第18話 四つの机、二つの剣
紺の王都の城門が見えたとき、ルイセは、腕の痺れがようやく抜けていることに気づいた。
これで、茶器の揺れを悟らせずにすむ。そう考えたところで、侍女の役目がもう終わりを迎えることを思い出す。
(……悪くはなかったんですけどね)
黒と白の服に目を落としながら、指がツインテールの髪の先に伸びる。
外に目を向ければ、城門の前には、老将が騎士たちを並ばせて待っていた。
馬車が止まる。扉が開くなり、コレットが真っ先に飛び降りた。
並んだ騎士たちが、ざわめいた。紺の王女の馬車から、緑の軍服が飛び出してきたのだ。無理もない。
コレットは、気にする様子もなく、背筋をぴんと伸ばした。
「緑の公国騎士、コレットです! 本日より客員将校として、紺の王国にお世話になります! これからは公王陛下の命により、キッド様の護衛を務めますので、よろしくお願いします!」
城門の前に、元気のよすぎる声が響き渡った。騎士たちが、目をしばたたいている。
レオスが、白い眉を上げた。
「ほう。……護衛、と」
「はい!」
ルイセが降り、キッドが続いた。キッドは振り返り、馬車の中へ手を差し伸べる。ルルーがその手を取り、石畳に降り立った。
レオスが、深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ、王女殿下。留守のあいだ、城は変わりありません」
「ありがとうございます、レオス将軍。ご苦労をおかけしました」
頭を上げた老将の目が、黒と白の装いの上で止まった。長い沈黙のあと、老将は一つ咳払いをした。
「……軍師補佐殿は、まだウェイトレスをなさっておいでか。その髪も、ずいぶんと愛らしい。よう似おうておられる」
「侍女の役目は、城門までです」
ルイセは、そう答えると、髪の結び目に指をかけた。ほんの一瞬、指が止まる。それから、ほどいた。
「……戻すのか」
キッドの声が、耳に残った。
「……はい」
そうとだけ答え、手に残った二本の白い紐を、指に絡める。なぜそうしているのか、自分でもわからなかった。
ルルーが、城へ向かって歩きだした。その隣に、キッドが並ぶ。キッドの半歩前には、もうコレットが立っていた。さも当然のように。そこが、自分の場所だと言わんばかりに。
三人の背中が、城門をくぐっていく。キッドは、頭をかいている。困っているようには、あまり見えなかった。
ルイセは、レオスと並んで、その背中を後ろから見ていた。
「キッド殿の護衛だそうですな」
老将が、前を見たまま言った。
ルイセは、何も答えなかった。
(……護衛、ですか)
その夜、ルイセはなかなか寝つけなかった。
腕の痺れは、もう抜けている。だから、腕のせいではない。
では、何のせいなのか。考えてみても、よくわからなかった。
ルイセが魔導士たちの稽古を終え、報告のために軍師の執務室を訪れたのは、コレットが来て三日目の昼下がりだった。
紺の軍服に戻って、三日になる。ウェイトレスの服は、また荷の底にしまった。
扉を開けて、足が止まる。
部屋の中に、机が二つあった。
一つは、もとからあるキッドの机。もう一つは、その右手に、真新しい机が据えられている。机の主は、山と積まれた書類を、驚くほどの速さで仕分けていた。
「あ、ルイセ殿。お疲れさまです!」
コレットが、顔を上げて朗らかに言った。
「……その机は」
「護衛ですから。同じ部屋にいなければ、お守りできません。ついでに、書類の仕分けもお手伝いしています。昔も、キッド様の書類は私が整理していましたから」
キッドの机を見ると、いつもは雪崩を起こしかけている書類の山が、きれいに三つに分けられていた。急ぎのもの、目を通すだけのもの、王女の裁可が要るもの。
「実際、助かってるよ。コレットは、昔からこういうのが早くてな」
キッドが、顔も上げずに言った。
(……そうですか)
ルイセは、手にした報告書を、キッドの机の端に置いた。
「魔導士隊の報告です」
「ああ、ありがとう。そこに置いといてくれ」
もう置いてある、とは言わなかった。
コレットは、よく喋った。手を動かしながら、口も動く。それが公国時代のキッドの話になるまでに、いくらもかからなかった。
「キッド様、覚えていらっしゃいますか。北の砦で、補給が途絶えたときのこと」
「……昔の話はいいだろう」
「よくありません! 三日三晩、一睡もなさらずに、退き道を考えてくださったんです。おかげで、中隊の誰一人、欠けずに戻れました」
ルイセは、窓際の壁に背を預けたまま、黙って聞いていた。
三日三晩。一睡もせず。誰一人、欠けずに。
