壁を見た日
それから……
リラはまず、基礎体力を付けるためのトレーニングから始め、少しずつできることを増やしていった。
アルタリアの指導は厳しいが分かりやすく、ひとつひとつのトレーニングの意味をしっかり言語化してくれるので、リラも安心してついていけた。
半月が経過する頃には、練習用の盾を使ったトレーニングも始まった。この時、最初は父の盾に一番近いサイズ感のものを選んで笑われたものだ。
「そんな大盾、私でも扱えんぞ」
そう言って小さなものを渡された。
リラは毎日毎日、アルタリアとの特訓が無い日も欠かさず自主トレーニングに励んだ。
アルタリアはリラの指導には一切の手を抜かなかった。抜かなかったのだ。
毎日のように走り込みに出ていく娘を、母は笑いながら見ていた。
「ありがとうございました!」
その日も特訓をやり切ったリラ。
「ああ。今日もよく頑張ったな」
「はい!」
最初は貴族街に緊張しきり、アルタリアの存在感にも気圧されていたものだが、一年近くが経った現在ではどちらも慣れ、通りすがりの貴族に変な目で見られることも減った。
今日はアルタリアとは貴族街の入口で分かれ、帰り道は途中の広場で時計を見た後にジョギングしながら帰る。
「ただいまー」
「おかえり、リラ」
帰ったらもう一度時計を見て、タイムを確認する。
今日は少し遅めだったな。
しかしトレーニングを始めた頃に比べればだいぶ速くなった。リラは手帳に今日の記録を書き込む。
早いもので、記録を始めてからもう一年近くになっている。
「じゃあお母さん、お風呂先に入るね」
「うん」
母も慣れたもので、リラが戻ってくる時間に合わせて風呂を沸かしてくれる。
冒険者になると言った時。アルタリアに弟子入りした時。どちらも驚いていたが、何も言わずに背中を押してくれる母がありがたかった。
――やっぱり、あの人の娘ね。
母はよくそう言って笑う。
きっとさみしい想いをさせているのだろうと思うけど。
申し訳ないという気持ちも湧いてくるけど。
でも、父の気持ちを知りたいという気持ちは今も変わりなかった。
アルタリアとの特訓は週に三回。夕方の時間帯が多いが、それ以外の時間帯になることも時々ある。
今日は朝方の特訓だった。
「おはようございます!」
「ああ。今日も元気だな」
いつもの広場で待ち合わせをして、早速貴族街に向かう。そしていつも通り貴族街に繋がる門をくぐろうとしたところで……
「アル姉!」
その日は少し違った。
リラが振り向くとそこにいたのは青い髪の少年。年齢は自分よりひとつかふたつ下だろうか。
「なんだ、おまえか。どうした?」
アルタリアは引き返すと、その少年の前に歩み寄る。
「遊びに来た」
「……昼食をたかりに来た、ではなく?」
「そうとも言う」
アル姉という呼び方。この気安い距離感。どうやらアルタリアの知り合いらしい。
「自分の家で食べろ」
「やだ。父さん、うるさいもん」
やがてアルタリアは仕方がないとばかりに首を振ると、リラに向かって言う。
「リラ、この子も連れて行っていいか?」
「え?」
少年はリラのことをじっと見つめる。少し警戒されているような気がした。ただ、断る理由も思い付かなかった。
「別に、良いですけど……」
「すまないな」
悪いと思ったことには、相手が誰であろうと謝るのはアルタリアの良いところだ。
「リラの特訓の邪魔はさせないから。……ということだ。今日は先約優先だからな」
「ん」
少年は短く返事をして頷く。
そんなわけで三人はアルタリアの家に向かう。
イレギュラーもあったが、リラはいつも通りにアルタリアの家で筋力トレーニングを始める。
少年は相変わらず付いてきていて、今は軽い柔軟をしていた。
「ねえ、アル姉」
柔軟が終わったところで少年はアルタリアに声をかける。
「どうした?」
「手合わせ、しよ」
マイペースな子だなあ。
アルタリアはちらりとリラを見る。
「別に良いですよ。いつも通りにやりますから」
今やっているのはいつものトレーニングで、手順も分かっている。問題は無いとリラは言った。
「……悪いな」
アルタリアがそんなことを言っている間にも、少年は勝手知ったる様子で練習用の剣と盾を持ってくる。
「ん」
「はいはい、分かったよ」
アルタリアは肩をすくめると、剣と盾を受け取り、間を空ける。
と……
少年が飛び出した。
「っ!」
トレーニングをしていたリラは、一瞬でそれに引き込まれる。
キンと練習用の剣が打ち合う音がする。
アルタリアは……自分との手合わせと比べて、明らかに動きが良い。
極端に手を抜かれていると感じたことは今まで一度も無かったが……あの少年とのやり取りを見ると、アルタリアは全く本気を出していなかったのだと分かる。
「…………」
リラは思わず、トレーニングを止めて二人の手合いを眺める。
……眺めていた。
その日の夜……
横になったリラはなんとか眠ろうと目を閉じる。
明日の朝も、早いのだから。
そう言い聞かせるも……脳裏にこびりついた手合いは消えてくれない。
自分よりも年下の少年。
明らかに動きが良いアルタリア。
「……っ!」
思い出すな、思い出すな!
必死に胸の奥に蓋をする。だが……つうっとリラの瞼の隙間から涙が溢れる。
「うっ、うう……」
一度決壊したらもう抑えきれない。次から次へと涙が溢れてくる。
……無理だ。
あの子のような動きも、アルテさんみたいな動きも……わたしには、一生できない。
特訓を始めた頃なら、いつか自分もと言えたかもしれない。
けれど……一年続けているから、分かってしまった。
ベッドの上で背中を丸め、止まらない涙を拭う。
心が折れる、音がした。




