第22話 竜の口
ジャンは、河岸に立ち、対岸を埋める黒い鎧の列を眺めていた。
帝国軍は、第二の都を背に、大河の向こう岸で陣を敷いている。川幅は広いが、流れは緩く、浅い。歩いて渡れはする。ただ、水に脚を取られながら進む兵は、渡り切るまで的になる。
この地を戦場と定めたのは、キッドの策だった。
(さて、どこまで引きつけていられるか)
帝国が最も警戒しているのは緑だ。主力は必ずこちらへ向けられる。その隙に、紺が南から帝都を突く。
策を詰める書状は、紺の王都と公都のあいだを何度も行き来した。最後に送った一通の末尾に、ジャンは一行だけ書き足した。
――コレットは、好きに使え。
あの生真面目な騎士は、今ごろ、キッドの隣で目を光らせているだろう。
対岸に並ぶのは、帝国四天王のうち二人が率いる軍だった。「帝国の剣」ソードと、「堕とす者」フェルズ。それぞれ2100、合わせて4200。迎え撃つ緑は2500。
勝つ必要はない。負けなければいい。敵をこの河に縫い止め、少しでも長く、帝都から遠ざけておく。それが、この戦でジャンの負った役目だった。
(攻めるほうが、性に合うんだがな)
苦笑して、ジャンは振り返った。
「全軍に伝えよ。河を越えさせるな。ただし、奴らが退く素振りを見せたら、こちらから噛みつけ。緑に戦う気がないと、帝国に思わせるな」
守るだけでは、帝国は見切りをつけて兵を返すかもしれない。守りながら、いつでも攻めかかれる姿勢を見せ続ける。それが、この持久戦の肝だった。
伝令が駆けていくのと入れ違いに、一人の兵が駆け寄ってきた。
「公王陛下! 対岸で、フェルズが陛下を名指しで呼んでおります!」
「……俺を?」
「はっ。『公王を呼べ』と、それだけを繰り返しております」
ジャンは、対岸に目を凝らした。帝国の陣に、渡河の支度をしている気配はない。
ソードの実力のほどは、キッドから聞いている。あの女と斬り結んで、退くまで立っていた男だ。
フェルズとは、顔を合わせたこともない。とはいえ、同じ四天王に名を連ねる男が、酔狂だけで敵の王を呼びつけるとも思えなかった。
応じれば、それだけ刻が稼げる。
「……わかった。俺が行こう」
河岸に出ると、対岸に一騎の影があった。
黒地に金の意匠を凝らした甲冑。兜は着けず、長い髪を風に流している。整った顔立ちに、どこか子どものような笑みを浮かべていた。
あれが、「堕とす者」か。
両軍の兵が、息を詰めてこちらを見ている。王として、無様な姿は見せられない。
「緑の公国の公王、ジャンだ! フェルズ卿、俺に用があるなら、兵を率いて渡ってくるがいい!」
「お初にお目にかかる、ジャン公王! 俺は帝国四天王が一人、フェルズ! 用というのはほかでもない。俺と、一騎打ちで勝負願いたい!」
緑の陣に、ざわめきが走った。
「俺が敗れたなら、俺の率いる2100は、すべてそちらへ降らせよう。ソードの兵まではさすがに無理だが、帝国の兵は半ばに減る。俺が勝ったなら、いただくのは公王の首一つ。そのあとの戦は、好きに続けてくれていい!」
一軍の将が口にする言葉ではなかった。
それでいて、フェルズの後ろに並ぶ帝国兵には、揺らぎひとつ見えない。いつものことだ、と言わんばかりだった。揺れているのは、むしろ緑の兵のほうだ。
噂は、ジャンも耳にしていた。勝ちの見えた戦でさえ、敵将を呼び出して一対一の決闘を挑む。そして、勝ち続ける。どれほどの猛将であろうと、一騎打ちに引きずり込めば必ず地に堕とす。その勝ち星だけで、四天王の座にまで上り詰めた男。
失う兵の数だけを見れば、緑に分のいい話だ。
