第16話 風のない剣
キッドの足音が遠ざかっていくのを、ルイセは背で聞いていた。
振り向きはしない。目の前の男から、目を切るわけにはいかなかった。
(……任せた、ですか)
言わせたのは、自分だった。問いの形で寄こされた言葉を、そう言い直させた。言葉の使い方を正しただけのつもりだった。
なのに、受け取ってみると、その一言は思っていたよりも重かった。両手の剣と同じくらいに。あるいは、それ以上に。
帝国の剣が、大剣を構え直した。
ソードは、キッドを追わなかった。キッドを追って踏み出したあの一歩を、侍女に阻まれた。それで見切りをつけたのだろう。この女を後ろに置いたまま魔導士を追うのは、愚かだと。
人の背丈ほどもある刃が、正面にぴたりと据えられている。その切っ先が、揺れない。
ルイセは、半歩、踏み出す気配を見せた。
切っ先は、動かなかった。
右へ。左へ。肩を入れ、膝を沈め、踏み込むと見せて止まる。どれも、並の剣士なら剣を動かさずにはいられない誘いだった。動いた刃は、その分だけ戻りが遅れる。その遅れに、身体をねじ込めばいい。
ソードは、一度も乗ってこなかった。
(……見ていますね)
誘いに乗らないのではない。誘いだと、見えているのだ。刃の向きも、重心の置きどころも、ルイセの動きに合わせて、そのつど変わっていく。こちらが一つ見せるたびに、この男の構えは、その一つを呑み込んでいく。
間合いの外にいる限り、大剣は届かない。双剣も、また届かない。踏み込めば、長い刃が先に来る。待っていれば、それで勝てる。この男は、そのことを知っている顔をしていた。
待つのは、こちらの分が悪かった。
身体を満たしている強化の力は、放っておいて保つものではない。保っているあいだ、魔力の源たる霊子は少しずつ削られていく。桶の底に開いた、小さな穴のように。この男と向き合っているだけで、見えない砂が落ちていく。
尽きれば、この身体は、ただの女の身体に戻る。その腕であの大剣を受けられるとは、思えなかった。
ルイセは、左の剣を引いた。
「炎の牙」
赤い炎の牙が、ソードの顔めがけて走った。同時に、ルイセは地を蹴っていた。牙で目を奪い、その陰から懐へ。
ソードは、牙を見ていなかった。
首を傾けるだけで炎をやり過ごし、大剣が横薙ぎに走る。ルイセが踏み込む、その先へ。そこに来るのを、待っていたかのように。
ルイセは、踏み込みを殺した。爪先を地に突き立て、身体を後ろへ投げる。鼻先を、鉄の風が通り過ぎた。
着地したとき、エプロンの端が、はらりと落ちた。
布一枚の差だった。
(……声、ですね)
牙に目を奪わせたつもりだった。だが、この男が拾ったのは、牙ではなく声だった。仕掛けるその瞬間を、自分の口が教えたのだ。
霊子の魔法は、声がなければ形にならない。そして声は、間合いを教える。わかっていたはずのことだった。暗殺者だった頃、牽制や補助には使っても、仕留める一撃に魔法を使わなかったのは、そのためだったのに。
「……前掛けを、駄目にしたな」
大剣を構え直しながら、ソードが言った。表情ひとつ変えていない。冗談なのか、本気で詫びているのか、ルイセには判断しかねた。
「替えは、あります」
それだけ返した。
今度は、ソードが来た。大きく踏み込んでからの大剣が、真上から落ちてくる。
受ければ、腕ごと持っていかれる。ルイセは双剣を交差させ、刃の腹で重みを横へ流した。流しきれなかった力が、手首から肘へ、肘から肩へと突き抜ける。強化を纏った腕が、痺れた。
二撃目。三撃目。流すたびに、足が地を滑る。
四撃目を跳んでかわし、ルイセは間合いの外へ逃れた。
手のひらに、汗がにじんでいた。
このまま続ければ、削られるだけだ。流すたびに、腕は鈍る。構えているだけで、霊子は落ちていく。そして、この男は、ひと合わせごとにこちらを覚えていく。
見せたものは、もう通じない。
ならば、まだ見せていないものを出すしかない。
一度きりだ。二度目は、きっとない。
ルイセは、構えを変えなかった。変えれば、この男は気づく。力を溜めるのは、身体の内側だけでいい。
ここまで見せてきた踏み込みは、強化した身体の、ありのままの速さだった。この男の目は、それを測っている。測ったうえで、大剣のほうが先に届くと踏んでいる。