この人らしい話だと思う。紫との戦で、死者を一人も出さなかった人だ。仕える国が変わっても、この人の目指すものは、何も変わっていないのだろう。
それを知ったことに、不満はない。軍師補佐として、軍師の過去を知っておくのは、むしろ役に立つ。
なのに、胸の奥が、またちりちりと鳴った。
(……昨夜も、あまり眠れませんでしたから)
寝不足は、まだ続いていた。
ルルーがこの部屋に通うようになったのは、その翌日からだった。
初めは、協議のためだった。旧紫の税の割り当て、街道の整備、騎士団の再編。軍師と詰めねばならない話は、いくらでもある。そのたびに、王女は書類を抱えて執務室を訪れた。
ルイセが報告に来ると、たいていルルーがいた。そして、たいていコレットもいた。
キッドの机の右手で、コレットが書類を仕分けている。キッドは、それを当たり前のように受け取っている。二人の手のあいだを、紙が迷いなく行き来する。
ルルーは、その光景を、じっと見ていた。
「キッド様、この件ですが――」
「キッド様、こちらの書類、先に目を通していただけますか」
ルルーとコレットの声が、重なった。
二人が、顔を見合わせる。一瞬の沈黙が落ちた。
翌朝、執務室に三つ目の机が運び込まれていた。キッドの正面に据えられたその机で、ルルーが澄ました顔で書類に目を落としている。
「協議のたびに行き来するのは、手間ですから」
問われる前に、ルルーはそう言った。
「それと、キッドさん。昨日の街道の件ですが」
キッドが、書類から顔を上げた。
「……キッド、さん?」
「はい。何か、おかしいですか?」
ルルーは、にこりと笑った。有無を言わせぬ笑みだった。
「いえ……おかしくは、ないです」
キッドは首をひねりながら、書類に目を戻した。
ルイセは、報告書を机の端に置きながら、その様子を見ていた。
(なるほど)
主君が臣下を「様」付けで呼ぶのは、たしかに筋が通らない。これまでがおかしかったのだ。王女も、ようやくそれに気づいたのだろう。
ルイセは、一人うなずいた。実に、合理的な判断だった。
ただ、合理的でないことも、一つあった。
ここ数日、キッドの様子がおかしい。
目の下に、薄く隈が浮いている。机に積まれる書類は、帰ってきた頃の倍に近い。王女が執務室に通うようになってからは、協議の合間に、補給の話をするようになった。兵一人が一日に食べる量。馬の飼い葉。荷車一台で運べるもの。王女は、それを一つ残らず書き留めていた。
コレットには、書類の回し方を教えている。どの文官に何を渡し、何を王女の裁可へ回すか。仕分けるだけでなく、仕分けた先まで。
まるで、自分の持っているものを、少しでもこの国に残そうとしているように見えた。
ルイセは、自分の手もとに目を落とした。魔導士隊の報告書が一枚。あの人から渡されたものは、何もなかった。
(……緑へ、戻るつもりなのでしょうか)
あの公王とのあいだに、まだ聞かされていない話があるのかもしれない。
だが、すぐに打ち消した。それなら、コレットが黙っていられるはずがない。あの娘は、隠し事のできるたちではない。あの人にしても、そういう嘘をつく人ではない。
少なくとも、黒の帝国がいるかぎり、あの人はこの国を離れない。それは、きっと間違いない。
なのに、なぜだろう。
あの人が、ここからいなくなる。そんな気がして、ならなかった。
その夜も、ルイセは城の中を歩いていた。
寝つけない夜は、ねぐらを一巡りする。暗殺者だった頃から、それが習いだった。今は、この城がねぐらだ。扉のかんぬき、窓の鍵、外の気配。確かめるものは、いくらでもある。
軍師の執務室の前で足が止まったのは、たまたまだった。
扉には、鍵がかかっていた。気づけば、開いていた。暗殺者の指は、ときどき勝手に動く。
机は、三つになっていた。
キッドの机。その右隣に、並べて据えられたコレットの机。そして正面に、キッドと向かい合うように、ルルーの机。
空いているのは、キッドの左隣だけだった。
ルイセは、その空白を見つめていた。
(……軍師補佐が、軍師と別の部屋で仕事をしている)
報告のたびに、廊下を行き来する。書類を渡すにも、声をかけるにも、いちいち扉を叩かねばならない。
非効率だ。
改めて考えてみれば、ひどく非効率だった。軍師補佐の本分は、軍師を補佐することにある。その軍師のそばにいなくて、どうして補佐が務まるだろう。これは、職務上の問題だった。
ルイセの机は、軍師補佐の執務室にある。軍師の部屋とは、廊下をいくつか隔てていた。樫の一枚板の、重い机だ。
