第26話 目覚め
エイミが玉座の間に入ると、ゼノスはすでに玉座を立っていた。
報せは、エイミより先に届いていたらしい。六か所の伏兵は、鐘を待たずに崩れた。半ばは降り、市場の隊は囲みを破って城へ逃げ戻った。まだ持ちこたえているのは、隊商宿の一つだけだ。黒い王服の背が、こちらを振り向くことなく窓の外を見ていた。
「陛下。紺の魔導士の黒い球は、空から、街を見ておりました」
膝をつき、それだけを告げた。言い訳は、口にしなかった。どれほど言葉を重ねても、伏兵が崩れたという事実は変わらない。
「空か」
ゼノスは、窓の外の空を仰いだ。
「隠れて待つ戦は、通じぬということだな」
「……はい」
「お前は、止めてみせると言った」
責める声ではなかった。ただ、事実を並べる声だった。それが、かえって胸に刺さった。
「止められなかった。ならば、魔導機兵を出す」
エイミは、顔を上げかけて、やめた。
あれが街を歩けば、家の軒がいくつ崩れるのか。戸の内に身を潜めている民が、どれほど巻き込まれるのか。それを避けるために、自分は兵を伏せたのだ。その策が破れた今、口にできる言葉は残っていなかった。
「あれで、奴らの陣形を崩す。崩れたところを、残った兵で突け」
ならば、とエイミは顔を上げた。
「陛下。私が街へ出て直接指揮を執り、あれの動きに兵を合わせます」
「ならぬ」
ゼノスが、ようやく振り返った。
「お前は、余の扉を守れ」
「……陛下の、扉を」
「あれを止める手は、ただ一つ。操る余を討つことだ。兵を出せば、城は手薄になる。奴らがそこを突いてこない保証はない。ならばこそ、いちばん信の置ける者をそこに置く。それだけのことだ」
冷たく光る金の髪の下で、王の目が、エイミの上に注がれていた。
「指揮は扉の前からせよ。お前ならば、城の奥にいてもそのくらいやってみせるだろう」
策を破られた者に、なお指揮を預ける。エイミは、唇を噛んだ。
見込みと、効率。この皇帝は、どこまでもその軸で盤を見ている。狙われると読めば、手を打つ。討たれることなど、考えてもいない。
「……承知いたしました」
エイミは、深く頭を垂れた。
皇城の奥、幾重もの回廊を抜けた先に、その部屋はあった。
窓のない部屋だった。厚い石の壁に囲まれ、入口は、鉄の扉がただ一つ。中央に据えられた椅子の前に、黒い水晶の盤が、台の上に斜めに立てかけられている。
魔導機兵の目に映るものを、この盤に映す仕掛けだった。エイミ自身が、視界を借りる魔法の理を魔導具に組み込んだ。椅子に座る者は、盤を見ながら、地の底のあれを、己の手足のように動かすことができる。
そして、この部屋の中では、魔法は形を結ばない。
魔法が形を結ぶとき、その場の霊子が揺らぐ。人の肌では感じ取れないほどの揺らぎでも、盤とあれをつなぐ霊子のつながりには、ひどく障る。そばで誰かが魔法を放てば、あれの手足は乱れる。それを防ぐために、魔法の発動そのものを封じる仕掛けを、この部屋に施した。
あれに霊子を送り込む魔導士たちも、だから、この部屋から遠ざけてある。帝都に残された魔導士の多くが、そこにいた。エイミが「使える兵」に数えられなかった者たちだ。
帝国の魔女と呼ばれる自分も、この扉の内側では、ただの剣士にすぎない。扉の外で守るほかなかった。
魔法を使えないゼノスにとっては、封じられて失うものは何もない。剣ならば、魔導士ごときに後れは取らない。そういう自負のある王だった。
ゼノスは、椅子に腰を下ろした。盤に、手のひらを置く。黒い水晶の奥に、ぼんやりと光が灯った。
「扉を閉めよ、エイミ」
鉄の扉が、重い音を立てて閉ざされた。
