第15話 名乗らぬ侍女
馬で戦場を突っ切れば、それだけで目立つ。
帝国軍に騎兵はほとんどいない。馬上にいるのは隊を率いる者だけだ。そこへ見慣れぬ二騎が駆け込めば、誰の目にも留まる。それを避けるため、キッドとルイセは戦場を大きく迂回し、帝国軍の背後へ回り込んだ。
木立の陰で馬を降りる。ここから先は、自分の足で行く。
「行くぞ」
「はい」
短く言葉を交わし、木立を出た。
前を行くのはルイセだった。短くなった裾が、足もとで揺れている。キッドは、その背を追いながら、意識を内へ向けた。
「――ダークアイ」
声とともに、キッドのかたわらの空間が、えぐり取られたように黒く染まった。
黒い球だった。光さえ吸い込むような、底のない黒。立体の感じさえしない、異質な塊が、キッドの肩の横にふわりと浮かんでいる。
霊子の魔法に、決まった呪文はない。それでも、術者は発動の際に言葉を発する。魔法の形を思い描くには、その形にいちばん近い言葉が要るからだ。キッドにとって、この魔法を呼ぶ言葉は、それだった。
霊子の魔法は、ふつう、放てばそれきりだ。発した瞬間に軌道が決まり、あとから操ることはできない。
だが、ダークアイは違う。これは、キッド自身の霊子そのものが形を取ったものだ。目に見えない霊子の糸で、術者とつながっている。放ったあとも、キッドの意のままに動く。
黒い球が、音もなく空へ昇った。
同時に、キッドの頭の中に、もう一つの景色が開けた。
空から見下ろす戦場だった。その名のとおり、それはキッドのもう一つの目だった。自分の目で前を見ながら、空の目で戦場を俯瞰する。二つの視界を同時に抱える負担は大きく、長くは続けられない。それでも、この目が戦場で持つ意味は計り知れなかった。
(……捉えた)
帝国軍の最後方。黒光りする鎧の男が、馬上から戦場を見渡している。周りにいるのは、各隊を行き来する伝令がわずかばかり。護衛らしい護衛もいない。己の腕への自信の表れだろう。
その伝令の一人が、こちらに気づいた。
「後ろだ! 緑の兵が――」
叫びながら駆けてくる。二人、三人と、それに続いた。
どの目も、緑の軍服を見ていた。その前を歩くウェイトレス姿の女には、誰一人、目を向けない。戦場に迷い込んだ町の娘か、兵の従者。剣を向けるほどの相手ではない。そう判じたのだろう。
最初の一人が、ルイセの横を駆け抜けようとした。
白と黒の刃が、一度だけ閃いた。
男は、そのまま前のめりに倒れた。二人目も、三人目も、何が起きたのかわからないまま、侍女の脇で膝を折っていった。
キッドの目は、もうそちらを見ていなかった。空の目が、ソードの頭上へ滑り込んでいる。
横からの攻めには誰でも備える。しかし、真上からの一撃まで警戒している者は、まずいない。
「――ダークブレット」
空で、黒い球が震えた。
小石ほどの黒い弾が、真下へ撃ち出される。漆黒の閃きが、一直線に男の頭上へ落ちていった。
決まる。そう思った。
次の瞬間、男の身体が跳ねた。
馬上で身をひねり、そのまま地へ飛び降りる。一拍遅れて、黒い弾が、主を失った馬の胴を貫いた。
馬が、音もなく崩れ落ちる。
男は、かすり傷一つ負っていなかった。着地したまま、ゆっくりと顔を上げる。その目が、まっすぐにキッドを射抜いた。
「……ダークアイに、気づいていたのか」
戦場の騒乱の中、指揮を執りながら、真上から落ちる一撃を察した。なんという視野の広さか。
キッドの背筋を、冷たいものが這い上がった。
(――強い)
これほどの圧を感じたのは、いつ以来だろう。頬を伝う汗が冷たい。身体のほうが先に、この男を本物だと認めていた。
そのときだった。
キッドと男のあいだに、すっと、誰かが割って入った。
黒と白の、ウェイトレス姿の背中だった。ツインテールが、肩の上で揺れる。
ルイセの唇が、短く動いた。キッドにしか聞こえないほどの、低い一言だった。その身体を、目に見えない力が満たしていくのがわかった。
強化の魔法だった。
(……使うのか)
