第14話 背中の居場所
翌朝、ジャンとの約束を告げると、ルルーの顔から笑みが消えた。
「……同盟の条件として、緑の人間として、帝国と戦う。そうお約束なさったのですか」
「はい」
「私に、一言のご相談もなく」
「……はい」
ルルーは、にこりと笑った。目が、少しも笑っていなかった。
(……まずい)
「キッド様は、紺の軍師です。……紺の軍師、ですよね?」
「それは、もちろん」
「その紺の軍師が、よその国の人として、よその国の戦に出る。それも、帝国の四天王が率いる軍を相手に。それを、あとから、ご報告だけで済ませる、と」
一言ごとに、声が静かになっていく。怒鳴られるより、よほどこたえた。
部屋の隅では、ツインテールのままのウェイトレス姿で、ルイセが茶器を手に控えていた。キッドが目で助けを求めると、平らな声が返ってきた。
「当然のお叱りだと思います」
(……お前は、どっちの味方だ)
ルルーは、膝の上で両手を重ねた。その指先に、力がこもっているのが見えた。
「同盟のためだということは、わかっています。公王陛下のお立場も。……わかっているから、腹が立つんです」
キッドは、何も言えなかった。
この少女は、怒るべきところを、ちゃんとわかって怒っている。軍師が他国の旗の下で命を張る。その重さを、国の外交としても、一人の人間としても量ったうえで、それでも止められないことに怒っているのだ。
「……二年も国を離れていた男に、いきなり公国の兵は預けられません。俺は遊撃として、一人で動きます。……表向きは」
「表向きは?」
「ルイセを連れていきます」
ルルーが、部屋の隅を見た。
ルイセは茶器を置き、黙って一礼した。二つ房の髪が頭の横で揺れる。
長い間があった。やがて、ルルーは小さく息をついた。
「……それなら」
肩から、ふっと力が抜けた。
「それなら、少しだけ、許して差し上げます」
少しだけ、というところに、やけに力がこもっていた。
その日の午後、キッドは城の訓練場を見て回った。
剣戟の音が、中庭に響いている。打ち合う騎士たちの動きには、無駄がなかった。
この国の貴族は、ただの領主ではない。自ら剣を執る騎士でもある。自分の手で国を治め、自分の腕で国を守る。その気概が、一振りごとに滲んでいた。剣の腕だけなら、紺の騎士たちの遠く及ぶところではない。
「キッド様」
振り向くと、コレットが立っていた。背筋はいつもどおり伸びている。ただ、口の端が、わかりやすく下がっていた。
「どうした?」
「ジャン様から、ご命令をいただきました。帝国との戦のあいだ、ルルー王女殿下の護衛を務めるように、と」
「そうか。……それは、大事な役目だな」
「わかっています。王女殿下をお守りするのも、立派なお役目です。わかっているんです」
わかっている、と二度言った。わかっていても、納得はしていない顔だった。
「キッド様の護衛は、私のお役目なのに……」
「悪いな」
「それに、ルイセ殿を、戦場へお連れになるそうですね」
声が、少しだけ尖った。
「ルイセ殿を王女の護衛にして、私を戦場に連れていくのはどうでしょうか?」
キッドは苦笑いした。コレットは、戦場でのルイセをまだ見たことがない。その本当の実力を知らなくて当然だ。
「……大丈夫だ。あいつの本当の仕事っぷりを見たら、驚くぞ」
「本当の仕事……ウェイトレスのですか?」
思わず吹き出す。
コレットは、しばらく唇を尖らせていた。それから、ふっと表情を引き締めた。
「ジャン様の物見が、戻りました。帝国軍は、こちらの国境の内側に陣を張ったまま、居座っているそうです。……出陣の日取りも、決まりました」
キッドは、訓練場の向こうの空を見た。東の空は、よく晴れていた。
(示威のためだけに、四天王を寄越すか)
小競り合いの一つで済ませるつもりなら、並の将で足りる。わざわざ帝国の剣を出してきたのだ。向こうも、ここで緑の底を測るつもりでいる。
その夜、キッドはジャンの私室に呼ばれた。
侍女も連れてこい、という言いつけだった。ただ、通されたのはキッド一人で、ルイセは扉の外で待たされた。
ジャンは卓の向こうに座ったまま、じっと扉のほうを見ていた。
「……あの女を、お前の背に置くのか」
「ああ」
「昔は、そこは俺の場所だったんだがな」
冗談めかした口ぶりだった。だが、その目は笑っていなかった。
ジャンは、扉の外へ短く声をかけた。
「入れ」
扉が開き、侍女が入ってきた。キッドの半歩後ろで足を止め、ジャンと向かい合う。
ルイセは、目を伏せなかった。謁見の間では伏せていた目を、今はまっすぐに上げている。
