第17話 隣の席
殿の最後の列が丘を越えたのを見届けて、エイミはようやく剣を鞘に納めた。
追ってくる気配はない。緑の公王は、深追いの愚を知っているらしい。退き際に並べた盾の列を見て、手を引いたのだろう。
エイミは列を離れ、軍の先頭へ向かった。
退いていく兵の流れの中に、そこだけ岩のように動かない大きな背があった。黒い鎧。短く刈った鋼色の髪。人の背丈ほどもある大剣を背負ったまま、兵の一人ひとりに短く声をかけている。
「数で劣っていたとはいえ、今回はやられたわね」
声をかけると、ソードはゆっくりと振り向いた。
「ああ。だが、見るべきものは見た」
低い声には、負けた者の悔しさより、先を見る者の落ち着きがあった。いつもの声だ。エイミは、胸の奥で小さく息をついた。この男がこの声でいる限り、帝国の軍は崩れない。
そう思って、視線を落としたときだった。
「ソード、あなた、その傷……!」
胸甲の下の脇腹が、横一文字に裂けていた。裂け目の縁が、赤黒く濡れている。
「血は止まっている。内臓までは届いていない」
ソードは、それだけ言った。
この男は、痩せ我慢も虚勢も張らない。大丈夫だと言うのなら、大丈夫なのだ。そのことを、エイミは誰よりもよく知っていた。
「……あなたがそう言うのなら、そうなんでしょうね」
自分に言い聞かせるように言ってから、エイミは顔を上げた。
「それで、相手は誰? キッドじゃないわね。あの男は、ずっと私の前を走っていたもの」
「侍女と名乗った。格好はウェイトレスだったが」
「……侍女?」
聞き違えたのかと思った。ソードの顔を見る。冗談を言うときも、この男は真顔だ。けれど今は、冗談を言っている顔ではなかった。
「キッドと二人で来た。キッドが離れてからは、一人だ」
エイミは、言葉を失った。
二人がかりなら、わかる。あの魔導士と組めば、並の剣士でも化ける。だが、一人で。しかも、女の身で。
騎士の家に生まれ、幼い頃から剣を握った。同じ年頃の男を相手にしても、負けたことはなかった。その自信を、若くして入った騎士団で、ただ一度の手合わせが砕いた。
相手が、この男だった。
どれほど鍛えても、この男には届かない。刃を合わせた瞬間に、それがわかった。だから、剣の道を降りた。剣で届かないのなら、ほかのすべてで並んでみせる。そう決めて、魔法を修め、兵法を修め、国の政にまで手を伸ばした。何か一つで誰にも負けないと誇れるものは、ついに持てなかった。そのかわり、何をさせても一流と呼ばれるところまでは来た。帝国の魔女という名は、そうして付いたものだ。
その自分が、剣では一度も届かなかった男の鎧を、侍女が裂いた。
「……どんな剣だったの」
ソードは、すぐには答えなかった。自分の脇腹の傷に、目を落とす。
「風が、なかった」
「風?」
「あれほどの速さで刃が走れば、風が起きる。それがなかった。髪の一本も、揺れなかった。……踏み込みも、そうだ。まるで影のほうが、遅れてついてくるようだった」
エイミには、意味がつかめなかった。ソードも、うまく言葉にできずにいるように見えた。
「見たことのない技だった」
ぽつりと、そう付け足した。
エイミの背を、冷たいものが走った。
この男は、帝国のあらゆる剣を見てきた。国の外の剣も、名のある剣士の剣も。その男が、見たことがないと言う。
「……厄介ね」
「ああ。次に戦うことがあれば、二度目だ。問題ない」
何が問題ないのか、エイミは聞かなかった。この男が問題ないと言うのなら、問題はないのだ。
「そちらは。キッドを、仕留めきれなかったようだが」
「……ええ。厄介な魔導士よ。聞いていた以上に」
この世界の名のある魔導士のことは、国の内も外も、すべて頭に入れてある。
あの男の黒い球だけは、噂の中にしかなかった。見た者でさえ、それが何なのかを語れない。エイミは、その切れ端を一つ残らず拾い集めた。
正体の知れない魔法なら、消してしまえばいい。あとは、剣と魔法、勝てるほうで戦えばいい。そこまでは、読みどおりだった。
読みどおりでなかったのは、あの男の逃げ足だ。
「こんなことなら、あのまま兵の中で指揮に徹するべきだったわ」
「お前が出なければ、あの魔導士は兵の頭の上に火の玉を落とし続けた。どちらを選んでも、兵は削られた」
ソードは、淡々と言った。慰めているのではない。事実を並べているだけだ。それが、この男なりの慰め方だということも、エイミは知っていた。
現に、エイミに向けられたソードの目に、戦場での鋭さはない。
「お互い、いいように足止めを食らったわけだ」