その目は、まだ知らない。この身体には、その先があることを。
魔法ではない。強化した脚の、そのまた先まで力を振り絞る、踏み込みにすぎない。声も要らない。新しい気配も生まれない。そのかわり、使えば、しばらく脚が言うことを聞かなくなる。
(……構いません)
なぜか、桜を思い出した。
ただ速さを求めて、剣を振り続けた日々があった。同じ木の下で、何度も春を迎えた。舞い落ちる桜の花びらの中で、白で振っては戻し、黒で振っては戻した。刃はいつも花びらを散らし、その先には、いつも空気を押しのける手応えがあった。
ある日、振り抜いた二振りが、花びらを一枚も揺らさなかった。
空気の壁が消えたその日、どちらの剣でも、二撃目が一撃目に追いついた。
地を蹴った。
音は、遅れてついてきた。
一歩で、間合いが消えた。見上げる位置に、帝国の剣の顔がある。その目が、ようやくこちらを捉えようとしていた。
白と黒の刃が、奔った。二振りの剣が、それぞれ二度。四つの刃筋が、一度に重なる。
――嵐花双舞。
風は、起きなかった。
目の前で、ソードの鋼色の髪が、一本も揺れていなかった。あの日の花びらと、同じだった。
大剣が、そこにあった。四つのうち、三つまでを止めた。読んだのではないだろう。考えるより先に、剣士の身体が動いたのだ。これほどの男でなければ、一つさえ間に合わなかったはずだ。
だが、四つ目には届かなかった。横に走った黒の刃は、もう通り過ぎていた。
狙ったのは、胸甲の尽きた下の脇腹だった。鉄の板はない。布と、その下の肉だけだ。
手応えが、あった。
あったはずだった。
布を裂き、肉に入った刃が、その先で、わずかに重くなった。鉄の手応えではない。目に見えない何かが、刃の食い込みを、ほんの少しだけ押しとどめている。
暗殺者だった頃、噂に聞いたことがある。名匠の打った鎧の中には、着る者の霊子を引き出し、鉄の覆わぬところまで身を包ませるものがある、と。国の宝ほどの品で、魔装と呼ばれている、と。
(……まさか、ここで)
刃は、肉に届いていた。それでも、浅い。そのわずかな守りが、内臓まで断つはずの一撃を、ぎりぎりのところで押しとどめていた。
ルイセは、後ろへ跳んだ。
着地して、向き直る。
ソードは、追ってこなかった。脇腹から、赤いものが伝っている。けれど、男の目は、傷を見ていなかった。ルイセを見ていた。
知らないものを見た顔だった。
どんな剣も、どこかで見たことがある。そういう目をしてきた男なのだろう。その目が、今、何の手がかりもつかめずにいるように見えた。
脚と腕が、重かった。
膝から下が、自分のものではないように鈍い。双剣を握る指先にも、痺れが這っていた。腕もまた、あの一撃に持っていかれていた。
今、あの大剣が来たら――
流せない。かわせない。
(……顔に出しては、いけません)
ルイセは、双剣を構え直した。いつもと同じ高さに、いつもと同じ角度で。肩で息をしないように、呼吸の深さだけを、ゆっくりと落としていく。
ソードも、動かなかった。
今の一撃が、もう一度来るかもしれない。どこから、どう来るのか、見当もつかない。そう考えている顔に見えた。傷も、浅くはないはずだ。
「……今のは、何だ」
低い声だった。ルイセは答えなかった。
答えない代わりに、数えた。
一言。膝の奥に、力がひとしずく戻る。
「名も明かさず、技も明かさぬか」
二言。指先の痺れが、一枚、剥がれる。
「侍女ですので」
短く返した。答えれば、この男はまた口を開く。口を開いているあいだは、剣は来ない。
ソードの眉が、かすかに動いた。
「……侍女とは、厄介なものだな」
三言。
言葉の中身は、どうでもよかった。一言ごとに、脚と腕が戻ってくる。それだけが、今は大事だった。
戦場の音が、変わっていた。
遠くで上がる鬨の声が、公国の側に偏っている。ぶつかり合う音が、じりじりと遠ざかっていく。押しているのは、公国だった。
ソードの目が、一瞬だけ、ルイセの肩越しに戦場へ流れた。
そして、戻ってきた。
「……ここまでか」
大剣の切っ先が、下がった。ソードは、ルイセから目を離さないまま、一歩、また一歩と退いていく。間合いが、ゆっくりと開いていった。
去り際に、ソードがルイセを見た。