ルイセはそれを一人で担ぎ上げ、夜の廊下を歩いた。
見張りの兵の背後を、音もなく過ぎる。燭台の灯りの届かない壁際を選んで、足を運ぶ。角を曲がる前に、気配を探る。
かつて、他国の王城にも、こうして忍び込んだことがある。その技を、机を運ぶために使ったのは、初めてだった。
見張りの誰一人、樫の机が廊下を渡っていったことに、気づかなかった。
翌朝、ルイセは、誰よりも早く執務室にいた。
樫の机は、キッドの机の左隣に据えてある。軍師の机を挟んで、右にコレット、左に自分。その三つと、正面の王女の机とが、向かい合っていた。
最初に来たのは、コレットだった。扉を開けたところで足が止まり、口がぽかんと開いた。その目が、樫の机とルイセとのあいだを往復した。
「おはようございます、コレット殿」
「お、おはよう、ございます……」
次に、王女が来た。左手の机とルイセとを一度ずつ見て、何も言わずに自分の席に着く。書類で口もとを隠しているが、その目は、少しも笑っていなかった。
(……なぜでしょう)
最後に、キッドが来た。
扉を開けたまま、キッドは固まった。
「……ルイセ。その机は」
「何か、問題でも?」
ルイセは、顔も上げずに言った。いつもどおりの、平らな声で。
「いや……問題は、ないが」
キッドは、扉の鍵と樫の机とを見比べた。昨夜、鍵をかけたのは自分のはずだ、とでも言いたげな顔だった。それから、その目が、向かいの壁際で止まった。
「……書棚も、動いてないか」
「机を置くと、通路がなくなりますので。本は、元と同じ順に並べ直してあります。問題はないと思いますが」
「いや、並んでる順番の問題じゃなくて……」
キッドは、何か言いかけて、やめた。首をかしげながら、自分の席に着く。
ルイセは、書類をめくった。軍師の左手で、軍師補佐が仕事をしている。何も、おかしなことはない。
四人の机が向かい合う部屋に、紙をめくる音だけが満ちた。どういうわけか、妙に張り詰めた静けさだった。
その静けさを破ったのは、キッドだった。
「コレット。頼みがある」
「はい!」
「レオスが、騎士の剣を見る目が足りないと言っていてな。しばらく、騎士たちに剣を教えてやってくれないか」
「私が、ですか?」
コレットの顔が、ぱっと明るくなった。
「ああ。お前の剣は、隊で戦う剣だ。あれを、この国の騎士たちに残しておきたい」
残しておきたい。
その言葉が、耳に引っかかった。
ルイセは、書類から目を上げなかった。キッドも、こちらを見なかった。
頼まれたのは、コレットだけだった。
魔導士隊の稽古がある。軍師補佐の仕事もある。剣を教える手がコレット一人で足りるのなら、それがいちばん合理的だ。
書類をめくる指が、一枚分だけ、遅れた。
その日の夕方、魔導士隊の稽古を終えたルイセは、訓練場へ足を向けた。報告のついでだった。
騎士たちが、コレットを囲んでいた。
盾を並べる動きは、緑の公国へ発つ前とは見違えていた。隣とのあいだを詰め、盾の縁を重ね、号令一つで一歩ずつ下がる。留守のあいだに、あの老将が仕込んだのだろう。小国の紺には、もとより、剣の芯まで教えられる者がいなかった。この老将が来るまでは。
そして今は、剣の構えまで変わっていた。剣先が、自分の正面ではなく、隣の騎士の肩を向いている。一人が崩れても、隊が崩れない構えだ。
「隣を守れる剣は、自分も守ってくれます。並んで戦う騎士の剣は、そういうものです」
コレットが、一人ひとりの前に立ち、握りを直していく。できた者には、ぱっと笑って「そうです!」と言う。できない者には、できるまで付き合っている。
訓練場の端では、キッドがレオスと並んで、その様子を見ていた。
ルイセに気づいたコレットが、胸を張った。
「ルイセ殿! ご覧ください。皆さん、もう構えが変わりました!」
「……そうですか」
「やはり、騎士には騎士の剣です!」
ルイセは、騎士たちの木剣に目をやった。
よく揃っている。並んで戦うなら、あれでいい。だが、隣が倒れ、剣が折れ、一人で取り残されたら。
「……実際に戦えば、私の圧勝ですけどね」
思ったことが、そのまま口から出ていた。
平らな声だった。張り合うつもりも、挑むつもりもなかった。
コレットの肩が、ぴくりと跳ねた。
「……では、確かめてください」
コレットが、木剣を構えた。
訓練場が、静まり返った。
「わしが立ち会おう」
いつの間にか、レオスが二人のあいだに立っていた。老将は、ルイセを見て、それからコレットを見た。
「やめておけ、と言っても聞かん顔だな」
コレットは、答えなかった。ルイセは、近くの騎士から木剣を一本受け取った。片手に下げたまま、構えは取らない。