エイミは、その前に立った。
傍らには、エイミの目となる魔導士と、彼女の口となる伝令の兵が二人、見張りの兵が一人控えている。魔導士の目は、すでに街に残した兵の一人の目につないであった。エイミは、街を見たいときにだけ、部下の肩に手を置き、視界を借りる魔法を唱えればいい。そのあいだ自分の目は塞がるが、見張りがいれば、何かあればすぐに声がかかる。魔法を解いて手を離せば、自分の目で回廊を見張れる。扉の前を離れられなくとも、街の戦は見える。伝令を走らせれば、指図も届く。
城の外の戦は、まだ終わっていない。
回廊は長く、冷えていた。石の壁が、熱を吸い取っていくようだった。
ここまで来させるつもりはない。それでも、来るとすれば、あの男だろう。あるいは、ソードの鎧を裂いた、あの侍女か。
エイミは、剣の柄に手を添えた。
あの男は、炎を使う。人を焼かず、立つ力だけを焼く炎を。あんな炎を、自分は持たない。
持たない者は、考えるしかなかった。
炎はものを焼き、氷はものを貫く。魔導士の誰もが、そう思ってきた。氷は炎の裏返しにすぎない、と。
エイミは、そうは考えなかった。
ものはみな、目に見えぬほど細かく、震えている。熱いとは、その震えが激しいこと。冷たいとは、震えが静まること。生き物も変わらない。震えが静まれば、動きが鈍る。静まりきれば、命が止まる。
この理屈を口にして、まともに取り合った魔導士は、一人もいなかった。
それで構わなかった。取り合われなかった理屈を、エイミは何年もかけて、自分の剣のそばに置ける形にした。
足もとの石の床が、かすかに震えた。
地の底で、何かが目を覚まそうとしていた。
キッドは、皇城の前の広場で、空の目を開いたまま、城門を見上げていた。
レオスの盾の列が、広場を埋めはじめている。背後の街では、まだ剣の音が続いていた。門を閉ざした隊商宿を、ほかの場所を片づけた群れが、次々と囲んでいく。崩れるのは、時間の問題だろう。
城壁の上には、兵の影が並んでいた。市場から抜けた兵も、もう城の中だ。
(籠もる気か)
当然の手だった。兵の数では、比べるまでもなくこちらが上だ。城に籠もって、西の戦線から援軍が戻るのを待つ。向こうに打てる手は、それしか残っていない。
ならば、城門をどう破るか。そう考えかけたときだった。
空の目が、城壁の内側の動きを捉えた。
前庭の奥、石造りの倉の大扉が、内側から押し開かれていく。兵糧の倉だろう。扉の奥には、荷車を通すための広い坂道が、地の底へ下っていた。
(……何だ)
坂の奥の闇から、何かが上ってくる。
最初に見えたのは、頭だった。人の頭ではない。黒い鉄の板を鋲で継いだ、四角い塊。その正面に、一つきりの水晶が、目のように嵌め込まれていた。
肩が現れた。腕が現れた。胴が、脚が、坂を一歩ずつ踏みしめて、地の上へ出てくる。
人の形をしていた。ただし、人の背丈の四倍はあった。立ち上がったその頭は、前庭の倉の屋根より高い。
全身が、黒かった。錆びぬよう黒く焼き締めた鉄の板が、幾重にも鋲で打ち継がれている。肩にも肘にも膝にも、太い鉄の軸と輪がむき出しになっていた。生き物ではない。人の手が、組み上げた仕掛けだった。
頭の芯の痛みが、ひときわ強く脈打った。キッドは、空の球を消した。これ以上は、自分の目のほうがもたない。
代わりに、自分の目で城門を見上げた。
城門が、開いた。
先に現れたのは、兵ではなかった。開いた門の向こうに、黒鉄の巨人が立っていた。
紺の兵たちの喚声が、途切れた。
「……なんじゃ、あれは」
レオスが、低く唸った。
