第25話 空の目
エイミは、帝都の絵図を卓に広げていた。
自分の手で描いたものだった。大通りも裏通りも、路地の一本一本まで。井戸の場所、中庭を抱えた商家、隊商宿の厩。四天王の座につく前から描き始め、街に新しい家が建つたびに描き足してきた。
帝都が戦場になる日に備えての絵図だ。徒労に終わればそれがいちばんだと思いながら、描き続けてきた。兵を伏せられる場所にはしるしをつけ、それぞれに隠しおおせる数も書き添えてある。今日やるべきことは、そこへ今使える兵を割り振ることだけだ。
使える兵は、800あまり。紺は、あの戦を経てなお、1500近くを保っているだろう。
エイミは、南の門から皇城へまっすぐ延びる大通りを、指でなぞった。
紺の強みは、速さとキッドの炎だ。馬で駆けまわる魔導士の群れと、扇に開く焼かぬ炎。だが、街の中では、どちらも生きない。家々に挟まれた通りでは、馬は脚を殺され、魔導士はただの魔導士に戻る。炎は、建物に阻まれて開かない。
大通りに面した家並みの裏には、通りからは見えない場所がいくつもあった。商家の中庭。隊商宿の厩。神殿の回廊。市場の大屋根の下。兵を伏せるなら、ここだ。
だから、南の門は閉ざさない。
街を囲む壁は、そもそも魔物や野盗を防ぐために築かれたものだ。魔導士が50人もそろって撃ちかかれば、門はいずれ破られる。800では、すべての門に兵を張りつけることもできない。閉ざせば、紺はいちばん手薄な門を選んで入ってくるだろう。そうなれば、この裏の場所は何の役にも立たない。
南の門を開けておけば、城を目指す軍は、この大通りを来るしかない。
その裏の六か所に、600を伏せる。隊商宿の広い厩には150、商家の狭い中庭には50。絵図に書き添えた数のとおりに割り振れば、どこも溢れず、どこも足りる。残る200あまりは、城に置く。紺の列が大通りに長く伸びきったところで、城の鐘を鳴らす。伏せた兵が脇の道から一斉に湧き出し、列を幾つにも断ち切る。断たれた列は、前へも後ろへも動けない。あとは一つずつ囲んで、潰していけばいい。
南の門の櫓に立つ兵の目は、すでに部下を通じて、エイミにつないであった。紺の列が門をくぐるところも、通りに伸びていくさまも、城にいながら見届けられる。鐘を鳴らす時を、誤ることはない。
見破られないための手も、打ち尽くしてあった。
民には、戸を閉ざして家から出るなと触れを回した。人影のない通りなら、斥候が何を探しても、空の街が見えるだけだ。屋根の上には、物見を一人も置かない。屋根に立つ兵は、下からでもよく見える。伏せた兵には、鐘が鳴るまで、剣を抜くことも魔法を練ることも禁じた。練られる前の魔法は、気配を持たない。
残るのは、あの男の黒い球だった。
噂の切れ端を拾い集め、緑の公国の戦場で、自分の剣で確かめた。あれは、思いもよらぬところから弾を撃ち込んでくる球だ。伏せた兵が、鐘より先に頭の上から撃たれれば、網はそこで破れる。
だが、撃つには、まず見つけなければならない。伏せる場所は、大通りからは決して見えないところを選び抜いた。見つからない兵は、撃ちようがない。それに、あれほどの霊子の塊が近づけば、伏せた兵の中の魔導士が、必ず気配を拾う。
エイミは、筆を置いた。
穴は、どこにもなかった。
玉座の間で、エイミは膝をついたまま、絵図を差し出した。
ゼノスは、しばらく黙ってそれを眺めていた。
「……あれを、動かさずに済ませるつもりか」
「はい。紺の軍は、私が止めてみせます」
ゼノスの指が、玉座の肘掛けを、一度だけ叩いた。
「ジェイドの弔いは、あれでしてやるつもりだったのだがな」
エイミは、顔を上げなかった。
あれが一歩踏み出せば、石畳が割れる。二歩目で、どこかの家の軒が崩れるかもしれない。試作の域を出ていないあれが、思い描いた場所へ正しく足を下ろせるのか。それを確かめた者は、まだ誰もいない。心臓を組んだエイミ自身でさえ。
民を盾に取る戦は、もう止められない。ならばせめて、その盾に傷ひとつつけずに終わらせたかった。
「……よかろう。お前が止めるというのなら、止めてみせよ。切り札は、切らずに済むなら、それに越したことはない」
「必ず」
エイミは、深く頭を垂れた。
帝都の灯が、丘の向こうに滲んでいた。
キッドは、野営の火から少し離れた岩に腰を下ろし、その灯を眺めていた。夜明けまでには、まだ間がある。
