第23話 二つの声
キッドの右手から、炎が開いた。
扇の形に広がった紅蓮が、地を舐めるように走る。騎兵の列の端から端までを、一息に呑み込んでいく。
悲鳴と、馬のいななきが、同時に上がった。
騎兵たちが、鞍から弾き飛ばされていく。黒い鎧が、次々と地に転がった。
炎が過ぎたあとに、焦げ跡はなかった。草は青いまま、旗も燃えていない。鎧も、衣も、人の肌も、何ひとつ焼けてはいなかった。この炎が焼くのは、ものではない。生き物の内にある力だ。
転がった騎兵たちは、起き上がろうとして、起き上がれずにいた。剣を杖にしても、膝が言うことを聞かない。身体の芯から、立つための力そのものを焼き取られている。
馬は、狂ったように跳ね回り、背の主を振り落としていく。暴れながら走り去る馬も、一頭や二頭ではなかった。
500騎の突撃が、地鳴りごと消えていた。
洞窟で魂に焼きつけられたのは、竜の炎の形だった。けれど、この手から放たれたのは、竜の炎そのものではない。
敵を焼き殺す力など、初めから望んでいなかった。望んだのは、誰も死なせずに、戦を終わらせる力だ。口にもしなかったその望みを、竜王は汲み取ってくれたのだろう。
後に続いていた帝国の歩兵と魔導士の足が、止まった。
(……うまくいった)
そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
竜王の霊子が、引いていく。その後に、空洞が残った。自分の霊子が、底まで汲み出されている。
(ここまで、持っていかれるのか……)
ダークアイを直接叩き込んだときと、変わらない。鞍にしがみつくのが、精一杯だった。
足るぶんは竜王が補う。だが、重さは変わらぬ。あの山の奥で聞いた言葉の意味を、キッドは今、身体で知った。
帝国軍の奥から、鋭い声が飛んだ。
固まっていた歩兵の列が、ほどけていく。互いに間を空け、広く、薄く、散っていく。
(二発目を恐れたか。……撃てないんだけどな)
苦笑しかけて、頬が引きつった。
敵の将は、あの一撃を見て、すぐさま兵を散らした。手堅いだけではない。速い。
キッドは、震える右手を高く掲げた。合図だった。
背後で、鬨の声が上がった。
正面から、レオスの率いる旧紫の兵が押し上げていく。その左右を、紺の兵が駆け抜けていった。機動魔導士の先頭に、長い黒髪がなびいている。紺の騎士の先頭では、麦わら色の頭が、一度だけこちらを振り返った。
味方の波が、キッドの脇を過ぎ、散った帝国兵へ食らいついていく。
これでいい。あとは、列の後ろへ下がって、霊子が戻るのを待つだけだ。
キッドが馬首を返しかけた、そのときだった。
乱戦の向こうから、二騎が抜け出してきた。
散った兵と兵の、その隙間を縫うように。紺の兵の波を、斜めに断ち割るように。こちらへ。
一騎は、痩せた男だった。年はまだ若いのに、髪が白い。
もう一騎は、その男に影のように寄り添う、大柄な騎士だった。
白髪の男の喉から、奇妙な音が漏れた。
唸るような低い声と、笛のような高い声。二つの音が、一つの喉から、同時に。
炎の牙と氷の牙が生まれた。
「っ!」
考えるより先に、身体が鞍から転げ落ちていた。
頭の上を、熱と冷気が過ぎた。二本の牙は左右から弧を描き、さっきまでキッドがいた場所で交わった。乗っていた馬が、悲鳴を上げて倒れる。
(……二つの魔法を、同時に)
そんな芸当ができる魔導士を、キッドは一人しか知らない。会ったことはない。公国にいた頃に、噂で聞いただけだ。
「帝国四天王、『ダブルキャスト』のジェイドか」
白髪の男が、手綱を引いた。値踏みするように、地に膝をつくキッドを見下ろす。
「黒い球の魔導士。……キッドだな」
知っていた。
あの戦場で、エイミも自分を知っていた。帝国の将のあいだでは、とうに名も魔法も知れ渡っているのだろう。
「あんな魔法まで持っているとは、聞いていなかったがな。二発目を撃たれる前に仕留めようと思って、危険を承知で前に出てきたが……その様子では、二発は撃てぬ魔法のようだな」
見切られていた。とはいえ、撃てぬからといって見逃してくれるとは思えない。
