第27話 堕とす者
エイミのツバメが降りてきたのは、河を挟んだにらみ合いが、何度目かの朝を迎えた日だった。
天幕を出たソードの肩に、一羽の黒いツバメが、迷わず舞い降りた。脚に、紙と、鋼色の髪が一本、括りつけられている。
紙を外した途端、ツバメはただの鳥に戻り、空へ去っていった。
エイミの字だった。細かく、乱れのない字。ただ、ところどころで筆が急いていた。
ジェイドが、討たれた。迎え撃った軍は崩れた。紺の軍が、帝都へ迫っている。そして、扇の形に開く、人を焼かぬ炎。
読み終えても、ソードは顔色を変えなかった。
驚きは、なかった。
河の向こうの緑の軍は、この幾日、ひたすら守ることしかしていない。それでいて、退く素振りを見せれば、すぐさま噛みついてくる。勝つための戦ではない。こちらを、この河に縫い止めておくための戦だ。
そして、あの軍のどこにも、キッドの姿がない。
緑の公王は、守りの将ではない。攻めの将だ。その男に、性に合わない戦をさせている者がいる。この河で時を稼ぎ、そのあいだに本命の刃をどこかへ走らせている者が。
それが見えていた。
ソードには、戦の流れが見える。
魔法ではない。積み重ねた戦の数が、そうさせるのだろう。兵の動き、将の癖、地の形。それらが、この先どう流れるのかを、目の前の景色のように見せてくる。剣を合わせた相手なら、その剣筋の先が。軍と軍なら、この先の戦の形が。
ソードは、それを戦術眼と呼んでいた。誰にも話したことのない名だった。
そして、一度見たものは、目に刻まれる。
あの侍女の、風のない剣も。
ソードは、紙を握りつぶした。見えていながら、ここを離れられなかった。それが帝国の剣の、今度の失策だった。
「帝都へ戻る。騎兵は連れていく。歩兵と、この河は、お前に預ける」
天幕に呼んだフェルズに、ソードはそれだけを告げ、握りつぶした紙を差し出した。
皺を伸ばして目を走らせるうちに、フェルズの顔から、いつもの笑みが消えた。
「俺の騎兵も、半分持っていけ。河の中じゃ、馬は役に立たない。……向こうは任せたぞ」
「ああ」
「その代わり、こっちは好きにさせてもらう。ジャン公王と一騎打ちができる機会があれば、俺は逃さない。ソード、お前にも文句は言わせないぞ」
「好きにしろ」
ソードは、短く返した。
この男の剣を、ソードは幾度も見てきた。なのに、読み切れたことは一度もない。構えから測った間合いが、最後の最後で裏切られる。その幅が、毎度違う。多くても、拳ひとつ分。この男は、その長さを、己の意志で操っている。関節の一つ一つまでを従えた、常人の届かない領域だった。
長さだけではない。しなる腕は、刃が来る速さの見当まで狂わせる。
長さも速さも変わる剣は、戦術眼でも絞り切れない。
(敵に回せば、厄介すぎる男だ)
味方であることを、ソードは心のどこかで安堵していた。
「フェルズ」
「なんだ」
「緑の公王の剣を、昔、一度だけ見たことがある」
「へえ。どうだった」
「……読めなかった」
フェルズの顔に、笑みが戻った。
「だから、いいんじゃないか」
止めても無駄だろう。この男は、命を懸けた勝負の中でしか、生きている心地がしないのだ。
ソードは、騎兵を率いて東へ発った。魔装の黒い鎧は、歩兵とともに河に置いた。あれを着ていては、馬がもたない。
駆けるうちに、隊は長く伸びていった。脚の劣る馬から、一頭、また一頭と遅れていく。待つことはしなかった。
いつしか、振り返っても、誰の姿もなくなっていた。
脇腹の傷が、馬の揺れに合わせて疼いた。あの侍女に裂かれた傷だ。
(……間に合うか)
答えは、わかっていた。おそらく、間に合わない。
それでも、馬を止める理由にはならなかった。
東の空が白み始めていた。あの空の下に、帝都がある。皇帝がいる。エイミがいる。