ここで夜を越すと決めたのは、キッド自身だった。一夜あれば、帝国も備えを固めるだろう。それでも、ジェイドとの戦で使い果たした霊子は、戻りきっていなかった。一夜休んで夜明けに攻め入る。それが、キッドが導き出した、紺の軍にとってのいちばんの速さだった。
横になるなり、泥のように眠った。目が覚めたのは、まだ暗いうちだった。昂ぶりが、眠りを浅く削っていたのだろう。それでも、身の内には霊子が満ち始めている。
夜が明ければ、あの街へ入る。
足音もなく、隣に人が立った。
「早いですね。寝不足で霊子が足りない、では笑えませんよ」
「ルイセの笑ったところが想像できないんだが……。心配はいらない。やる気も霊子も十分だ」
ルイセは答えず、キッドの隣に腰を下ろした。膝の上で、白い布の包みを解く。
中から出てきたのは、ナイフとフォークだった。
竜王の山の野営でも、この女の懐から出てきた二本だった。
「……この戦いにも、持ってきてたのか」
「まだ、首になっていませんので」
ルイセは、ナイフの柄をこちらへ向けて差し出した。
「キッド君が持っていてください。フォークは、私が持っておきます」
「なんでまた」
「あの日の肉料理、キッド君は一口も食べないまま冷ましましたよね」
覚えていたのか、と思った。
「戦いが終わったら、温かいのを、私がごちそうします。このナイフとフォークで。……ですから、ナイフは、必ず返してくださいね」
焚き火の明かりが、白い頬の片側だけを照らしていた。
(……縁起でもない)
口には出さなかった。出せば、本当になりそうな気がした。
キッドは、ナイフを受け取った。軍服の内側に収めると、思っていたより重い。
「……ああ。返すよ」
ルイセは、小さくうなずいただけだった。残ったフォークを再び自分の懐にしまう。それきり二人は何も言わず、遠い灯を見ていた。
夜が明けても、帝都は静まり返っていた。
城壁の上に、兵の影がない。南の門は、大きく開け放たれている。
「誘っておるな」
レオスが馬を寄せ、低く言った。
「ああ。俺たちにあそこから入ってきてほしい奴が、向こうにはいるんだろう」
城を空にするほど、帝国も甘くはない。守りの兵も、逃げ帰った兵も、この街のどこかにいるはずだった。それが、影も形もない。
四天王の一人、ジェイドは倒した。西で緑とぶつかっている軍にも、四天王を向かわせているはずだ。それでも、ここにはまだ残っている四天王がいるかもしれない。
ソード、フェルズ――単純な武力ならどう考えてもこの二人が厄介。だが、最もここにいてほしくないのは、間違いなく帝国の魔女エイミだった。公国での戦いでは、手の内を知られ、ただ必死に逃げて時間を稼ぐことしかできなかった。
だからこそ、エイミが帝都に残っている前提で作戦を組み立てる。
キッドは、空へ手を向けた。
「――ダークアイ」
黒い球が生まれ、まっすぐに昇っていく。
緑の公国の戦場で、あの女は背後の球を、振り向きもせずに拾った。霊子の塊は、魔導士には気配で知れる。ならば、気配の届かない高さまで。
球は、昇り続けた。人の背丈の何倍も、城の塔の何倍も。見上げても、空に紛れる胡麻粒ほどになるまで。
二つ目の景色が、頭の中に開いた。
帝都が、一枚の絵のように広がっていた。南の門から皇城へ延びる大通りには、人影ひとつない。戸も窓も、固く閉ざされている。
大通りから一本奥へ入った商家の中庭に、黒い鎧が身を寄せ合ってうずくまっている。隊商宿の厩に。神殿の回廊に。市場の大屋根の陰に。数えれば、六か所。群れの大きさは、場所によってまるで違った。どれも大通りのすぐ裏にあり、どれも大通りへ抜ける道を持っていた。
(……列が伸びきったところで、横から断ち切る気か)
見事な網だった。斥候をどれほど出しても、空の街と閉ざされた戸が見えるだけだろう。屋根の上には物見すらいない。地の上から探す限り、綻びひとつない。
ただ、その網は、空を向いていなかった。
こめかみの奥が、軋み始めた。この魔法に、まぶたはない。球が空にある限り、目を閉じても、二つ目の景色は消えてくれない。キッドは、伏兵の場所を一つずつ頭に刻みつけると、手を下ろした。球が薄れて消え、空の景色も途切れた。
「レオス。旧紫の兵で、大通りを進んでくれ。盾を並べて、ゆっくりとだ。慎重すぎるくらいでいい」
「囮か」