巨人が、関節を軋ませて、門をくぐった。その背に隠れるようにして、黒い鎧の兵が続いて出てくる。最後の一人が門を抜けると、城門が閉ざされていった。重い音が、広場に響いた。
巨人の一歩で、広場の石畳が割れた。
「盾を揃えよ!」
レオスの声に、巨人の前で旧紫の兵が盾の壁を組んだ。紫の兵の、何よりの誇りの壁だった。
巨人の腕が、横ざまに振られた。
盾の壁が、紙のように崩れた。兵が、盾ごと宙を舞う。石畳に叩きつけられ、転がり、呻き声を上げた。
「散れ! 固まるな! 路地へ逃げろ!」
キッドは叫んでいた。
固まった兵は、あの腕の格好の的だ。兵たちが、広場から延びる路地へ散っていく。
そこへ、巨人の陰から黒い鎧が躍り出た。盾ごと倒れた兵へ、散りきれずに取り残された兵へ、まっすぐに。
(……固まれば、あれに潰される。散れば、黒の兵に狩られる)
キッドは、奥歯を噛みしめた。
巨人は、散った兵を追いはしなかった。路地には、あの巨体は入れない。巨人はゆっくりと首をめぐらせ、別の標的を求め、大通りのほうへ足を向けた。
踏み出した足が、大通りに面した家の軒をかすめた。
軒が、崩れ落ちた。閉ざされた戸の内から、悲鳴が聞こえた。
「炎の牙!」
赤い牙が、巨人の胸に当たって、弾けた。焦げ跡ひとつ、残らない。
「氷の角!」
人の背丈ほどの氷の錐が、巨人の腹に突き立って、砕けた。黒い鉄の表に、氷の破片がついただけだった。
巨人の足が止まらない。
(なら、ダークブレットだ)
キッドは、ダークアイの名を叫び、ふたたび球を生んだ。
「ダークブレット!」
頭が割れそうに痛むのをこらえて、撃った。
黒い弾が、巨人の肩に穴を開けた。
巨人は、気にも留めなかった。肩に穴を開けたまま、腕は変わらずに動いている。
(……効かない、じゃない。届かないんだ)
ダークブレットなら、あの巨人の鉄の体を穿つことはできる。だが、削れるのは、触れたぶんだけだ。小石ほどの弾で、あの巨体を動けなくするほど潰せるはずがない。
球そのものを叩き込めば、もっと深く抉れる。それでも、あの胴の奥の奥まで届くとは思えなかった。そして、叩き込めば、自分は空になる。
あの巨体そのものが、ダークアイへの備えになっていた。
ならば、竜王の炎は。
考えかけて、すぐに打ち消した。この街の中で、あの炎は撃てない。扇は建物に阻まれ、閉ざされた戸の内には、赤子も年寄りもいる。
そもそも、撃ったところで、意味がない。竜王の炎が焼くのは、心から生まれる力だ。
あれは生き物ですらない。
影が差した。
見上げると、黒い拳が振り下ろされてくるところだった。歩みの鈍さからは、思いもよらない速さだった。
足が、動かなかった。
「キッド君!」
横から、腕を引かれた。
巨人の拳が、さっきまでキッドの立っていた石畳を、深々と抉っていた。
ルイセだった。裏通りから駆け戻ってきたのだろう。息が上がっている。その少し後ろで、コレットが剣を構えていた。
「ぼんやりしていないでください。死にますよ」
「……悪い」
平らな声に、いつもの冷たさはなかった。腕をつかむ指に、力がこもっている。
キッドは、巨人を見上げた。
黒い鉄の顔が、軋みを上げてこちらを向いた。正面の水晶が、まっすぐにキッドを捉えた。
ただの水晶の目のはずだった。なのに、背筋を這い上がるものがあった。
あの水晶の奥で、誰かが、こちらを見ている。
空から街を見下ろしていたのは、自分のほうだった。今は、見下ろされている。
巨人が、ふたたび腕を振り上げた。その刹那、身の内を、覚えのある感触がかすめた。ダークアイの糸を手繰るときの、あの手触りに似ていた。巨人の背から、城のほうへ。
(……あれの目の向こうに、誰がいる)