紫との戦で、この女は重装歩兵の壁を一人で割った。それでも、この魔法は使わなかった。使うまでもなかったのだろう。
出会ったあの食堂でも、強化をかけたのは、手にした食器だけだった。己の身体にかけるのを最後に見たのは、あの夜だ。闇の中で、自分とジャンに刃を向けたときだった。
その女が、今、自分の前に立っている。帝国の剣に向けて、あの夜と同じ力を纏って。
男が、目を細めた。
「……勝利を祝う乾杯のワインを、頼んだ覚えはないが?」
「ご注文は、承っておりません。今は、侍女ですので」
真顔だった。白と黒の双剣が、静かに構えられる。
「ルイセ。二人で止めるぞ」
「はい」
ルイセが、地を蹴った。
男が、背の大剣を抜いた。両の手で構える。人の背丈ほどもある刃だ。間合いは、ルイセの双剣より遥かに長い。
ルイセは、ためらいなく踏み込んでいく。
キッドは、空の目を、男の背後へ滑り込ませた。紫との戦で、背中越しに何度も見てきた踏み込みだ。呼吸は、もう身体が覚えている。あの女が間合いへ入る、その半拍前に――
「ダークブレット!」
黒い弾が、男の背を襲った。
男は、それも察していた。わずかに身をずらし、弾の筋から外れる。
その身がずれた一瞬を、ルイセは待っていた。
弾けるように間合いを詰める。白と黒の刃が閃いた。
甲高い金属音が、戦場に響いた。
大剣が、ルイセの刃を受け止めていた。
片腕だった。
崩れた体勢から、腕一本で。二振りの刃を、まとめて止めてみせた。
(……馬鹿な)
キッドは、息を呑んだ。
ルイセは、力比べには付き合わなかった。刃が噛み合った次の瞬間には、もう跳び退いて、間合いの外にいた。
男が、大剣を構え直す。その口もとに、かすかな笑みが浮かんだ。
「いい腕だ。俺は黒の帝国のソード。貴公の名を聞いておこうか」
「……ただの侍女です」
「名を聞いたのだが」
「侍女に、名乗る名はありません」
平らな声だった。
ソードは、それ以上は問わなかった。その目が、ルイセの肩越しに、キッドへ向けられる。
「後ろの魔導士は……緑の双翼の一人、キッドか。緑を去ったと聞いていたが、戻っていたとはな。それも、侍女を連れて戦場とは」
「いろいろあってな」
言い終わる前に、ルイセが動いていた。
キッドには、それがわかっていた。話の途中で、空の目をソードの背後へ回していたのだ。ルイセもまた、キッドが仕掛ける呼吸をわかっていた。
ダークブレットが、ソードの背後から撃ち出される。ソードが、身をかわす。そこへ、ルイセの突きが稲妻のように伸びた。
すんでのところで、大剣が割り込んだ。切っ先が逸らされ、黒い鎧の表面を削っていく。浅い傷が、一筋走った。
ルイセは、すでに間合いの外へ跳んでいた。
ソードが、鎧の傷に目を落とした。
「……これほどの速さを持つ者がいるとはな」
その声には、焦りの色がなかった。あるのは、素直な賞賛だけだった。
キッドは、奥歯を噛んだ。
二人がかりで、なお崩せない。それでもいい。この男をここに釘付けにしておけば、帝国軍は指揮を失う。指揮を失えば、数で勝る公国軍が押し切る。
キッドは、空の目で戦場を見た。
そして、眉をひそめた。
(……崩れていない)
ソードが斬り合いを始めた直後には、たしかに乱れがあった。だが、それも束の間だった。帝国軍は、すでに統制を取り戻している。
しかも、動きが変わっていた。
さっきまでの帝国軍は、攻めていた。ぶつかる場所を自ら選び、数で勝る公国軍を相手に、常に同じか、それ以上の数で当たっていた。
今は違う。自分から仕掛けることをやめている。公国の騎士が押せば、押されただけ退く。退きながら、決して崩れない。囲もうとすれば、その前に列を閉じる。どこを突いても、手応えだけが吸い込まれていく。
守りの用兵だった。それも、ソードの攻めの用兵に劣らないほど、練り上げられた守りだ。
(誰かが、指揮を引き継いでいる)
それも、並の将ではない。これほどの男が、迷わず指揮を任せられる相手だ。
キッドは、目の前の男を見た。