「ああ。向こうは、俺たちが用心して来ると読んでる。その読みどおりに見せてやってくれ」
老将は、口の端だけで笑った。盾の壁は、もとより紫の兵の誇りだ。盾を構えて進む壁なら、この男より上手く組める者はいない。
「ルイセ、コレット」
二人が、馬を寄せた。
「伏兵は、大通りの裏に六か所。機動魔導士と騎士を、向こうの数に合わせて分けて、裏通りから回り込む。出口は、たいてい表の道と裏の戸口くらいだ。その裏を塞いで、背中から囲む」
「隠れ場所が、そのまま檻になるわけですね」
「そうだ。六か所とも、いっぺんにやる。一か所でも遅れれば、そこから報せが走る。囲んだら、降れと言え。降った兵は閉じ込めて、すぐ次へ回れ。追い詰められた兵とまともにやり合えば、こっちにも死人が出る。出口のない場所で背中を取られた兵は、たいてい剣を捨てる。……それでも向かってくる奴だけ、相手にしてくれ」
「承知しました!」
ルイセは何も言わず、手綱を返した。
盾の列が、南の門をくぐった。
大通りの石畳を、這うように進んでいく。物言わぬ家並みに、盾を打ち合わせる音だけが響いた。
キッドは、その列の中ほどで、再び空へ手を向けた。二つ目の球を、さっきと同じ高さまで昇らせる。頭の奥で、軋みがぶり返した。
裏通りを、紺の小さな群れが縫っていく。路地を折れ、塀に沿い、一つ、また一つと、伏兵の背後に取りついていく。神殿の回廊の裏に、長い黒髪が見えた。隊商宿の厩の裏には、麦わら色の頭。
六つの群れが、揃った。
キッドは、傍らの角笛の兵へ、手を振り下ろした。
角笛が、鳴り響いた。
六か所で、同時に紺が踏み込んだ。
空の目に、その一部始終が映った。うずくまっていた黒い鎧が、六か所で一斉に振り返る。
商家の中庭では、表の路地へ駆け出そうとした先に、大通りを進む盾の壁が、ちょうど差しかかっていた。前にも、後ろにも、出口はない。一人が、剣を落とした。それを合図にしたように、次々と剣が石畳に転がっていく。
神殿の回廊では、剣を抜いた数人が、黒髪の女に向かっていった。向かっていった者から順に、床に伏していく。
隊商宿の一つでは、大門が内から閉ざされた。裏の戸口に取りついた紺の群れが、塀の上から突き出される剣に足を止める。もう一つの隊商宿では、麦わら色の頭が、降った兵の剣を集めさせていた。
市場の大屋根の下では、黒い鎧の塊が、囲みの薄いほうへ雪崩を打った。いくつもの影が倒れ、残りが裏通りを城のほうへ抜けていく。
(……追わなくていい)
商家の中庭から、紺の群れが出てきた。戸を閉ざし、見張りを残して、立てこもる隊商宿のほうへ駆けだしていく。
頭の芯が、焼けるように痛んだ。それでも、キッドは球を下ろさなかった。列はこれから、皇城の前へ出る。城門の向こうで何が動くのか、空の目で見届けなければならない。
こめかみを指で強く押さえた。
(……城の前に出るまでは、もってくれよ)
エイミは、南の門の兵の目で、紺の列を見ていた。
盾を並べた壁が、亀のように進んでくる。用心深い男だ。読みどおりだった。列が伸びきるまで、あと少し。
そのとき、部屋の扉が荒々しく開いた。
「申し上げます! 市場の隊、裏から囲まれ……囲みを破って、半ばが城へ逃げ戻りました!」
「逃げ戻った者の話では、商家の隊は降り、神殿の回廊も落ちたと! 隊商宿の一つは門を閉ざして、まだ持ちこたえております!」
鐘を鳴らす時は、ついに来なかった。
エイミは、借りていた目を手放した。
自分の目に、部屋の天井が戻ってくる。
どうして。どこにも、穴はなかった。斥候の影はなかった。屋根の上にも、誰もいない。大通りからでは、どうやっても伏兵は見えないはずだった。何度も自分の目で確かめた。
エイミは、窓へ駆け寄った。
眼下の大通りに、変わったところはない。閉ざされた戸。人影のない石畳。城のこの高さから見てさえ、伏せた兵の場所は、家々の屋根に隠れて見えない。
見えないはずのものを、どうやって知ったのか。
視線が、ふと上がった。
澄んだ空の、そのいちばん高いところに、黒い点が一つ浮かんでいた。
鳥ではない。羽ばたかない。風にも流されない。ただそこに留まって、帝都を見下ろしている。
気配は、何もなかった。届かない高さに、置かれているのだから。
見た者でさえ、それが何なのかを語れなかった魔法。弾を撃つ球だとばかり思っていた。
エイミは、窓枠を握りしめた。
(あれは、目だ)