「……悔しいけど、そうなるわね」
「次は、勝つ」
「当たり前でしょ」
今日の戦は、初めから、緑の力を量るためのものだった。量るべきものは、量った。キッドの魔法も、緑の騎士の練度も、公王の退き際も。
そして、ソードに手傷を負わせるほどの侍女の存在も。
次は、それをすべて踏まえて来る。
エイミは、西の空を見た。緑の都のある方角だった。
同盟の調印は、戦の熱が冷めないうちに執り行われた。
帝国四天王の二人が率いる軍を、緑が退けた。その報せは、都じゅうを駆け巡っていた。帝国に膝を折れと言っていた貴族たちも、今は口をつぐんでいる。ジャンの目論見どおりだった。
キッドは、式のあいだ、紺の軍服で王女の後ろに控えていた。ジャンとの約束は、果たした。緑の軍服は、もうコレットに返してある。
式を終えると、ジャンとルルーは応接室へ移った。
キッドも、呼ばれた。用意された席は、紺の側でも、緑の側でもない。公王と王女のあいだの、どちらにも寄らない場所だ。
自分の身の振り方が、この卓の上で決まる。当の本人は口を挟むな、ということだろう。キッドは、黙って腰を下ろした。
「今回の戦いで、我が国と黒の帝国の敵対は、決定的なものとなりました。これからは、共に帝国に抗う同志として、頼りにさせていただきます」
「紺も、何もしなければ帝国に呑まれるだけです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
公王と王女の言葉が、静かに行き交った。半分は礼儀で、半分は本気の言葉だった。
ひとしきり型どおりのやり取りが済んだところで、ルルーが、姿勢を正した。
「ところで、ジャン公王。キッド様のことなのですが」
来た、とキッドは思った。
だが、ルルーが続けるより先に、ジャンが口を開いていた。
「両国の同盟の証として、我が公国から、キッドを紺の王国へ派遣いたしましょう。これから両国が手を携えて帝国と戦うには、こちらの考えをそちらに伝え、そちらの考えをこちらへ持ち帰る者が要ります」
ルルーの眉が、ぴくりと動いた。
派遣。紺に置くことは認める。ただし、キッドはあくまで緑の人間だ。そういう言葉だった。
「ジャン公王、私としては――」
「同盟に伴う派遣であれば、宮廷魔導士が国を空けても、兵も民も納得いたしましょう」
ジャンの声が、王女の言葉を遮った。穏やかな声だった。けれど、一歩も譲る気のない声でもあった。
兵も民も納得しない形では、この同盟は結べない。ジャンは、そう言っている。
キッドには、ジャンの腹が読めた。
紫を降した男を、緑は紺に取られた。貴族たちにそう言わせないための、ぎりぎりの言い回しだ。意地悪で言っているのではない。むしろ、王女がキッドを連れて帰れるように、この男は、自分が張れるだけの綱を張っている。
けれど、それを口にするのは、キッドの役目ではなかった。この卓で決めるのは、この二人だ。
ルルーが、キッドを見た。
一瞬のことだった。すぐに、その目は公王へ戻った。
小さな手が、膝の上で握られるのが見えた。ほどかれ、また握られた。
「……わかりました」
顔は、王女のままだった。声だけが、いつもより細かった。
ジャンが、うなずいた。公王の顔の奥で、何かがわずかに緩んだように見えた。この男も、心から望んだ落としどころではないのだろう。
どちらからともなく、手が差し出された。公王と王女が、卓越しに握手を交わす。手が離れたとき、張り詰めていた部屋の空気が、ようやく緩んだ。
ジャンが、背もたれに深く身を預けた。
それから、ふと思い出したように、キッドへ目を向けた。
「キッド。外してもらえるか」
キッドは、目をしばたたいた。
「俺が、ですか?」
「ああ。王女殿下と、二人だけで少々話しておきたいことがある。安心しろ、お前の所属に関する話じゃない」
公王ではなく友の顔に見えた。嘘はない。それだけはわかる。
ルルーを見る。王女は、小さく首をかしげていた。それでも、王女はキッドに向かって、うなずいてみせた。
キッドは、席を立った。
扉を出ると、廊下にコレットが立っていた。護衛の番だろう。キッドの顔を見るなり、なぜか背筋がびしりと伸びた。
「キ、キッド様! お話は、もう、お済みですか!」
「俺だけ追い出された」
「そうですか! それは、その……何よりです!」
「……何がだ」
「何でもありません!」
声が、裏返っていた。
キッドは首をひねりながら、扉の前を離れた。
紺の一行にあてがわれた客間へ戻ると、ルイセが椅子から立ち上がった。