ジェイドの隣で、大柄な騎士が剣を抜いた。年の頃は、レオスとジェイドの間あたりか。顔に、古い傷がいくつも走っている。
その顔に、キッドは覚えがあった。
腕だけなら四天王に匹敵すると噂される帝国の騎士ザイン。この男がそばにいるからジェイドも前に出てこられたのだろう。
(……向こうは剣士を連れてきて、俺の剣は今頃敵陣の中か)
笑えない話だが、機動魔導士の指揮から、ルイセは外せない。
ザインが、馬腹を蹴った。
狙いは、キッドだった。霊子の尽きた魔導士など、剣一本で足りる。そういう突進だった。
その前に、緑の軍服が飛び込んできた。
馬上のまま、剣と剣が火花を散らした。
「一人も、通さないと申しました!」
コレットだった。送り出したはずの彼女が、戻ってきていた。乱戦の中から、ジェイドとザインの二騎が抜け出したのを見て、騎士たちをルイセに返して駆け戻ってきたのだろう。
ザインは、二合、三合と剣を合わせると、馬を引いた。コレットを見る目が、わずかに細くなった。
その数合で、キッドにはわかった。
強い。コレットよりも、明らかに一枚上だ。今の打ち合いでも、コレットの剣は、受けるだけで手一杯だった。
それでも、ここにはコレットしかいない。
「コレット。ジェイドを倒したら、すぐに援護する。それまで、なんとか持ちこたえてくれ」
コレットは、振り返らなかった。
「私のほうが先に倒して、すぐにキッド様の援護に回ります」
言うが早いか、ザインへ斬りかかっていく。二人の剣戟が、キッドから離れていった。
残ったのは、二人の魔導士だけだった。
鞍の上で、ジェイドの喉が、また鳴った。
低い音と、高い音。今度は、爆裂球が二つ、左右に生まれた。
速くはない。一発きりなら、かわすのはたやすい。けれど、二つの球は、キッドを狙っていなかった。キッドの左右の地面へ、挟み込むように落ちてくる。
(逃げ場を、潰しにきた)
走った。片方の爆風からは逃れた。もう片方の端に、背中を叩かれた。地面を転がり、土を噛む。
直撃ではない。一つ一つの傷は、浅い。
この攻め方の怖さは、そこにあった。傷と疲れを、着実に積み上げていく。魔法を返す力の残っていない相手を、時をかけて削り殺す攻め方だった。
キッドは、立ち上がりながら、ジェイドの喉を見ていた。
低い唸りと、高い笛の音。言葉ではない。帝国の高原に暮らす遊牧の民には、喉ひとつで二つの音を同時に鳴らす歌がある。彼らはそれを、ホーミーと呼ぶと聞いた。この男は、魔法を形にするための声を、その二つの音に乗せている。低い音で一つ、高い音で一つ。
仕組みが見えたところで、防ぐ手立てにはならなかった。生まれ持った喉と、積み上げた修練。崩しようも、真似しようもない。
(今は、耐えるしかない)
霊子は、少しずつ戻ってきている。乾いた井戸の底に、水がにじむように。
片方の魔法だけでも撃ち返せば、少しは楽になる。しかし、そのぶん、霊子は戻らない。
キッドは、撃ち返さなかった。
ただ、かわした。転がり、走り、また転がった。軍服は泥にまみれ、擦り傷がいくつも増えていく。
ジェイドは、焦らなかった。距離を保ち、馬を動かし続け、同じ攻めを淡々と繰り返す。
「黒い球はどうした。そっちも出せないのか」
答える余裕はなかった。
どれほどかわし続けたか、わからない。
やがて、底に溜まった霊子が、ようやく一つの形を結べるほどになった。
キッドは、足を引きずりながら、ジェイドから距離を取った。
「足をやったか」
ジェイドの声が、ふっと緩んだ。
キッドは、空いた手を、空へ向けた。
「ダークアイ!」
黒い球が、生まれた。
光をまるで返さない、夜をくり抜いたような球。それが、すうっと高く昇っていく。人の背丈の、何倍もの高さへ。
この球を生んだことで、魔力の源たる霊子はカラだ。カラになったうえで、球を維持するだけの霊子を、乾ききった魂から絞り出す。いつ途切れてもおかしくない。
ジェイドが、即座に馬を動かした。
「それが、噂の黒い球か」
警戒が、その手綱さばきに表れていた。球とキッド、両方が視界に入る位置を崩さない。
知っている動きだった。
あの球の本領は、相手の死角からの不意の一撃。この男は、それを知っている。だから、球も敵も、どちらの警戒も緩めはしない。