「次は、ワインを頼むとしよう」
真顔だった。
(……ご注文は、承っておりません)
ルイセは、口には出さなかった。
黒い鎧が、背を向けた。自軍の戦列のほうへ、走り去っていく。
その脇腹に、赤い筋が走っている。手負いの、背を向けた標的だった。
脚に、力を込めてみた。
膝が、重い。走り出せば、追いつけるかもしれない。だが、追いつけたとしても、あの大剣を返されたら、この脚では逃げられない。
生きて帰るのが、仕事。
暗殺者だった頃に、骨の髄まで叩き込まれた鉄則だった。どれほどの標的でも、帰れない一撃は振るわない。
あの頃、その鉄則で持ち帰るものは、自分の命ひとつだった。
――軽い。
今は、違う。
『任せた』と言った、あの人の声。「必ず、一緒に帰ってきてください」と言いながら、侍女に向けられていた王女の目。「キッド様を、お願いします」と下げられた、麦わら色の頭。
どれも、ここで取りこぼして帰るわけにはいかないものだった。
ルイセは、双剣を下ろした。
また、仕留め損ねた。
二度目だった。一度目は、あの夜。あの人と、その友に、標的を守り抜かれた。
遠ざかっていく黒い鎧から目を離し、ルイセは、キッドが駆けていったほうを見た。
(……あとは、あなたが帰ってくるだけです)
キッドの息は、とうに上がっていた。
空の目を抱えた頭が、割れるように痛む。二つの景色が、ときおり重なってぶれた。それでも、足は止めなかった。
女のほうも、息を乱していた。長い黒髪が、汗で頬に張りついている。
遠く、帝国軍の後方で、角笛が長く鳴った。
女の足が、止まった。
「……あなたを倒して、戦列に戻るつもりだったのだけれど。間に合わなかったようね」
肩で息をしながら、女は剣を下げた。目だけは、キッドから外さない。
キッドも間合いを保ったまま立ち止まり、戦場へ目を走らせた。帝国軍が、退き始めている。
魔女が群れを離れたときから、帝国軍の守りは、指揮を執る者を失っていた。逃げ回っているあいだも、この女をここに引きつけている限り、キッドの思惑どおり、それは続いていたのだ。
「キッド。あなたとの決着は、別の戦場でつけさせてもらうわ」
名を、呼ばれた。
「……俺を、知ってたのか」
答えはなかった。女は身を翻し、退いていく兵のほうへ向かっていった。やがて、長い黒髪が、黒い軽鎧の列にまぎれて見えなくなる。撤退の指揮を執りに行ったのだろう。
キッドは、膝に手をついた。
今になって、思い当たる。背後のダークアイの気配を、振り向きもせずに拾ったこと。魔法の撃ち合いを捨てて、迷わず剣で迫ってきたこと。どれも、その場の思いつきとは思えなかった。はじめから、自分を相手にすることを考えて組まれた手だったのではないか。
どこで、どうやって自分を知ったのか。それは、わからない。
息が整うのを待って、キッドは残してきた相棒のところを目指した。
ルイセは、同じ場所に立っていた。
ソードの姿は、もうない。地面には、大剣がえぐった跡が幾筋も残っている。短くなった裾の上で、エプロンの端が不揃いに切れていた。
白い刃に、赤が一筋、走っていた。
「ルイセ。ソードは?」
「退きました」
「……その血は?」
「ソードのものです」
キッドは、言葉を失った。
二人がかりで、鎧の表面を削るのがやっとだった男だ。
「……何をした」
ルイセは、刃の血を払った。
「嵐花双舞、です」
「らんか……?」
「技の名です」
それだけだった。ルイセは双剣を鞘に納め、それ以上は何も言わなかった。
(……聞いても、答えないだろうな)
キッドは、戦場を振り返った。
帝国軍が、退いていく。
負けて退く軍の列が、少しも乱れていなかった。殿が振り返りざまに盾を並べ、追いすがる公国の騎士を寄せつけない。深追いすれば、手痛い一撃を返される。そういう退き方だった。公国軍の追撃も、ほどなく止まった。ジャンも、同じものを見たのだろう。
勝ったのは、こちらだ。数で押し、帝国を退かせた。それでも、勝ったという手応えは、どこにもなかった。
剣と、魔女。帝国四天王のうち、たった二人。
その二人を、ルイセと自分とで、ようやく足止めしただけだ。
(……次は、今日のようにはいかない)
退いていく黒い列を、キッドはいつまでも見送っていた。




