第21話 空の玉座
キッドとルイセを乗せた一頭の馬が、紺の王都へ戻ってきた。
城門が見えてきたところで、キッドの胸に預けられていた背中が、すっと離れた。山を下りてから、一度も自分では起こせなかった背中だった。
門の手前で、ルイセは、キッドが手を貸すより早く鞍から滑り降りた。地に着いた膝が、わずかに沈んだ。それきり、何事もなかったように立つ。
キッドも馬を下り、手綱を引いて、ルイセと並んで城門をくぐった。その途端、待ち構えていたのは、にこりと笑う王女だった。
目が、少しも笑っていなかった。
「おかえりなさい、キッドさん」
「……ただいま、戻りました」
「お手紙、拝見しました」
ルルーは、胸の前で一枚の紙を広げてみせた。何度も握りしめたのだろう。紙は、しわだらけだった。
「王女である私に、一言のご相談もなく。竜王の試練に。お二人だけで」
一言ごとに、声が静かになっていく。緑の公国で、一度聞いた声だった。あのときよりも、さらに低かった。
その隣で、緑の軍服が、剣の柄を握りしめて震えていた。
「キッド様……っ」
コレットの目に、涙がたまっていた。
「お手紙の、とおりに……王女殿下のおそばに、ずっと、ついておりました……! ちゃんと、お守りしました……!」
「……ああ。ありがとうな」
「でも……っ、でも、護衛を置いていく護衛対象が、どこにいるんですか……!」
言い終わる前に、涙がこぼれた。
門の脇では、レオスが腕を組んで立っていた。老将は、何も言わなかった。ただ、口の端が、かすかに持ち上がっていた。留守は、預かりきった。そういう顔だった。
ルルーの目が、キッドの隣へ移った。ルイセの両腕は、ごく当たり前のように身体の脇に下ろされていた。指先だけが、かすかに震えていた。
その目が、そこで止まった。笑みが、ほんの一瞬だけ消えて、また戻った。
「ルイセさんも、ルイセさんです」
「叱られるときは一緒、とキッド君と約束しましたので」
平らな声だった。
王女の笑みが、さらに深くなった。
気づけば、キッドとルイセは、軍師の執務室の床に並んで座らされていた。
目の前に立つ王女から、説教が降ってくる。机のほうからは、緑の騎士のすすり泣きが聞こえる。
樫の机だけが、主を床に座らせたまま、黙って二人を見下ろしていた。
(……これなら、まだ竜王と戦ってるほうがましだったかもしれない)
途切れることのない叱責を聞きながら、キッドは、胸の奥に刻まれたものを確かめていた。
竜王の霊子とつながった、軍を呑み込む魔法。
紺に足りなかった札が、ようやくそろった。
黒の帝国との戦いは、もう、すぐそこまで来ている。
隣で、ルイセが、膝の上に置いた自分の指を、一本ずつ曲げていた。まだ、握りしめることのできない手だった。
説教から解放された翌朝、キッドは、王女に重臣たちを集めてもらった。
王の間の奥の玉座は、今日も空いている。その脇に、ルルーが立っていた。紫との戦の前、夜明けを待たずにこの部屋へ人が集まったときも、玉座は同じように空いていた。この城に来てから、あの椅子に人が座っているのを、キッドは一度も見たことがない。
キッドは、卓に地図を広げた。
「黒の帝国を討つ策を、申し上げます。緑が西から攻め入り、第二の都を目指す。現状、帝国が最も警戒しているのは、緑です。黒の主力は必ず西へ向かう。そのあいだに、紺は南から駆け上がり、帝都を突きます」
重臣たちが、地図に身を乗り出した。誰も、すぐには口を開かない。やがて、文官長が低く言った。
「緑の公王は、この策をご存じなのですか」
「まだ、何も伝えていません。ですが、ジャンなら――いえ、公王なら必ず乗ってくるはずです」
「だとしても、帝都にも、兵は残りましょう」
「残ります。それに関しては、手があります」
「どのような手が?」
「まぁ、切り札ってやつですよ」
それ以上は言わなかった。竜王から授かったものを、この場で明かす気はない。味方さえ知らない魔法。敵にいちばん効くのはそういう技だ。