ソードは、剣士と魔導士の二人を相手にしている。それなのに、その顔には、焦りの影ひとつない。自分がここで足止めされようと、軍は崩れない。そう知っている者の顔だった。
その余裕と、目の前の守りの用兵。二つを重ねたとき、一つの名が浮かんだ。
最悪の名だった。
(……帝国の魔女、エイミ)
帝国四天王の一人。示威のための小さな部隊に、四天王が二人も来ているなど、考えたくもなかった。だが、ほかに答えが見つからない。
このままでは、公国軍は攻めきれないまま、じわじわと削られていく。いずれ、先に崩れるのはこちらだ。ジャンは総大将だ。軽々しく前へは出られない。
魔女を見つけ出し、止めなければならない。今すぐに。
だが、そうなれば、ルイセを帝国の剣の前に一人で残すことになる。
キッドは、ルイセの背中を見た。
「帝国の魔女、エイミがこの戦場にいる。俺は、それを探しに行く。……ここは、任せられるか?」
「そういうときは、『任せた』と言うのですよ」
ルイセは、前を向いたままだった。双剣の切っ先は、ソードから少しも逸れていない。
キッドは、踵を返した。
その瞬間、ソードが動いた。
一言もなかった。ただ、大剣を構えたまま、キッドのほうへ踏み出していた。今のやり取りを、聞いていたのだろう。魔女のもとへは行かせない。無言の踏み込みが、そう告げていた。
人の背丈ほどもある刃が、キッドへ向かう。
その刃の前に、黒と白の影が滑り込んだ。
甲高い音が響いた。
ルイセの双剣が、大剣の軌道を横から逸らしていた。受け止めたのではない。力に逆らわず、ほんの少し筋をずらしただけだ。大剣が、地面を深々とえぐった。
ソードの目が、初めてルイセだけに向けられた。
ルイセは、振り向かなかった。
「行ってください、キッド君。この男は、私が引き受けます」
平らな声だった。
キッドは、その両手に握られた二振りの剣を見た。
白と黒の双剣。あの夜、闇の中から幾度も、自分とジャンの喉もとへ迫った刃だ。二人がかりで、ようやく凌いだ刃だった。
その刃が、今、帝国の剣に向けられている。
「……任せた」
それだけ言って、キッドは駆けだした。
公国軍と帝国軍がぶつかり合う戦列の後ろへ、キッドは回り込んだ。
空の目で、帝国軍を見下ろす。騎乗して指揮を執る将の姿は、どこにもない。
(帝国の魔女……どこにいる)
帝国軍の中には、女の兵の姿もいくらか見える。けれど、どれも黒い軽鎧に剣を提げた兵ばかりで、魔導士らしい者はいない。
これほど的確な用兵だ。遠くから指図しているとは思えない。流れの中心に、必ずいる。
キッドは、兵の動きの流れを、その源へとたどった。
「……見つけた」
黒い軽鎧の、女の兵だった。剣を握るその姿は、周りの兵と何ら変わらない。それでも、周りの兵の動きは、すべてその女を起点にして生まれていた。
兵の中に紛れ、いざというときに指揮を引き継ぐ。周到な手だ。
兵の中にいては、身動きは取れまい。
気取られないように魔法の届くところまで近づく。
「爆裂球!」
紅蓮の光弾が、放物線を描いて飛んだ。着弾と同時に爆ぜ、周りの兵もろとも吹き飛ばす魔法だ。仮にかわされても、陣の中で炸裂すれば、乱れは生まれる。
だが、その光弾が落ちる前に、一本の氷の牙が空を裂いた。
空で、光弾が撃ち抜かれる。
轟音とともに、空に炎の花が咲いた。爆風が戦場を揺らす。兵たちは一瞬たじろいだものの、すぐに隊列を立て直した。
「……ちっ」
着弾の前に、空中で爆ぜさせた。爆裂球の性質を一目で見抜き、狙いすました一撃で落としたのだ。
ならばと、キッドは炎の牙を立て続けに放った。当たれば儲けもの。外れても、周りの兵を削れればいい。
氷の牙が、返ってくる。キッドはそれをかわしていく。向こうは群れの中、こちらは一人。かわしやすさでは、こちらに分がある。
このまま撃ち合いを続けても構わなかった。魔女の気を引きつけていれば、それだけで指揮に綻びが出る。
だが、女の動きは、キッドの読みと違った。
剣を握ったまま、帝国の戦列から、すっと抜け出してきたのだ。