だが、公王が討たれれば、軍は終わる。国も終わる。四天王とはいえ一人の将の首と、公王の首とでは、釣り合うはずがなかった。
受けるべきではない。理屈では、わかっている。
厄介なのは、兵の心だった。ここまで堂々と挑まれて、それでも受けないのか。その落胆は、持久戦の士気を内側から腐らせる。
「騙し討ちの誘いには乗らん! 見え透いた手だ!」
怖れて逃げるのではない。策を見抜いて退けるのだ。兵にそう見せるための言葉だった。
フェルズは、間を置かずに笑った。
「ならば、俺一人でそちらの陣へ渡ろう! それなら文句はあるまい!」
渡ったところを兵に囲まれて討たれかねない申し出だった。正気の将の言葉ではない。
なのに、ジャンの胸の奥で、何かが騒いだ。
(……俺が、公王でなければ)
血が、沸き立つ。
あの男と、剣を交えてみたい。剣に愛された男などと呼ばれていた頃の自分なら、迷わず河へ踏み込んでいた。
今は違う。ここに立っているのは、騎士ジャンではない。公王ジャンだ。
ジャンは、奥歯を噛みしめた。
(俺の役目は、ここに奴らを縫い止めておくことだ。……託されたからには、やり遂げてやる。だから、お前も、必ず帝都を落とせよ。キッド)
「くだらん! 道化に付き合うつもりはない! 俺の首が欲しければ、正々堂々、兵を率いて攻めてこい!」
言い捨てて、ジャンは踵を返した。
振り返らなかった。これ以上あの男の声を聞いていれば、王の理性より、剣士の血のほうが勝ちかねない。
陣へ戻りかけたところで、対岸から、ひときわ大きなどよめきが上がった。
振り返ると、黒い鎧の列が、動き出していた。
二人の四天王の兵が、肩を並べて河へ踏み込んでくる。
「来るぞ! 構えろ!」
ジャンは、剣を抜いた。
今は、これを振るうことが、遠い友への返事になる。
玉座の間の扉を押し開けたとき、エイミの息は、まだ整っていなかった。
玉座の主は、肘掛けに頬杖をついていた。黒一色の王服に、磨き上げた金貨のような髪が、冷たく光っている。
黒の帝国の皇帝、ゼノス。
エイミは、玉座の前に膝をついた。
「陛下。紺の軍が、南の国境を越えました。数は、およそ1500。街道を、まっすぐ北へ。帝都を目指しております」
ゼノスの眉が、わずかに動いた。
「緑は、西から第二の都へ。ソードとフェルズは、その手前の河で、緑の主力と向き合っております。……初めから、こちらを空けさせるための策だったのでしょう」
言葉を切った。口にすべきかどうか、一瞬だけ迷った。
「ソードかフェルズ、どちらかを帝都に残しておくべきだったかもしれません」
二人を西へ送ると決めたのは、玉座の主だった。それを知っていて、エイミは言った。
ゼノスは、咎めなかった。口の端が、かすかに上がった。
「帝都には、エイミ、お前がいるではないか」
「……陛下」
「攻めの戦で、ソードに並ぶ者はおらぬ。だが、守りの戦ならば――余は、お前をソード以上と見ているが?」
エイミは、とっさに言葉を返せなかった。
ソード以上。
騎士団でただ一度刃を合わせ、それだけで届かないと思い知らされた男だ。何を修めても、あの男の隣に並べたと思えたことは一度もない。その男より上だと、この皇帝は、こともなげに言う。
世辞を口にする王ではない。そのことを、エイミは誰よりもよく知っていた。
「……過分なお言葉です」
それだけを、どうにか返した。
ゼノスは、扉の脇に控える侍従へ目をやった。
「とはいえ、守りの名手を、街の外まで出すこともあるまい。お前は、帝都を固めよ。……ジェイドとザインを、ここへ」
ほどなく、回廊のほうから、歌が聞こえてきた。
聞き慣れた歌だった。唸るような低い声と、笛のような高い声。その二つを、あの男は一つの喉で、同時に鳴らす。言葉はない。草の上を渡っていく風のような、遠い節回しだった。