そして、おそらくは、あの侍女も。
戦術眼に刻まれた、風のない剣が、まぶたの裏に浮かんでいた。
フェルズは、河の中ほどに立っていた。
膝の下を、冷たい流れが押していく。足もとの川床は、丸い石が転がっていて、踏みしめるたびに滑る。悪くない、と思った。足場の悪さは、相手も同じだ。
向かいに、緑の公王が立っていた。
燃えるような赤い髪が、朝の光を弾いている。
ソードが騎兵を率いて東へ去るのを、向こう岸も見ていたのだろう。翌朝、この男は自ら河岸に出てきて、フェルズの名を呼んだ。先日の非礼を詫びる、今度はこちらから一騎打ちを申し込む、と。
「俺が負けたら、兵を降らせるか?」
そう尋ねると、公王は首を横に振った。
「その必要はない。剣士が一騎打ちに懸けるのは、互いの誇りだけだ」
それから、こう付け足した。
「帝国の剣が去った。紺の軍は、もう帝都に届いたんだろう。今からお前の兵が戻っても、間に合わん。……時を稼ぐ俺の役目は、これで終わりだ」
王の理屈と、剣士の血。その両方が、この男の中で、ようやく同じ方を向いたのだろう。
両軍の兵が、岸から息を詰めて見守っている。
フェルズは、剣を構えた。
勝ちの見えた戦でも、敵の将を呼び出してきた。兵を何千ぶつけ合ったところで、生きている心地はしない。剣一本に命を載せて向き合うときだけ、血が沸いた。
今、その血が、かつてないほど沸いている。
公王も、構えた。
打ち合いは、静かに始まった。
互いに、本気の踏み込みはしない。流れに足を取られぬよう、浅く打ち、浅く受ける。刃が触れ合うたびに、フェルズは相手を測っていった。
速い。重い。だが、読めないほどではない。
こちらの剣筋も、公王はとうに測り終えただろう。そう測らせてきたのだ。腕の長さ、踏み込みの深さ、刃が届く距離。この男の頭の中には、フェルズの間合いの線が、くっきりと引かれているはずだった。
その線が、フェルズの刃だった。
相手が線を引いた瞬間から、勝負は決まっている。線は、最後の一瞬で裏切るためにある。
指一本の幅から、拳ひとつまで。どこまで伸ばすかは、そのときに決める。今日は、喉に届けばいい。
公王が、構えをわずかに崩した。
誘いだ。打ち込んでこい、と言っている。後の先。打たせて、かわして、返す。それがこの男の剣なのだと、噂で聞いていた。
ならば、かわせない一撃をくれてやる。
フェルズは、踏み込んだ。
水が跳ねるより、速く。
肩を押し出す。関節を外す。肘を伸びきらせる。腕が、構えから測れるはずの長さを越えて、伸びる。刃が、公王の引いた線の、さらに先へ。
拳ひとつ。
届いた、と思った。
刃の先に、公王の喉は、なかった。
かわされていた。紙一枚の差で。切っ先が首筋をかすめ、赤い筋を一本、残していく。
伸びきった腕が、戻らない。外した関節が嵌まるまでの、ほんの一瞬。
公王の剣が、突き出された。踏み込んだフェルズの勢いを、そのまま呑み込むように。
雷が落ちたような音がした。
胸の鎧が、砕けた。冷たいものが、その奥を貫いていった。
膝から、力が抜ける。河の流れが、腰まで這い上がってくる。
見上げると、赤い髪の向こうに、空があった。
測ってかわしたのではない。この男は、はじめから何も測っていなかった。天性の勘とでも呼ぶべきだろうか。――いや、違う。握った剣の赴くままに、身体が動いていた。間合いの読み合いなどというものより、もっと外で、この男は最初から戦っていたのだ。
剣に愛された男。そう呼ばれていると、聞いたことがある。
その意味が、ようやくわかった。
「……お見事」
それだけを言うのが、精一杯だった。
水の冷たさが、背中を包んだ。
薄れていく意識の向こうで、公王の声が響いた。
「全軍、渡れ!」




