第24話 焼かぬ炎
キッドは、自分の足で立つことを、早々に諦めた。
膝に力を込めても、身体が地面から離れない。腕を突けば、腕のほうが先に崩れる。竜王に持っていかれ、ダークアイに持っていかれ、底の底まで空になった器だった。
そのあいだに、駆けつけた紺の騎士から、コレットが馬を一頭借り受けていた。
裂けた袖を歯で引きちぎり、腕の傷に巻きつけている。血は、まだ止まりきっていなかった。
「キッド様。お乗りください」
「……お前、その傷で」
「護衛ですので!」
有無を言わせなかった。
小柄な身体のどこにそんな力があるのか、コレットはキッドの腕を肩に担ぐと、半ば引きずるようにして鞍の前へ押し上げた。自分はその後ろに跨り、手綱を取る。
背の高い男が、小柄な娘の前に乗せられている。余った長い脚が、鐙の脇で所在なくぶら下がっていた。
「……怪我人に運ばれる軍師が、どこにいるんだ」
「ここにいます!」
後ろから、胸を張った声が返ってきた。
キッドは、言い返すのをやめた。自分を囲う腕に、目をやる。巻いた布が、早くも赤く滲んでいた。
あのザインを相手に、この腕で、一歩も退かなかった。
「……よく、通さなかったな」
腕に、きゅっと力がこもった。
「……当然です。護衛ですから」
声が、かすかに震えていた。
キッドは、前を向いたまま、口の端を上げた。かつて宮廷の廊下で、いつも自分の半歩前を歩いていた騎士が、今は、帝国四天王に匹敵する騎士と斬り結んで、自分を守り抜いた。誇らしかった。兄が妹を誇るように。
戦場の喚声は、遠のき始めていた。帝国の兵は、将を失って総崩れになっている。
その乱れの中から、一騎が駆けてきた。
長い黒髪が、風になびいていた。
ルイセだった。
馬を飛ばしながら、その目が、地に転がる亡骸の跡と、倒れた二頭の馬と、泥と血にまみれた紺の軍服を順に捉えていく。
白い顔から、さらに血の気が引くのが見えた。
手綱を握る指が、白くなっている。鞍から、今にも飛び降りようとする構えだった。
キッドが、軽く手を上げた。
ルイセの動きが、止まった。
胸が、大きく上下した。次の瞬間には、いつもの顔に戻っていた。何事もなかったように、ゆっくりと馬を寄せてくる。
そして、キッドの座っている場所に気づいた。
コレットの前。後ろから腕を回され、娘の腕に囲われるようにして、長い脚をぶら下げている軍師。
ルイセの顔が、平らになった。
いつもの平らさとは、どこか違った。冬の朝の、水面に張った氷のような。
「ご無事で、何よりです」
「ああ。……なんとかな」
「護衛の方が、ついておられるようですので。私の出る幕はなさそうですね」
声の温度が、一段、下がった。
キッドは、首をかしげた。
「おい、ルイセ――」
「追撃を止めてきます。深追いすれば、こちらの兵が削られますので」
ルイセは、手綱を返した。
「軍師殿は、そちらでゆっくりなさっていてください」
それだけ言うと、振り返りもせずに、前線のほうへ馬を走らせていった。
キッドは、遠ざかる黒髪を呆然と見送った。
軍師殿。
あの女に、そう呼ばれたのは初めてだった。
「……なんで怒ってるんだ、あいつ」
「ルイセ殿、怒っておられましたか?」
後ろで、コレットが不思議そうな声を上げた。考えるような間があった。
「……でも、なんだか、今日は勝った気がします」
「何にだよ」
答えは返ってこなかった。
ただ、手綱を握る腕が、心なしか得意げに、キッドを囲い直した。
エイミは、帝都の城の一室で、目を閉じていた。
椅子に掛けた部下の魔導士の肩に、片手を置いている。その魔導士もまた、目を閉じたまま、身じろぎ一つしなかった。
視界を借りる魔法だった。
触れた相手の目に映るものを、自分の目に映す。一度つないでしまえば、どれほど離れても、魔法を解くまで途切れることはない。
ジェイドが帝都を発つ前、この部下は、ジェイドの軍の兵の一人に触れていた。その兵の目に映るものを、部下が見ている。そしてエイミは、部下の目に映るものを、見ていた。
閉じたまぶたの裏に、遠い平原が広がっていた。
そこで、見たのだ。
たった一人の魔導士の手から、扇の形に開いた炎を。500の騎兵が、一息に呑まれるのを。
炎が過ぎたあと、草は青いままだった。焦げ跡ひとつない。それなのに、騎兵たちは誰一人、立ち上がれずにいた。
(……焼いているのは、身体ではない)
身の内にある、立つための力。それだけを、焼き取っている。
そこから先は、兵が散り、乱戦になった。借りた目は、目の前の敵を追うのに精一杯で、戦場の全体など映さない。
最後に映ったのは、乱戦の向こうを駆け去る、大柄な騎士の背だった。ザインの鞍に、人の形がひとつ担がれていた。
あの男が、主を置いて退くはずがない。退くとしたら、守る主を失ったときだけだ。