歌いながら玉座の間へ入ってきたのは、痩せた男だった。年はまだ若いのに、髪が白い。帝国四天王の一人、ジェイド。東の高原に暮らす、遊牧の民の出だった。
皇帝に呼ばれて参じたというのに、歌は止まらない。膝をつきもせず、玉座の脇の柱に、ふらりと背を預けた。
その半歩後ろに、大柄な騎士が続いていた。顔に、古い傷がいくつも走っている。騎士はエイミの隣まで進むと、黙って膝をつき、それきり身じろぎ一つしなくなった。
エイミは、柱のほうを睨んだ。紺の軍が迫っているというときに。
ゼノスは、笑っていた。
「よい節だ。……続きは、戻ってから聞かせよ」
歌が、途切れた。ジェイドが、肩をすくめる。
「戻ってから、ですか。どこかへ行けってことですね」
「2000を連れて出よ。紺の軍を、帝都に届く前に叩け」
「俺が、ですか? こういうのは、エイミのほうが得意でしょうに」
「紺の軍には、黒い球を使う魔導士がいる。緑の国境で、ソードとエイミが相手をした男だ。そのそばには、ソードの鎧を裂いた侍女がつく。……魔導士には魔導士を、剣には剣を当てる」
ジェイドは、首を左右に傾けて、骨を鳴らした。それから、喉の奥で笑った。
「なるほど。なら、俺の出番だ」
「ザイン」
「はっ」
「ジェイドを守れ」
ザインは、短く頭を下げた。問い返しもせず、顔色一つ変えなかった。
ゼノスの目が、再び柱のほうへ戻った。
「エイミの書きつけは、読んでおるな」
「ええ。……あいつの字は細かくて、目が疲れますがね」
二人が、玉座の間を下がっていく。
回廊の向こうへ遠ざかっていく背から、また、あの二つの音が聞こえてきた。
ゼノスは、目を閉じて、それを聞いていた。
国境は、とうに背後へ遠ざかっていた。キッドは、帝国領の街道を北へ駆けていた。
紺の兵は1500。もとからの紺の領地の兵が600、旧紫の領地の兵が900。前者はルイセが、後者はレオスが率い、その上にキッドが立つ。
兵は、そろって軽装だった。盾の壁を誇りとしてきた旧紫の兵にさえ、今度ばかりは身軽な支度をさせた。帝国の主力が西で緑とにらみ合っているあいだに、帝都へ届かなければならない。重い鎧は、速さの邪魔になるだけだ。
馬も足りなかった。紺の軍馬をかき集めても、兵の数には遠く及ばない。だからキッドは、騎兵と歩兵の区別をなくし、全員で馬を回させていた。乗る者と歩く者を、頃合いを決めて入れ替える。歩兵にばかり疲れが溜まらないぶん、軍全体の脚が落ちない。
これほどの速さで駆ければ、荷は後ろに置き去りになる。ふつうなら、この先の兵糧が気がかりになるところだ。
だが、キッドは、少しも案じていなかった。
補給の手立ては、王女に一から叩き込んである。王女は、教えたことを、教えた以上に呑み込んでいた。その王女が王都に残っているのなら、もう一人の自分が城で荷を回しているのと変わらない。
キッドのすぐ左隣では、緑の軍服が駆けていた。
「コレット。そんなに寄ると危ないぞ」
「護衛ですので!」
キッドのほうへ顔を向け、きっぱりと返ってきた。
出陣の前、ジャンから届いた書状には、末尾にこう添えられていた。コレットは好きに使え。読んで聞かせてやると、コレットは「公王陛下のお墨付きです!」と胸を張り、以来、この位置を誰にも譲ろうとしない。
キッドの右では、ルイセが馬を並べていた。キッド越しに、反対側の麦わら色の頭を、何の感情もない目で眺めている。少なくとも、キッドにはそう見えた。
斥候が、馬を飛ばして戻ってきた。
「前方に帝国軍! 数、およそ2000! 先頭は騎兵、500騎ほど!」