黒と白のウェイトレス姿だった。戦場で短くなった裾は、元の長さに戻っている。替えは何着もある、と言っていたのは、本当だったらしい。ツインテールに結った髪も、きれいに結い直されていた。
卓の上には、もう茶の支度が整っていた。キッドが戻る頃合いを、測っていたかのようだった。
「お早いお戻りですね」
「途中で、席を外せと言われた」
「……そうですか」
ルイセは、それ以上は聞かなかった。キッドが腰を下ろすと、杯を置き、ポットを傾ける。
所作に、淀みはない。湯の筋は細く、まっすぐに落ちていく。
ただ、杯が満ちる間際、その筋が、ほんの一瞬だけ揺れた。
ポットの口が、かすかに震えていた。
ルイセの顔は、何も変わらない。すぐに湯の筋は細く戻り、一滴もこぼさずに注ぎ終えた。
(……腕か)
ソードの大剣を、あの双剣で何度も受け流したはずだ。その上で、あの女は、何かをした。何をしたのかは、技の名しか聞いていない。
聞いても、答えないだろう。そういう女だ。
キッドは、杯に口をつけた。茶は、いつもどおりの味がした。
「話は、まとまった。俺は、緑から紺へ派遣される形になる」
「派遣、ですか」
「緑の人間のまま、紺に置いてもらうってことだ。公王として譲れる、ぎりぎりの落としどころだろう」
「では、紺へは」
「ああ。一緒に帰る」
「……そうですか」
平らな声だった。けれど、さっきの「そうですか」とは、どこか違って聞こえた。
「残ったお二人は何の話を?」
「さあな。ジャンが、王女殿下と二人で話したいと言った。……悪い話じゃないとは思うが」
廊下で会ったコレットの、裏返った声が耳に残っている。何よりです、とは、何がだったのか。
考えても、わからなかった。
杯が空いた。ルイセが、ポットへ手を伸ばす。
「いい。自分でやる」
キッドは、先にポットを取った。
ルイセの手が、宙で止まった。一拍、キッドの顔を見る。
「……それは、侍女の仕事です」
「今日は、もう店じまいだ」
ルイセは、しばらく黙っていた。それから、行き場をなくした手を下ろし、もう一方の手で包むようにして、体の前で重ねた。
「……はい」
紺へ発つ朝、キッドは城の中を歩いていた。
二年離れていたとはいえ、ここは長く自分の居場所だった城だ。着いた日には、よその家のようにしか思えなかった。それが、この城で過ごすうちに、廊下の角の一つひとつに、いつかの記憶が戻ってきた。
黒の帝国との戦いが本格になれば、次にいつここへ来られるかはわからない。
魔導士の訓練場では、若い魔導士たちが、朝から的に向かって魔法を放っていた。宮廷魔導士だった頃、手ほどきをした顔もいくつか混じっている。あの頃よりは、狙いがずいぶんとましになっていた。
訓練場の片隅で足を止めたとき、後ろから声がした。
「こんなところにいたのか」
振り返ると、ジャンが立っていた。
儀礼用の軍服ではない。袖をまくった、ただの騎士の稽古着だ。供の姿は、どこにもなかった。
「公王が、供も連れずにうろつくなよ」
「お前にだけは言われたくない」
ジャンは、キッドの隣に並んだ。二人で、訓練場を眺める。昔、何度もこうして並んで、若い者たちの稽古を見た。
「派遣ってことにした。悪いな」
「わかってる。あれが、いちばんいい落としどころだ」
「王女には、恨まれたかもしれん」
「恨んでないさ。……たぶんな」
ジャンが、喉の奥で笑った。
それから、訓練場の向こうを見たまま言った。
「ソードを止めたのは、あの女だそうだな」
「ああ」
「あの夜の続きは帝国の連中にくれてやれ、と言ったが」
「くれてやったよ。たっぷりな」
ジャンは、しばらく黙っていた。
「……そうか」
それだけだった。その横顔が、少しだけ遠くを見ているように思えた。何を考えているのかは、キッドにもわからなかった。
若い魔導士が放った炎の牙が、的の端をかすめた。惜しいところで、歓声とため息が一緒に上がった。
「……ありがとうな、ジャン」
気づけば、口からこぼれていた。
ジャンが、ぎょっとしたように振り向いた。まじまじと、キッドの顔を見る。
「なんだ、急に。……お前、死ぬのか」
「死なないよ」
キッドは、噴き出した。つられて、ジャンも笑いだした。公王の顔も、王の目も、どこかへ行ってしまった。そこにいるのは、宮廷の片隅で、戦場の焚き火のそばで、何度も一緒に笑った男だった。
笑いが収まってから、キッドは言った。
「二年前は、誰にも何も言わずに出ていったからな。今度は、ちゃんと言っておきたかった」
ジャンは、答えなかった。
