第20話 望み
金色の瞳が、こちらを見ていた。
それまで、この竜は、足もとの二人に目を落とすだけだった。今は違う。山のような巨体のすべてが、ルイセ一人に向いている。
『人の子よ。刹那とはいえ、我に傷をつけたのは見事。……だが、それまでだ。認めるに足る力ではない』
竜王の口が、大きく開いた。
牙の奥で、紅蓮の熱が渦を巻く。洞窟の空気が、目に見えて歪んだ。
(――来ます)
ルイセは、走った。右へ、左へ、狙いを絞らせまいと軌道を散らす。
脚が、重かった。あの一太刀の踏み込みが、まだ脚に残っている。
竜王の口から放たれたのは、細く絞られた一筋ではなかった。
扇のように広がる、炎の奔流だった。
逃げ切れる幅ではない。紅蓮の波が、視界を埋めた。どこかで、あの人が名を呼んだ。炎の轟きが、それをかき消した。
熱が、肌を叩いた。あの人がかけた火炎防護の膜が、軋みを上げる。息を止め、身を丸めたまま、炎の中を転がった。
炎が、過ぎていく。
焦げた地面の上で、軍服に移った火を、転がって消した。
生きていた。
ただ、それだけだった。軍服のあちこちが焼け焦げ、頬が火ぶくれでひきつれている。片膝をついたまま、肩で息をする。立とうとして、脚が言うことを聞かなかった。
あの技なら、まだ撃てる。腕は震えているが、振れないことはない。
だが、撃ったところで、さっきと同じだ。裂け目は、ダークブレットが届くより早く塞がる。
塞がるより早く、もっと深く、もっと広く。
嵐花双舞に、さらに刃を重ねる。その理屈だけは、昔から知っていた。声に霊子を乗せ、身体の限りの外へ、刃を押し出す。一度も、使ったことはない。使えば腕が持たないと、わかっていたからだ。
暗殺者は、勝てない相手からは退く。痕跡を残さず、生きて戻る。そう叩き込まれてきた。
この相手からは、退くべきだった。
ルイセは、顔を上げた。
竜王ではなく、キッドを見た。
「キッド君。私が、竜王に穴を開けます」
平らな声が出た。自分でも、いつもと変わらない声だと思った。
「……一度きりです。見逃さないでください」
「穴って……どうやって。あの技でも、すぐに塞がったんだぞ」
答えなかった。答えれば、止められる。
ルイセは、竜王へ向き直った。
胸は、だめだ。肉が厚すぎる。狙うなら、首だ。胴よりずっと細い。
ただ、首は頭上にある。跳んで届く高さではない。
背を駆けのぼれば、首が胴から伸びる、その付け根にたどり着ける。
身を沈める。
脚が、重い。焼けた肌が、引きつる。地を蹴るための力が、どこにも見当たらない。
ふと、夕暮れの訓練場が浮かんだ。
倒しても、倒しても、立ち上がる背中。膝を震わせ、息を切らし、勝てないとわかっていて、それでも構え直す背中。
あのとき、自分の足は半歩、下がりかけた。あの娘の覚悟に、押されて。
何のために、あの娘は立つのか。
今なら、わかる気がした。
(……負けていられませんね)
重い脚に、力がこもった。
地を蹴った。
踏み込みの一歩で、竜王との間合いが消えた。地を這う尾に跳び乗る。尾から背へ。背から、首の付け根へ。巨竜の身体を、道のように駆けのぼる。脚が軋む。構わなかった。
竜王が、身をよじった。
遅い。