広間が、静まり返った。紫との戦とは、わけが違う。相手は、紫とは比べものにならない大国だ。負ければ、紺という国が、地図から消える。
重臣たちの目が、一つ、また一つと、玉座の脇へ向いていく。
ルルーは、その目を一つずつ受け止めていた。
「父に代わり、私が決めます」
澄んだ声だった。
「紺は、緑とともに、黒の帝国と戦います。……キッドさん。緑との策は、あなたに詰めていただきます」
「承知しました」
誰も、異を唱えなかった。重臣たちが、深く頭を下げる。その頭の向こうで、空の玉座だけが、黙って広間を見下ろしていた。
執務室へ戻ると、ルルーは、当たり前のように言ってきた。
「私も、参ります」
紫との戦のとき、この王女は鎧をまとって陣に立った。今度も、そのつもりでいるのだろう。
キッドは、首を横に振った。
「今度の戦は、速さがすべてです。荷車を引いていては間に合わない。兵が背負えるだけの糧で駆けて、足りなくなる前に、次の糧と馬が追いついてくる。その流れがどこかで途切れれば、俺たちは敵地の真ん中で干上がります」
「……ですから、城に残れと。でも、兵の心を支えるなら、私が陣に立つほうが」
「今度、兵の心を支えるのは、遅れずに届く糧です。腹が空けば、どんな旗も目に入らなくなる。……いちばん大事な役目だから、いちばん信じられる人に預けたいんです」
ルルーは、しばらく黙っていた。
やがて、胸の前で両手を握った。
「……ずるい言い方です。そう言われたら、断れないじゃないですか」
声は拗ねていたが、赤茶色の瞳は、もう前を向いていた。
「……執務室で補給の話をしてくださっていたのは、これを見越してのことだったのですね」
キッドは、すぐには答えなかった。
半分は、そのとおりだった。残りの半分は、口にしないことにした。
「では、教えてください。キッドさんの知っていることを、全部」
その夜から、執務室の灯りは遅くまで消えなかった。
どの街道に、どれだけの荷車を走らせるか。どこで馬を替え、どこに糧を置いておくか。荷が遅れたとき、何を切り捨て、何を守るか。キッドが流浪の頃から積み上げてきたものを、王女は一つ残らず書きとめ、翌朝には自分の言葉で言い直してみせた。
そのあいだじゅう、左手の樫の机からは、ときおり、羽根ペンの軋む音がしていた。まだ握りの甘い指で、それでも魔導士隊の帳面をつけているらしい。何が気に入らないのかは、聞かないでおいた。
その灯りの下で、キッドは緑への書状も書いた。
最初の一通で策の骨組みを伝えると、返事は驚くほど早く届いた。見慣れた、大きく右へ傾いた字だった。
――乗った。ただし、俺に守りの戦をさせる気なら、それなりの理由を寄越せ。
キッドは苦笑して、理由を書いた。次の返事には、問いが三つ並んでいた。その次には、五つ。河の深さ、第二の都の兵糧、帝国の騎兵の数。一通ごとに、策の穴が埋まっていく。紙の向こうで、あの男が地図をにらんでいる顔が目に浮かぶ。
攻めるほうが性に合う男に、いちばん苦い役を頼んでいる。それでも、ジャンは一度も、嫌だとは書いてこなかった。
ただ一つ、ルイセの名だけは、策のどこにも書き入れなかった。
竜王があの腕に何をしたのかは、わからない。どこまで戻るのかも。わからないものを、策の芯には据えられない。先頭を駆ける兵は、レオスに預ける。そういう形で、策を詰めていった。
樫の机の羽根ペンは、日を追って、迷いなく走るようになっていった。
ある朝、ルイセが、報告書を机の端に置いて言った。
「キッド君。腕が、戻りました。剣も、振れます」
「……そうか」
「ですから、作戦に入れてください」
キッドは、書きかけの書状から顔を上げた。
この女のほうから何かを求めてきたのは、初めてかもしれなかった。
「本当に、大丈夫なのか?」
「私が、キッド君に嘘をついたことがありますか?」
いつもと同じ、平らな声だった。
出会ってからのことを、思い返した。嘘は、一つもなかった。こちらが勝手に取り違えたことなら、何度もあったが。