濡れ羽色の長い髪が、陽を弾いて、戦場の風に流れた。黒曜石のような瞳が、じっとこちらを見据えている。周りの兵と同じ黒の軽鎧が、この女が纏うと、あつらえたもののように見えた。短い裾の下から、黒いタイツに包まれた脚がすらりと伸びている。女にしては背が高い。兵の中にいたときは溶け込んでいたその姿が、群れを離れた途端、否応なく目を引いた。
凛としていた。そして、どこか妖しかった。
(……味方を巻き込まないために、自分から出てきたか)
判断が速い。まさに指揮官のそれだった。
とはいえ、それはこちらにとっても好機だ。群れを離れれば、指揮は執れない。
それに、魔導士同士の一騎打ちなら、キッドには負けない自信があった。魔法の数、霊子の量、それを組み立てる技。そして何より、ダークアイがある。術者二人がかりのような連携を、一人で組める。この魔法がある限り、魔導士との一騎打ちで負けたことは一度もない。
キッドは、魔女と距離を保ちながら駆け、炎の牙を放った。氷の牙が返ってくる。炎と氷が、二人のあいだで弾け合う。
だが、それは囮だった。
撃ち合いの陰で、キッドはダークアイを、女の背後へ回していた。
「炎の牙!――ダークブレット!」
炎の牙で目を引いた、その直後。女の背後から、黒い弾が音もなく撃ち出された。
女は、振り向きもしなかった。
わずかに首を傾け、背後へ剣を振るう。
黒い弾が、霧のように散った。
「――――!?」
キッドは、息を呑んだ。
剣で受け止めたのではない。受け止めたなら、剣のほうに負荷がかかる。それが、ない。弾の力そのものが、跡形もなく消えていた。
(……アンチマジック、か)
魔法を打ち消す魔法。思いつく者さえ、まずいない。思いついたところで、形にできる者は、名の知れた魔導士を数えても十指に余るほどだろう。キッドも、その一人ではあった。
弾として放ち、飛んでくる魔法を消す。だが、霊子を食うわりに、消せるのはぶつけた一つきりだ。そんなものを撃つくらいなら、相手ごと倒してしまうほうが、よほど早い。組み上げたきり、戦場で使ったことは、ほとんどなかった。
それを、この女は剣に纏わせている。かけたまま保てば、霊子は際限なく流れ出ていくはずだ。キッドには、組み上げることさえできない形だった。
なのに、女の息は、少しも乱れていない。
(……守りの魔法じゃ、向こうが上か)
しかも、背後のダークアイに気づいていた。考えてみれば、あれは霊子の塊だ。優れた魔導士なら、その気配を感じ取れても不思議ではない。
(厄介なことになった)
とはいえ、剣に纏わせたところで、守りの手に過ぎない。攻め続ければ、いずれ隙は生まれる。
「さすが帝国の魔女。だけど、いつまで俺の攻撃を防ぎ続けられるかな?」
キッドは、余裕を見せて口の端を上げた。
その言葉が終わるより早く、女が地を蹴った。
剣を構えて、まっすぐに、こちらへ。
「え、ちょっと待て!?」
構えを見ただけでわかった。魔導士がただ剣を持っているのではない。ジャンの剣を、ルイセの剣を、そばで見てきた目には、はっきりわかる。あれは、剣を修めた者の構えだった。
兵に紛れるために剣を持っているのだと、勝手に思い込んでいた。その浅はかさを、今さら思い知る。
「帝国の魔女っていうから、魔法の専門家かと思ってたのに……。もしかして、ルイセと同じで、魔法も剣も得意なのか!?」
返事の代わりに、剣が振り下ろされた。
キッドは、転がるように飛び退く。
起き上がると、すぐに全力で駆けだした。足音が追ってくる。
(……いいさ。追っているあいだ、あの女は指揮を執れない。頼むぞ、俺の心臓)
空の目は、消さなかった。前だけを見て駆けながら、頭上の目で背後の魔女を見る。
背中へ飛んでくる氷の牙は、振り向かずにかわす。間合いが詰まればダークブレットで牽制し、離れすぎれば足を緩めた。届きそうで、届かない。その間合いを外せば、魔女は見切りをつけて戦列へ戻る。
頭の芯が、じわじわと重くなる。それでも足は止めない。
戦場の片隅で、帝国の魔女と緑の軍服の魔導士の、奇妙な鬼ごっこが始まった。