首の付け根に、たどり着いた。駆けのぼった勢いを、そのまま刃に乗せる。まだ震えの残る腕だった。それでも、刃の速さは落ちなかった。
白と黒の刃が、奔った。
白が霊子を割り、黒が裂け目を抜ける。その二振りが戻るより早く、白と黒が、もう一度、同じ筋へ重なる。四つの刃筋が、竜王の首に走った。
これでは、また塞がる。
ここから先は、人の身の外だった。
声に、霊子を乗せる。身体の限りを、越えるために。
「――乱れ嵐花双舞!」
風が、起きた。
一度も風を起こしたことのない剣が、灰を巻き上げ、熱を裂いて、嵐になった。
振り抜いたはずの刃に、次の刃が追いつく。戻るより早く、同じ筋へ重なる。四つの刃筋の上に、さらに二つ。
四つが、六つに。
腕の内側で、何かが軋んだ。肘から先に、焼けるような痛みが走る。ここが、限りだった。
裂け目は、深くなっていた。それでも、まだ浅い。この深さでは、塞がる。
時が、止まったように見えた。舞い上がった灰の一粒が、宙に浮いたまま動かない。動いているのは、考えだけだった。
(――まだ足りません)
足りないなら、どうするか。答えは、一つしかなかった。
迷わなかった。限りの、その先へ。六つの刃筋の上に、さらに二つを。
六つが、八つに。
八つの刃筋は、一度に走っていた。八つ目を放ったとき、一つ目は、まだ振り抜かれていなかった。鱗を断つ音は、一つだけだった。
考えたはずの間など、どこにもなかった。
ぶつり、と音がした。
それが何の音なのか、考えなかった。考える前に、最後の一閃を振り抜いていた。
竜王の首に、穴が開いていた。鱗も、霊子の鎧もない。深く抉れた肉が、むき出しになっている。
指から、力が抜けていく。双剣が、こぼれ落ちていく。
(……開けましたよ、キッド君)
あとは、あの人が。
視界の端で、巨大な尾が持ち上がるのが見えた。避けなければ、と思った。脚は、鉛のように動かなかった。腕を上げて身を庇おうにも、その腕が、もう言うことを聞かなかった。
ぶつり、という音が、耳に残っていた。
キッドには、あの音が何なのかわかった。
ルイセの腕だった。人の身の限りを越えて刃を振るい続けた腕の、その内側で、筋が、腱が、力に耐えきれずに千切れた音だった。
竜王の尾が、唸りを上げた。
力の抜けた身体を、尾が打った。
細い身体が、紙切れのように宙へ投げ出された。
呼ぶ声は、なかった。
初めから、呼ぶつもりもなかったのだろう。呼ぶ力さえ残さずに、この女は、すべてを賭けた。だから、見逃さないでくださいと言ったのだ。
(……見逃すものか)
キッドは、ルイセのほうへ駆けだしていた。
自分の目で、宙を舞うルイセを追う。空の目で、竜王の首に開いた穴を捉える。二つの視界を抱えたまま、ダークアイに意識のすべてを注ぎ込んだ。
ダークブレットではない。
ダークアイそのものを、叩き込む。
この黒い球は、キッド自身の霊子が形を取ったものだ。これを直接ぶつければ、触れたものは、そこにある空間ごと抉り取られて消える。霊子の鎧も、竜の鱗も、関係ない。キッドが持つ、最後の札だった。
ただ、弾のようには飛ばない。自分の意識で運ぶしかない。胸の裂け目なら、たどり着く前に塞がっていた。たどり着けても、通らなかった。
だが、今の穴は違う。広く、深く、まだ塞がりきっていない。
(――行け!)