竜王に穴を開けると言ったときも、この女は、本当に開けてみせた。
キッドは、ルイセの右手を見た。報告書を置いた指は、もう震えていなかった。
「……わかった。組み直す」
その日のうちに、キッドは、先頭を駆ける兵を二つに分けた。そして、ジャンへの書状に、日付を書き入れた。
出陣を控えた最後の夜、ルルーが書きつけを閉じるのを、キッドは黙って待っていた。
この城に入った日のことを、思い出していた。
城門をくぐったキッドを、ルルーが真っ先に案内したのは、王の寝所だった。厚い帳の奥に、薬湯の匂いがこもっていた。寝台の王は、枕から頭を起こすことさえ一人ではかなわず、娘に背を支えられて、ようやく身を起こした。
この国の大事は、とうに十五の王女が一人で決めている。それが言葉の綾でないことを、キッドはあの部屋で知った。
骨ばかりの手が掛け布の上を這うように伸びてきて、思いのほか強く、キッドの手を握り返してくる。かすれた声が、一度だけ言った。
――娘と、この国を、頼む。
それきり、王は目を閉じた。国を追われた魔導士に、病床の父が、一人娘を託したのだ。返す言葉を探しているうちに、寝所の帳は下ろされていた。
ルルーが、書きつけを閉じた。
「ルルー王女。発つ前に、陛下にご挨拶をさせていただけませんか」
ルルーの手が、止まった。
「……父に、ですか」
「あの日のお言葉に、まだお返事をしていませんので」
赤茶色の瞳が、わずかに揺れた。あの日、父の背を支えていたのは、この王女だ。
ルルーは、しばらく黙っていた。それから、小さくうなずいた。
「……ご案内します」
寝所の前で、ルルーは足を止めた。
「私は、ここでお待ちしています」
扉を開けたのは、キッド一人だった。
厚い帳の奥に、あの日と同じ薬湯の匂いがこもっている。変わったのは、寝台に横たわる王のほうだった。
娘に背を支えられて身を起こすことも、もうかなわないらしい。枕に沈んだ頭が、わずかにこちらへ傾いただけだった。
キッドは、寝台の脇に膝をついた。あの日と同じように。
王の口は、動かなかった。
キッドは、掛け布の上の手を取った。あの日より、さらに軽い。握り返してくる力は、ほとんど残っていなかった。それでも、指の先が、かすかにキッドの手のひらを押す。
「夜が明けたら、帝国へ発ちます。城は、王女にお預けしていきます」
落ちくぼんだ目が、キッドを見ていた。その目が、ゆっくりと扉のほうへ動く。閉じた扉の向こうで、娘が待っている。
王の目は、しばらくそこから離れなかった。
「必ず、勝って戻ります。……それが、あの日のお返事です」
王の目が、キッドへ戻った。まぶたが一度、ゆっくりと下りて、また上がる。うなずいたのだと、キッドは思うことにした。
寝所を出ると、ルルーは、扉の脇に立ったままだった。何を話したのかは、尋ねてこなかった。キッドも、何も言わなかった。言葉にすれば、あの部屋で受け取ったものが、どこかへこぼれてしまう気がした。
夜が明けると、城門の前に、兵が並んでいた。
右側の列にルイセが、左側の列にレオスが立つ。キッドの馬のそばでは、コレットが、もう手綱を握って待ち構えていた。
城門の上に、ルルーの姿があった。
鎧は、着ていない。紺のドレスに、薄いマントを羽織っているだけだった。城に残る者の姿だ。
キッドが馬上から見上げると、ルルーは、何か言いかけて、やめた。
代わりに、小さく頭を下げた。王女が、軍師に。
キッドも、黙って頭を下げた。寝所で受け取ったものが、まだ手のひらに残っている。
隣で、ルイセが手綱を握り直した。
「行きましょう、キッド君。荷に追いつかれる前に、着いてしまうくらいのつもりで」
「それじゃ、王女の仕事がなくなる」
「なくなりません。あの王女なら、先回りして待っています」
キッドは、笑った。笑ってから、前を向いた。
「出るぞ」
城が、背後で遠ざかっていく。
北の空は、まだ白みきっていなかった。その下に、黒の帝国がある。