どちらも、口を開かなかった。
キッドは、二人のあいだに立ったまま、息をするのも忘れていた。あの夜、闇の中で刃を交えた二人が、今、灯りの下で向かい合っている。
やがて、ジャンが口を開いた。
「一つだけ、聞かせてもらう。今、お前の刃は、何のためにある」
ルイセは、答えるまでに、一拍も置かなかった。
「今の私は、紺の軍師補佐です。キッド君の背中は、私が守ります」
平らな声だった。何の飾りもなかった。
ジャンの眉が、ぴくりと動いた。
「……キッド、君?」
キッドは、窓の外に目をやった。
ジャンの口の端が、かすかに緩んだように見えた。すぐに、公王の顔に戻る。
「記録には、キッド一人が戦ったと残す。従者の名など、誰も書きはせん。……公王として言えるのは、それだけだ」
それから、声を低くした。
「あの夜の続きは、帝国の連中にくれてやれ」
ルイセが、深く一礼した。
「承知しました」
それで、終わりだった。
部屋を出てから、キッドは長く息を吐いた。隣を歩くルイセの横顔は、いつもと何も変わらなかった。ただ、廊下の角を曲がるとき、その肩から、何かがすっと抜けたように見えた。
出陣の朝、キッドは二年ぶりに、緑の軍服に袖を通した。宮廷魔導士だった頃のものだ。コレットが、ずっと預かっていたのだという。
「いつお戻りになってもいいように、手入れだけは欠かしませんでした!」
胸を張るコレットの前で、最後のボタンを留めた。肩に馴染む重みが、懐かしかった。
城門の前では、ジャンの率いる公国軍が隊列を整えていた。騎兵を含めて、およそ1200。帝国が国境に並べた800を、数の上では大きく上回っている。
見送りに出たルルーが、キッドの姿を見て、一瞬、言葉を失った。
「……緑も、お似合いですね」
褒め言葉のはずだった。なのに、どこか拗ねたような響きがあった。
ルルーの目が、そのままキッドの後ろへと移った。黒と白のウェイトレス姿に、二つに結った髪。
「……その服で、行かれるのですか?」
代わりにキッドが答えた。
「紺の軍服を着せれば、紺が帝国に刃を向けたことになります」
「紺の侍女に、緑の軍服をお借りするわけにもいきませんものね」
王女は、困ったように眉を下げた。それきり、何も言わなかった。
その隣で、コレットが一歩進み出た。向かい合ったのは、キッドではなかった。ウェイトレス姿の侍女だった。
コレットは、唇を引き結んだ。言いたいことが、いくつもある顔だった。服のことも、髪のことも。それを全部呑みこんで、深く頭を下げた。
「……キッド様を、お願いします」
キッドは、目をみはった。
護衛の役目を、誰よりも手放したくなかったのは、この娘のはずだ。それを、ついさっきまで張り合っていた相手に託している。職務に忠実で、まっすぐで、いざとなれば自分の意地より主の身を取る。二年前と、何も変わっていない。
ルイセは、平らな声で答えた。
「言われるまでもありません」
コレットの肩が、ぴくりと跳ねた。顔を上げたときには、頬がふくらんでいた。
「……やっぱり、この人、苦手です」
小声だったが、しっかり聞こえた。
ルルーが、キッドの前に立った。
「キッド様」
「はい」
「必ず、一緒に帰ってきてください」
一緒に、という言葉に、ルルーは力を込めた。その目が、キッドの後ろの侍女へ向けられる。侍女は、黙ってうなずいた。
「必ず」
キッドは答えた。
ルルーは、ようやく笑った。
公国軍は、国境の手前に陣を張った。その陣で、戦の朝を迎えた。
天幕の外では、兵たちが慌ただしく支度をしている。その喧騒を背に、キッドは天幕の中で、腕を組んで唸っていた。
目の前には、ルイセが立っている。黒のワンピースに、白いエプロン。二つに結った髪に、白いヘッドドレス。腰には、白と黒の双剣。
どちらの国の軍服も着せられないとはいえ、どう見ても、戦場に立つ格好ではなかった。
「さすがに、この姿じゃあ……動きにくそうだよな」
キッドがつぶやいた、そのときだった。
白と黒の閃きが、足もとを走った。
布の裂ける音がした。
ふくらはぎまであったスカートの裾が、ひらりと地に落ちる。残った裾は、膝よりずっと上で、きれいに横一文字に切りそろえられていた。その下から、白い脚がすらりと伸びている。
ルイセは、何事もなかったかのように双剣を鞘に納めた。
「これで、動けます」
「ちょ、おま、何を……!」
キッドは、思わず目を逸らした。逸らした先に何もないことに気づいて、また戻しかけて、また逸らした。
「そ、そんな姿、ほかの奴に見られたら……。それに、帰りはどうするんだよ」