レオスが、手を上げた。振り下ろす。
コレットが踏み込んだ。
まっすぐな剣だった。型のとおりに、寸分の狂いもなく。肩から切っ先まで、一本の線が通っている。受けた木剣が、手首ごと押し返された。
一合目から、重かった。
返した一撃を、コレットの剣が弾く。弾いた勢いのまま、構えに戻る。崩れない。
二合、三合、四合。角度を変えて打ち込む。そのすべてが、型の内で受けきられた。受けるたびに、構えが元の形に戻っている。
剣だけで崩すには、時がかかる。
ルイセは、次の打ち込みを受け流した。その刹那、木剣を、コレットの顔の前へ放った。
コレットの目が、それを追った。剣を手放す相手は、型の中にいない。
その一瞬で、足りた。懐へ入り、空いた手でコレットの手首を取る。足を払う。
コレットの身体が、宙で半回転し、背中から地に落ちた。
「それまで」
レオスの声が響いた。
「剣で……剣で、勝負を……!」
地面に手をついたまま、コレットが声を上げた。
「剣で、とは言われていませんから」
ルイセは、落ちた木剣を拾った。
「剣を手放すなど……騎士のすることでは、ありません」
「死んだ騎士に、作法は守れませんよ」
コレットの頬が、さっと赤くなった。
勝負は、それで終わりのはずだった。
だが、コレットは立ち上がった。
木剣を構え直す。型のとおりに。肩から切っ先まで、一本の線を通して。
「……もう、勝負はついています」
「だとしても、私の後ろにキッド様がいたら、ここでは終われません」
コレットの息が、上がっていた。声だけは、揺れていなかった。
「これだけは、譲れません」
ルイセは、何も言わなかった。
同じ手は、二度と使わなかった。足を払い、肘を取り、ときには剣ごと打ち落とした。コレットが倒れる。立ち上がる。構え直す。
三度目に倒れたとき、コレットの膝は、はっきりと震えていた。それでも、立った。構えた。四度目も、五度目も。
勝負は、とうについている。それでも、立つ。
構え直すコレットの覚悟に、気づけば自分の足が半歩、下がりかけていた。そのたびに、踏みとどまった。
騎士たちは、もう誰も、声を上げなかった。その何人かが、知らず、木剣を握り直していた。コレットに直されたばかりの握りだった。
六度目に立ち上がったコレットの前で、ルイセは、木剣を下ろした。
「……今日は、ここまでにしておきます」
これ以上は、稽古にならない。そう判断した。
いつそう判断したのかは、自分でもよくわからなかった。
「よいか。軍師補佐殿の戦い方は、姑息な技ではない。戦場では、相手も死に物狂いだ。何をしてくるかわからん。それを、身をもって示してくださったのだ」
レオスが、低く言った。騎士たちに向けた声だった。
「だが、それに応じるには、崩れぬ基礎と、何度倒されても立ち上がる意志が要る。それを見せてくれたのは、コレット殿だ。……学べるものは、すべて学べ」
騎士たちが、背筋を伸ばして応えた。そのうちの何人かが、ルイセの手もとを見ていた。剣を捨てて勝つ剣を、初めて見た者の目だった。
レオスも、ルイセに向き直った。
「ところで、軍師補佐殿。次は、わしと――」
「遠慮します」
老将の言葉は、最後まで続かなかった。騎士たちのあいだに、ようやく笑いが戻った。
キッドが、地面に座り込んだままのコレットのもとへ歩み寄った。手は、貸さなかった。
「腕を上げたな」
それだけだった。
コレットが、弾かれたように顔を上げた。泥のついた頬が、見る間に赤く染まっていく。何か言おうとして、言葉にならず、コレットは下を向いた。
「……ありがとう、ございます」
蚊の鳴くような声だった。
ルイセは、その二人を、少し離れたところから見ていた。
勝ったのは、自分だった。
なのに、何かに負けた気がした。何に負けたのかは、わからなかった。
その夜、ルイセは、軍師の執務室の自分の机で、一人、木剣の手入れをしていた。
手入れなど、要らない木剣だった。なのに、布を動かす手は止まらなかった。
手首に、まだ感触が残っている。型の中に、あれほどの重さを込められる者は、そういない。
だが、目に残っているのは、剣ではなかった。
立ち上がる背中だった。膝を震わせ、息を切らし、勝てないとわかっていて、それでも構え直す背中。
何のために、あの娘は立つのだろう。
答えは、わかっている気がした。わかっている気がするのに、それを言葉にしようとすると、胸の奥の、どこか知らない場所に触れてしまいそうだった。
ルイセは、布を置いた。
今夜も、きっと寝つけない。