ほどなく、借りた目が大きく揺れた。兵が、逃げ出したのだろう。
エイミは、部下の肩から手を離した。
「……いいわ。解いて」
部下が、息を吐いて目を開けた。顔色が悪い。長く他人の目を覗き続けるのは、それだけで身を削る。
「ジェイド様は……」
「討たれたわ」
自分の声が、思ったより冷えて聞こえた。
ジェイドは、遊牧の民の出だった。帝都の作法を笑い、皇帝の御前でさえ、平気で茶をこぼした。その男が、もう帰らない。
悼むのは、あとだ。
エイミは、懐から小さな守り袋を取り出した。中に入っているのは、鋼色の髪が一本。いざというとき、使い魔を飛ばすために預かっているものだ。
窓辺に、漆黒のツバメが一羽、とまっていた。エイミが魔法をかけて飼っている鳥だった。
手早く紙に書きつけた。ジェイドの死。敗走。紺の軍は、遠からず帝都へ迫る。そして、扇の形に開く、焼かぬ炎のこと。
髪と紙を、ツバメの脚に括りつける。
便りを運ぶなら、ふつうは鳩を使う。だが鳩は、巣へ帰る鳥だ。野営を重ねて戦場を渡るソードのもとに、鳩の巣はない。
だから、ツバメだった。ソードの髪を脚に結わえられたこの鳥は、巣ではなく、髪の主のもとへ迷わず飛ぶ。そういう魔法だ。届けば解けて、ただの鳥に戻る。返事を持ち帰ることはない。
「……お願い。ソードに届けて」
放ったツバメは、一筋の黒い線になって、西の空へ消えていった。
玉座の間には、気だるい空気が漂っていた。
黒の帝国の皇帝、ゼノスは、玉座の肘掛けに頬杖をついていた。黒一色の王服に、磨き上げた金貨のような髪が、冷たく光っている。
エイミの報告を、ゼノスは最後まで黙って聞いていた。
「……そうか。ジェイドが」
ゼノスは、しばし目を閉じた。
「面白い男だったのだがな。……惜しいことをした」
御前で茶をこぼすあの男を、笑って許していたのは、この皇帝だった。その声に、偽りの色はなかった。
目を開けたとき、ゼノスの声はもう、次の盤面を向いていた。
「四天王の席は、いずれ埋めねばなるまい。……今は、それどころではないがな」
エイミは、膝をついたまま、顔を上げなかった。
惜しむ心と、空いた席を数える頭。この皇帝の中では、その二つが、何の軋みもなく並んでいる。それが、帝国をここまで大きくした器なのだと、わかってはいた。
「陛下。紺の軍は、遠からず帝都へ迫ります。使える兵は、800あまり。……帝都の外で、迎え撃たせてください。守りに徹すれば、倍の敵であっても、ソードが戻るまで持ちこたえてみせます」
「人を焼かぬ炎、と言ったな」
ゼノスは、エイミの進言を聞いていないかのように、別のことを口にした。
「そのキッドとやらが、焼かぬ炎と焼く炎、両方を自在に使いこなせる見込みはないのか」
エイミは、言葉に詰まった。
あの男について、集められるものはすべて集めてきた。噂の中にしかない黒い球の切れ端まで、一つ残らず。それでも、今日の炎は、どの噂にもなかった。
「あの男ならば……ないとは、言い切れません」
「ならば、野戦は許さん。帝都に引き込んで、奴らを討つ」
「お待ちください、陛下! もし本当に人を焼く炎を放てるのなら、帝都の民に被害が出ます!」
「だからこそだ」
ゼノスが、薄く笑った。
「民という人質がいる以上、奴は人を焼く炎を撃てん。撃てば、帝都を焼いた大罪人の名を、末代まで背負うことになる。……焼かぬ炎を見せびらかすような男だ。そういう名は、何より嫌うだろうよ」
(……確かに)
エイミは、膝の上で拳を握った。
調べた限り、あの男は、街の中でそんな魔法を撃つ男ではない。
(けれど……民に害が及ぶかもしれないと知りながら、それを盾に取る。それが、皇帝のなさる判断なのか)
口には、出せなかった。
「それにな」
ゼノスは、玉座から立ち上がった。黒い王服の裾が、床を擦る。
「あれを動かせるのは、今はまだ帝都の中だけだ。いずれ赤の王国や白の聖王国と戦うときのために、造らせてきたものだ。この先の大国との戦いを考えれば、ここであれの力を試しておきたい」
エイミの肩が、かすかに強張った。
あれ。
この城の地下で、何年もかけて組み上げられてきたもの。皇帝が城にいながら操れるように造らせた、人の手による兵器。その心臓となる魔導具をかき集め、霊子の流れを組んだのは、ほかならぬエイミだった。皇帝の命だった。
だから、知っている。あれが、まだ試作の域を出ていないことも。一度として、人を相手に動かされたことがないことも。
「ジェイドの弔いは、あれでしてやる」
ゼノスは、口の端だけで笑った。己の勝ちを、毛ほども疑っていない王の顔だった。
エイミは、黙って頭を垂れた。
足もとの石の床の、さらにその下。
光の届かない闇の底で、巨大なものが、目覚めの時を待っていた。