「ダークブレット」
キッドは、一発だけ撃った。
黒い弾が、ジェイドの馬が寸前までいた地面を抉った。
ジェイドは、眉一つ動かさなかった。
「魔法の声も、霊子の揺らぎも見逃しはしない」
ジェイドの喉が、また二つの音を鳴らした。
炎の角と、氷の角。
並の魔導士が一度に形にできる魔法は、一つきりだ。二つを同時には防げない。そもそも、今のキッドには、その一つでさえ撃つ霊子は残っていない。
「こなくそっ!」
左右から二本の角が迫る。キッドは後ろでなく、前に跳んだ。
右の腕を炎が焼き、左の腕を冷たいものが裂いていく。キッドは、そのまま地面に倒れ込んだ。
ジェイドが、馬を止めた。
倒れた獲物を見下ろす目に、初めて、勝ちを確かめる色が浮かんだ。
「術者から離れた位置からの攻撃。恐ろしい魔法だが――種が割れてしまえば、すでにそれは脅威ではない」
ジェイドの目が、油断なく空の球を確かめた。
黒い球は、じっと浮かんでいる。発声なしではダークブレットは撃てない。たとえ撃てても、発射前のダークアイの霊子の揺らぎをこの男は感じ取ってしまうだろう。
ジェイドは、視線をキッドに戻した。喉の奥で、再び二つの音が、膨らみ始める。
「よく粘った。だが、ここまでだ」
キッドは、倒れたまま、空から見ていた。
空の目に映る景色を、見ていた。
真下に、白い髪がある。馬を止めた、一人の男の頭が。
(……この男が見張っていたのは、弾だ)
あの球から放たれる、魔力の弾。噂の中にあるのは、そこまでのはずだった。球そのものが落ちてくるなど、誰も見たことがない。
撃つのではない。
球そのものを、落とす。声さえいらない。霊子の揺らぎもない。
黒い球が、音もなく、真下へ滑り落ちた。
風を切る音も、なかった。
ジェイドの喉で膨らみかけていた二つの音が、途切れた。
馬の背から、何かが消えた。遅れて、そこに残ったものが、鞍からずり落ちていった。
同時に、キッドの中から、残っていたすべてが抜け落ちた。
そして、消し去ったものの感触が、霊子の糸を逆流してきた。
あのとき消し去った竜王の鱗とは、違った。柔らかかった。温かかった。人の、それだった。
キッドは、身体を横に折って、吐いた。胃の中からは何も出てはこなかったが、腹の奥の濁りを出し尽くすように。
(……勝った)
そう思えたのは、ずいぶん経ってからだった。
仰向けに転がると、空があった。雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていく。指一本、動かせない。
剣戟の音が、止んでいることに気づいた。
首だけを、どうにか動かした。
ザインが、馬上からこちらを見ていた。主のいない鞍を見て、それから、地に転がるキッドを見た。
その前に、コレットが立っていた。
肩で息をしている。緑の軍服が、あちこち裂けて、赤く染まっていた。それでも、剣を構えたまま、一歩も退いていなかった。
少し離れたところに、栗毛の馬が倒れている。コレットの馬だった。
「……通しません」
かすれた声だった。
戦場の音が、変わり始めていた。帝国兵の喚声が、悲鳴に変わっていく。将を失ったことが、伝わり始めたのだろう。
ザインは、剣を収めた。
「主を守る役目を、果たせなかった。……この戦に、俺の役目はもうない」
地を這うような声だった。
ザインは馬を降り、主の亡骸を、黙って自分の鞍へ担ぎ上げた。
(……仇を、討とうとはしないのか)
そのまま馬首を返し、崩れていく帝国の列の中へ、振り返ることなく駆け去っていった。
コレットの膝が、落ちた。
剣を地に突き立て、それにすがるようにして、こちらを向く。その目に、涙がたまっていた。
「キッド様……っ」
「……ああ。助かった」
「だから……だから、護衛が要ると、申し上げたんです……!」
言い返す言葉は、なかった。
誰も届かせなければいい。そう言ったのは、自分だった。
(……想定が、甘かったな)
空を流れる雲を見上げながら、キッドは、小さく、自分を笑った。
その一部始終を、遠く離れた場所から、見ている目があった。