来たか、とキッドは思った。
帝都を空けたままにしておくほど、帝国も甘くはない。
キッドは、丘の手前で軍を止めた。
移動で伸びていた隊を整え、馬を機動魔導士と騎士に回させる。
そのまま丘を越えると、敵の姿が見えた。平原の向こうに、黒い鎧の軍が陣を構えている。その最前列に、騎兵が横一列に並んでいた。
数は、向こうが上だ。精鋭揃いの帝国騎兵が、500騎も突っ込んでくれば、1500の軍など、真ん中から容易く裂かれる。
そして、その騎兵の列こそ、キッドが待っていたものだった。
黒い鎧の列が、前へ出てきた。騎兵を先頭に、横一列を崩さぬまま、並足で距離を詰めてくる。
「レオス。紫の兵は、俺の合図で正面から押し上げてくれ」
「心得た」
老将の返事は、短かった。何をするつもりかと、問いもしない。
「ルイセは機動魔導士を。コレットは、ルイセの下で紺の騎士を率いてくれ。合図をしたら、左右から一気に出るんだ」
「キッド様は、どうされるのですか」
「俺は、前に出る」
コレットの顔色が変わった。
「でしたら、私も! 護衛が、護衛対象を一人で――」
「来るな」
自分でも驚くほど、硬い声が出た。
コレットが、びくりと口を閉じる。
「……お前のいつもの場所は、今日だけは炎の中だ。俺の前に、人がいてはまずいんだ」
「では、撃たれたあとは」
「下がって休む。誰も俺のところまで届かせなければ、それで済む。だから、お前の騎士で、誰も通すな。それが、今日の護衛の仕事だ」
コレットは、唇を噛んだ。それから、剣の柄を握り直した。
「……一人も、通しません!」
コレットは、言い捨てるように馬首を返し、紺の騎士のほうへ駆けていく。
ルイセは、動かなかった。
キッドを見ていた。
「……見逃しませんよ」
平らな声だった。
「ああ。そこは、心配してない」
ルイセは、それだけ聞くと、機動魔導士隊の先頭へ馬を走らせていった。
竜王の洞窟で、自分が交わした言葉を、向きを変えて返された気がした。
両軍の距離が近づくと、帝国の騎兵が駆けだした。歩兵と魔導士が、そのあとに続く。小国と侮らず、最初の一撃で叩き潰しにくる。手堅い指揮だった。
キッドは、一人で馬を前へ進めた。
両軍のあいだに、ぽつりと一騎。
敵の騎兵が、気づかないはずはない。けれど、たった一人の魔導士のために突撃を止める将はいない。むしろ踏み潰す勢いで、蹄の音が地鳴りのように膨れ上がっていく。
キッドは、馬を止めた。
目を閉じる。
あの日、魂の底に焼きつけられたものへ、意識を沈めていく。
(竜王よ。あなたの力を、借ります)
答えはなかった。
代わりに、流れ込んできた。
遥か彼方の、あの山の奥から、とてつもなく大きなものが、自分の中へ注がれてくる。ふだん魔法を使うとき、竜王の気配など、かけらも感じない。それが今だけは、あの巨竜が、すぐ後ろに立っているようにさえ思えた。
目を開けた。
騎兵が、迫っていた。
黒い鎧の列が、視界を埋めている。今から馬を返しても、あの波に呑まれるだけだ。そこまで引きつけた。早く撃てば、炎は列の後ろまで届かない。引きつけすぎれば、扇の根もとに近い前の列が、両端からこぼれる。その狭間の一瞬を、待たなければならなかった。
右手を、前へ掲げる。
思い描くのは、あの炎だ。洞窟で、ルイセを呑み込んだ、扇のように広がる紅蓮の奔流。人の身では、どれほど思い描いても届かないはずの業。
(俺の手は、竜の口。敵を呑み込む、炎の口だ)
思い描いた炎を、迫る騎兵の列に重ねる。扇のように広がるその内側に、列が、端から端まで収まっていく。
先頭の騎兵の顔が、見えた。目が、合った。
「竜王破斬撃!!」