代わりに、拳が、キッドの胸を小突いた。着いた夜と、同じように。戦場から戻るたびに、交わしてきたように。
「次に会うときは、帝国の都でだ」
「ああ」
「紺の軍師殿に、置いていかれるつもりはないからな」
冗談めかした声だった。けれど、赤い瞳の奥には、冗談だけではない光が揺れていた。
負けず嫌いな男だった。昔から、ずっと。
「待ってるよ」
キッドは、そう返した。
ジャンは何か言いかけて、口の端だけで笑った。
「……まぁ、向こうでも、退屈はしないだろうさ」
何のことだ、と聞き返す前に、ジャンは背を向けていた。
振り返らなかった。片手だけが、肩の上で一度、軽く振られた。
寂しくないと言えば、嘘になる。
それでも、今度は笑って別れられた。二年前、この城を出たときには、それさえできなかったのだ。
出立の刻が来た。
城門の前に、行きと同じ馬車が止まっていた。
ルルーが先に乗り込み、侍女であるルイセがそれに続いて、王女の隣に腰を下ろした。キッドは、その向かいの席に座った。
三人掛けの席に、一人。
行きもそうだった。
ただ、緑の公国からの使者が来てからは、ずっと、麦わら色の髪の元気な娘が隣にいた気がする。それも今日まで。
隣の空いた席が、妙に広く見えた。
帰りの道案内は、国境までは公国の騎士が務めてくれるという。コレットの姿は、見送りの列にもなかった。
(……挨拶くらい、していきたかったんだけどな)
馬車は、なかなか動かなかった。
御者も、護衛の騎兵も、とうに支度を終えている。乗り込むのは、自分たちが最後だったはずだ。
(……何か、あったのか)
窓の外をうかがおうとした、そのときだった。
「お待たせしました!」
弾む声とともに、扉から人影が飛び込んできた。
緑の軍服。肩の上で切りそろえた麦わら色の髪。両腕に、旅にでも出るような大荷物を抱えている。
コレットだった。
コレットは荷を足もとに押し込むと、当然のような顔で、キッドの隣に腰を下ろした。
「では、出してください」
ルルーの声で、馬車が動きだした。
城門が、窓の外を後ろへ流れていく。
「……ちょっと待て」
キッドは、隣を見た。コレットが、にこにこと見返してくる。
「どうして、コレットが乗ってるんだ?」
「護衛ですから。同じ馬車にいなければ、お守りできません」
「いや、そういうことじゃなくて」
「……あれ?」
コレットが、向かいの席を見た。
「ルルー王女殿下から、お聞きになっていないのですか?」
キッドは、ルルーを見た。
「てっきり、ジャン公王か、コレットさんからお話があったものと思っていたのですが……」
ルルーは、少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「ジャン公王からのお申し出で、当面のあいだ、コレットさんを客員将校として紺へお迎えすることになったのです。キッド様の護衛と、緑との連絡役を兼ねて」
「…………え?」
頭の回るはずのキッドが、その言葉を呑み込むまでに、数拍を要した。
応接室を追い出された、あのときか。
向こうでも、退屈はしない。あの朝のジャンの言葉が、ようやく腑に落ちた。
「というわけで、これからもよろしくお願いします、キッド様!」
コレットが、満面の笑みで言った。
「……そういう大事なことは、先に言ってくれよ」
キッドは、額に手を当てた。
額に当てた手の下で、口もとが緩むのを止められなかった。
(道理で、見送りにいなかったわけだ)
キッドは向かいの席を見た。
王女の隣で、ルイセが背筋を伸ばして座っている。その目が、わずかに見開かれていた。
この女が驚いた顔を見せるのは、珍しい。
コレットが、向かいのルイセへ向き直った。
「ルイセ殿。紺に戻ってからも、キッド様の護衛は、私が務めますので」
「……そうですか」
ルイセは、窓の外へ目を向けた。
その横顔が、なぜか、いつもより冷たく見えた。馬車の中の空気が、ほんの少し、下がった気がした。
ルルーは、楽しそうに二人を見比べている。
キッドは、見なかったことにした。
窓の外を、緑の都が遠ざかっていく。
この国には、ジャンがいる。帰る国には、待つ人たちがいる。そして今、隣にはコレットがいる。
送り出してくれた友と、連れて帰ると決めてくれた王女と、ついてくると決めてくれた娘。そして、頼んだ侍女の役を最後までやり通してくれる女。自分は、本当に人に恵まれている。
向かいの席から、声がした。
「キッド君。顔が、緩んでいます」
「……今日は天気がいいからな」
馬車は、東へ向かっていた。