「大丈夫です。替えは何着も持ってきています」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「では、どういうことですか?」
真顔だった。
キッドは、答えに詰まった。
どういうことか。何がまずいのか。ほかの奴に見られたら、何だというのか。
自分でも、よくわからなかった。わからないまま、顔だけが熱くなっていく。
ルイセが、小首をかしげた。キッドの顔を見る。それから、視線を落として、自分の脚を見る。もう一度、キッドの赤い顔を見る。
その目が、わずかに見開かれた。
白い頬に、じわりと朱が差していく。ルイセは、エプロンの端をきゅっと握った。
「……見なければ、いいでしょう」
声が、いつもより小さかった。
キッドは、慌てて天幕の布地を見つめた。何の変哲もない布地だった。
気まずい沈黙が流れた。
その沈黙の中で、キッドの頭の片隅が、別のことを考え始めていた。
戦場を、ウェイトレス姿の女が歩いている。敵の兵は、それを何だと思うか。
ある者は迷い込んだ店の娘だと思う。またある者は、兵の従者か、せいぜい荷物持ちだと思う。少なくとも、剣を向けるべき相手だとは思わない。敵の目は、緑の軍服を着た自分のほうへ向く。
(……いや、かえって使えるか)
敵は、侍女を見ない。
ならば、見られるのは自分の役目だ。緑の魔導士が派手に動けば動くほど、その後ろの侍女は、誰の目にも留まらなくなる。
「ルイセ」
「……はい」
「今日の俺は、囮だ。敵の目は、全部俺が引き受ける。お前は、その陰を行ってくれ」
ルイセが、顔を上げた。頬の朱は、まだ引いていなかった。けれど、その目は、もう戦う者の目に戻っていた。
「承知しました」
天幕の外で、角笛が鳴った。
国境の野を挟んで、両軍が向かい合った。
帝国軍は、兵の数で大きく劣っている。それでも、退く気配はなかった。陣形を整え、真正面から構えている。帝国の力を示すための部隊だ。ここで背を見せるつもりは、はなからないのだろう。
公国軍の総大将は、公王ジャン。自らの力を、己を快く思わない貴族たちに示すため、この戦場に立つことを選んだ。とはいえ、陣の後方で指揮を執るのが役目で、自ら剣を振るうつもりはない。
キッドとルイセは、本隊を離れ、戦場を見下ろす丘の上にいた。
二頭の馬を並べる。ルイセは、短くなった裾をまるで気にせず鞍にまたがっていた。キッドのほうは、極力そちらを見ないようにしていた。
野を渡って、ジャンの声が響いた。
「我らが地を無断で踏み荒らす帝国の兵に、緑の力を見せつけてやろうではないか!」
鬨の声が上がった。
公国軍が、一斉に前へ出る。それを受けて、帝国軍も動きだした。
数の差を考えれば、公国軍が一気に押し込む展開になるはずだった。
だが、そうはならなかった。
ぶつかり合った戦列が、どこも押し切れない。公国の騎士が数で囲もうとすると、その前に帝国の兵が退き、別の場所で数をそろえ直している。どの局面を切り取っても、兵の数がほぼ釣り合っていた。
「……これだけの差があるのに、膠着しているな」
キッドのつぶやきに、ルイセの声が返ってきた。
「帝国の兵は、ぶつかる場所を選んでいます。常に、緑と同じか、それ以上の数で当たれる場所だけを」
キッドは、隣を見た。ルイセは、戦場から目を離していなかった。
この女は、戦場の流れを、剣を握る者の目で見ている。個々の兵の足運びから、全体の意図まで読み取っている。
「公国の騎士団長も、悪い指揮じゃない。……それでも、何手も先を読まれている」
キッドは、帝国軍の最後方へ目を凝らした。
そこに、一人の男がいた。
騎乗している。今回の帝国軍に騎兵はほとんどいない。馬に乗っているのは、隊を率いる者だけだ。その中でも、その男は、ひときわ目を引いた。
黒光りする鎧をまとった、大柄な体躯。鋼色の髪を短く刈り込み、背には、人の背丈ほどもある大剣を負っている。年の頃は、二十代の後半といったところか。だが、その顔には、年に似合わぬ静けさがあった。獲物を仕留める寸前の猛禽のような、張り詰めた静けさだった。
男が短く手を振る。それだけで、伝令が駆け、戦列が形を変える。一つ一つの動きに、無駄がない。
(あれが、ソードか)
帝国四天王の一人。帝国の剣。剣の腕だけでなく、兵を動かす腕まで一級品というわけだ。
「……よくないな」
「このままでは、押し負けます」
「ああ」
キッドは、手綱を握り直した。
「ソードを止めるぞ」
「はい」
短い答えだった。
二人は同時に、馬の腹を蹴った。
狙うは、ただ一つ。帝国軍の最後方、帝国の剣のもとへ。




