった。
客たちは我先にと表へ逃げ出したらしく、店内には、のびた四人の男が転がるばかりだった。
キッドの卓では、手つかずの肉料理が、すっかり冷めていた。ルイセはナイフとフォークを手にしたまま、男たちを手際よく縛り上げていく。
作業を終えると、彼女は振り向き、無言でキッドを見つめた。
三人を無傷で下しておきながら、伏せていた一人に背を晒した。そこを、余所者に救われた。一撃必殺を身上とした暗殺者にとって、それは屈辱のはずだった。
キッドは、彼女の面にその翳りを探した。――どこにも、なかった。
「……助けられました」
「その腕、衰えてはいないようだな」
キッドが、軽く笑ってみせる。
「当たり前です。生まれたときから、叩き込まれたものですから。……消そうと思っても、消せませんよ」
誇るでもなく、嘆くでもない。どうにもならないものを、ありのまま受け入れている口ぶりだった。
キッドは、縛られた強盗たちを見回して、片眉を上げた。ルイセが倒した三人は、誰一人、傷らしい傷を負っていない。
あれほどの双剣使いが、斬りも刺しもしなかったのだ。
「ずいぶんと手加減したもんだな。斬ってしまうほうが、よほど楽だっただろう。……なんで刃を使わなかった?」
「決まっているでしょう」
ルイセは、ナイフとフォークをこともなげに掲げた。
「店が、血で汚れるじゃないですか。あとで掃除をするのは、私なんですよ」
「…………」
人道でも、慈悲でもない。後片づけが面倒だから、というだけ。その身も蓋もなさに、キッドは苦笑いを漏らした。
消せないと言ったその同じ口で、この女は、職場を汚したくない一心で、無血の制圧をやってのけたというのか。
と、キッドの足もとが、ふらりと揺らいだ。
「っ……」
こめかみを指で揉み、目を閉じる。頭の芯が、軋んでいた。
「……さっきの魔法、何をしたんです?」
ルイセの問いに、キッドは手を振ってはぐらかした。
「なに、ちょっとした手品だよ。……長くは視ていられない、不便な技でね」
それ以上は、語らなかった。
やがて頭痛が治まると、キッドは、今日城を出たわけを思い出した。
戦の気配に、人々が沈んでいはしないか。それを確かめに、軍服を脱ぎ、目立たぬ身なりで市場を見て回ったのだった。
答えは、否だった。屋台には人が群がり、商人の呼び込みは威勢よく、行き交う顔は明るかった。この国を信じていればこそ、市場は活気づく。ならば、後顧の憂いなく戦の備えに専念できる。懸念が一つ、胸から下りていた。
そして今、残る懸念への答えまでもが――目の前にいる。
キッドは顔を上げ、まっすぐにルイセを見た。名を聞くだけで人が竦んだ暗殺者。食堂のウェイトレス。剣も魔法も、人を守る精度までも備えながら、居場所を見失っている女。
――心底、欲しい。
「ルイセ、一緒に来てくれ」
返事を待たず、キッドはルイセの手を取った。
ルイセの身体は、動かなかった。
暗殺の際、他人に触れさせたことなど、一度もなかった。相手に害意が兆すだけで、思考するより先に足が退く。それが、染みついた性だった。
なのに今、この男に手を取られて、指の一本すら跳ねなかった。
殺気が、まるでなかったからか。それとも――理由の知れぬ何かに、抗う気すら起きなかったのか。
わからない。一つだけ、確かなことがあるとすれば。
――嫌では、なかった。