黒い球が、竜王の首の穴へ飛び込んだ。
音は、なかった。
竜王の首の付け根が、ひと抱えほど、その場から消えた。
同時に、キッドの中から、何かが根こそぎ抜け落ちた。
霊子が、空になっていく。立っていられないほどの虚脱が、足もとから這い上がってくる。そして、消し去ったものの感触が、霊子の糸を逆流して、頭の中に叩きつけられた。鱗が、肉が、骨が、跡形もなく削り取られていく感触。吐き気がこみ上げた。
(……まだだ。膝をつくな)
ルイセの身体が、落ちてくる。
意識がない。受け身など取れるはずもない。取れたとしても、あの腕では、地を打つ衝撃ひとつ殺せない。
受け止める力は、残っていなかった。できるのは、身体を差し出すことだけだった。
「間に合え……!」
最後の一歩で、キッドはルイセの身体と地面のあいだに滑り込んだ。
背中から、岩に叩きつけられた。肺の中の息が、全部押し出される。その上に、ルイセの重みが落ちてきた。
けれど、この女の身体が、岩に打ちつけられることだけは防げた。
(……助けられた、か)
そう思いかけた、そのときだった。
全身の毛が、逆立った。
根もとを抉られたはずの竜王の首が、じわりと持ち上がっていく。金色の瞳が、こちらを見下ろした。
「……嘘だろ。あれで、まだ動けるのかよ」
竜王の口が、開いた。喉の奥で、光が揺らめいている。
動けない獲物に、広く焼き払う息は要らない。来るのは、一点に絞った炎だ。人の魔法では防げない、あの炎だ。
ルイセを抱えて逃げる力は、どこにもない。置いて逃げるなど、考えもしなかった。
(だったら――)
キッドは、身体を入れ替えた。
ルイセを下に、自分がその上に覆いかぶさる。
(残ってるものがあるなら、全部持っていけ)
枯れたはずの霊子の底を、かき集めた。
「火炎防護!」
淡い光が、もう一度、二人を包んだ。先の膜に重なるのではない。薄れかけたものを、張り直しただけだ。それが、今の自分にできる精一杯だった。
「竜王よ! この身を盾にして、あなたの炎からこの女を守りきれたなら――その奇跡に免じて、この女だけは見逃してほしい!」
叫んで、キッドはルイセの身体を抱え込んだ。
腕の中で、ルイセの腕が、何の抵抗もなく折れ曲がった。
しなやかな筋に包まれていたはずの腕が、中身を失った布のように、ただキッドの腕に沿って曲がる。
この腕で、双剣を振るっていた。あの夜、自分とジャンの喉もとへ迫った刃を。今日、竜王の首を穿った刃を。
(もう、剣は握れないかもしれない。――それでも、こいつだけは)
目を閉じた。
――熱は、来なかった。
代わりに降ってきたのは、声だった。
『……顔を上げよ、人の子』
キッドは、そっと目を開けた。
竜王の口は、閉じていた。喉の奥に揺らめいていた光も、消えている。金色の瞳が、静かにこちらを見下ろしていた。その目に、敵意はなかった。
『見事であった。我がこれほどの傷を負ったのは、久方ぶりだ』
「……俺たちは、認められたんですか」
『うむ』
試練を、越えた。
なのに、喜びは湧いてこなかった。
キッドは、腕の中のルイセを見た。
あの音が、耳の奥で鳴っている。人の腕から、あんな音がするのを、キッドは聞いたことがなかった。医術の心得はない。だとしても、わかる。あれは、元には戻らない。剣どころか、フォークを持つことさえ――
『魔導士よ。お主の望みは、我が霊子を借りた魔法であろう。……叶えよう』
まだ、口にしてはいなかった。この竜には、すべて見えていたらしい。
考えるより先に、叫んでいた。
「こいつの腕を――」
言いかけて、キッドは口をつぐんだ。
軍を呑み込む魔法。紺に足りなかった、ただ一枚の札だ。この札を捨てた先に、帝国に勝つ絵は一枚も描けなかった。だから、ここまで来た。
それでも、策なら、自分が探し続ければいい。眠らずに考え、盤面を読み、何度でも描き直せばいい。
だが、ルイセの腕だけは、どれだけ探しても、自分にはどうにもならない。
答えは、決まっていた。
そもそも、迷う必要すらなかった。
「魔法はいらない。こいつの腕を、元に戻してくれ」
竜王は、すぐには答えなかった。
『対峙したとき、お主の望みは見えていた。その望みの重さに見合う力で、我は応じた。……その娘の腕は、その重さを払ったのだ。お主は、それを捨てるのか』
キッドは、腕の中のルイセを見た。
一度きりです、とこの女は言った。見逃さないでください、と。
腕を差し出して開けた穴だった。自分の望みを、叶えるための。
その穴を、自分は見逃さなかった。見逃さなかったものを、ここで捨てるのか。
「……捨てません」
かつてこれほど苦しい言葉を吐いたことがあっただろうか。
金色の瞳が、キッドを射抜いた。
身体が、動かなくなった。
空になった身の内に、何かが流れ込んでくる。燃え盛る炎。渦を巻く霊子の流れ。世界を貫く竜の咆哮。それらが組み合わさり、一つの形を成していく。言葉ではなかった。知識でもなかった。魂の底に、焼きつけられていく。
軍を呑み込む魔法の、完全な形だった。
『お主の霊子と、我が霊子とをつなげた。人の身でその魔法を扱うには、お主の霊子だけでは足らぬ。足らぬ分は、我が補おう。……だが、補ったとて、お主の身にかかる重さは変わらぬ。肝に銘じておけ』
使えるのは、せいぜい日に一度だろう。紺に足りなかった札が、今、この手の中にある。一度は、手放そうとした札だった。
キッドは、頭を下げた。下げた頭が、すぐには上がらなかった。
『……その娘にも、褒美をやらねばなるまい』
竜王が、ルイセを見下ろした。金色の瞳が、しばし細められる。
『言葉にできぬものを、剣で語る娘か。……ならば、語り続けられるようにしてやろう』
何かが、この竜とルイセのあいだで交わされたようだった。だが、それが何を意味するのか、キッドにはわからなかった。
『帰りは、送ってやろう。まだ叶えたい望みがあるのなら、いつでも来るがよい』
「――ええ。そのつもりです」
ルイセの腕に視線を落とした。
竜王は、何も答えなかった。視線を戻すと、金色の瞳の奥で、何かが揺れたように見えた。
次の瞬間、景色が弾けた。
青い空が、頭上にあった。
見覚えのある山道だった。竜王の山脈へ続く、登り口のあたりだ。洞窟の奥にいたはずの二人が、一瞬でここまで運ばれていた。足もとには、白と黒の双剣も転がっていた。
(……とんでもないものを、相手にしてたんだな)
今さらながら、背筋が冷えた。
ルイセは、腕の中で目を閉じたままだった。このまま山道に寝かせる気にはなれない。
麓の集落までは、まだ下りが続く。
キッドは、双剣を自分の腰に差し、ルイセの膝の裏と背に腕を回して、抱え上げた。
膝が、笑った。霊子は空のままで、岩に打ちつけた背中が、一歩ごとに軋む。それでも、腕はほどかなかった。
何十歩か下ったところで、腕の中が、小さく身じろぎした。
まぶたが震え、ゆっくりと開く。焦点の合わない目が、空を見て、それから、キッドの顔を見た。
「……キッド君」
「気がついたか」
ルイセの目が、自分の置かれている場所をたどった。キッドの腕の中。地面から浮いた、自分の足。
「……下ろしてください」
「うるさい。まともに立てやしないだろ。その腕じゃ、抵抗もできない。おとなしくしてろ」
息が切れて、声が掠れた。
ルイセは、何か言いかけて、口を閉じた。納得したのかと思った。
その腕が、持ち上がった。
あり得ない。あの腕の内側で、支えるものがすべて千切れる音を聞いた。何の抵抗もなく折れる腕の感触を、まだ覚えている。
それなのに、ルイセの腕が持ち上がっている。震えながら、弱々しく。
キッドの顔を押しのけようとしたのだろう。けれど、押す力はどこにもなかった。指先が、キッドの頬をなでるように滑って、そのまま、ぱたりと落ちた。
キッドは、腕の中の身体を落としかけた。
「下ろしてくださいとは言いましたが、落としていいとは言っていません」
「……腕……動くのか?」
ルイセが、自分の右手に目をやった。
指を、曲げようとする。ひどくゆっくりと、震えながら、一本ずつ。握ることはできない。それでも、指は、確かに曲がった。
「……そういえば、動きますね」
「千切れた音を、聞いたんだぞ」
自分の声が、少し上ずった。
洞窟で抱えたときには、中身を失った布のようだった腕だ。剣どころか、フォークを持つこともできないと思った腕だ。一度は、魔法と引き換えにしようとした腕だ。
「竜王が、お前にも褒美をやると言っていた。……きっと、これがそうだ」
「……そうですか」
それだけだった。この女らしい、と思った。
自分が竜王に何を頼んだのかは、言わずにおいた。
ルイセは、しばらく自分の指を見ていた。それから、キッドを見上げた。
「一度きり、と言いました。……見逃しませんでしたか」
「ああ。見逃してない」
ルイセの目が、ほんの少し、細められた。
「なら、いいです」
キッドは、腕の中の重みを抱え直して、また一歩、山道を下った。
「もう、あんな無茶はするなよ」
「約束は、できません」
即答だった。
そうだろうな、と思った。




