12.求婚 [後]
「ところで、フローティア」
「何かしら」
「冥府の婚姻契約には、伴侶以外の者と愛を交わしてはならないといった条項は存在しないのですよ」
その夜。寝室にて。
リヴィメラから向けられた言葉を聞き、ベッドの縁に腰掛けたフローティアは瞬きもなく、長い睫毛に縁取られた瞳を彼へと向けた。
「知っているわ。だから?」
真っ直ぐな視線を向けるフローティアの瞳には、感情らしいものは欠片も浮かんでいなかった。
長年の教育で身につけた貴族令嬢としての振るまいであったが、反面、返した声には少しばかり棘が生えている。それが心の内を見透かされたことへの反射的な苛立ちであるのは、彼女自身、十分すぎるほどに理解していた。
嘘偽りない、誠実な事実を述べるならば、フローティアは確かに、美しい王子による熱烈な愛の告白を前にある種の高揚を覚えた。俗な言い方をするなら、ときめき、と言い換えてもいい。
カルトスのような輝く精神を持つ人間に見初められることがあるのなら、それは間違いなく、真っ直ぐな幸福に繋がる道であるに違いない、とも思った。
あの溌剌とした、太陽のような輝きを持つ男の隣に立つ女性を羨ましくも思った。
そんな、夢見る少女のような感情の揺らめきを、リヴィメラは正しく読み取ったのだろう。
けれども。だからといって。
よりにもよって伴侶たるリヴィメラから、『あの素敵な王子様に心惹かれるなら、関係を持っても構いませんよ』と言うに等しい言葉を向けられる筋合いはない。
それがリヴィメラの感性においては厭うべきではない感情なのだとしても、だ。
「存在しないから、何だと言うの」
今度こそ、はっきりと拗ねたような声音で言い捨てたフローティアに、リヴィメラはほんの少し、困ったようにその身を傾けた。
「何も、全ての可能性を切り捨てることはないのですよ、フローティア。元の婚約者ならばともかく、彼は誠実で、素晴らしい人間であるようですから。貴方も、あの短い邂逅でも非常に好ましく思ったのでしょう?」
それはまるで、聞き分けのない子供を宥めるような声音だった。
ベッドの縁から降りたままのフローティアの足が、反射的に宙を蹴りかけて、止まる。
昔からそうだった。彼と話していると、せっかく作り上げた淑女の面が、瞬く間に取り払われてしまうような錯覚に陥る。
何を言っても子供の癇癪のように聞こえてしまう気がして、フローティアは口を噤むしかなかった。
冥府の婚姻関係では、伴侶以外と愛を育んではならない、という条項は存在しない。国によって法は異なるが、不貞を咎める規律は冥府にはないのだ。
恐らくは、冥府の存続のためには王の伴侶である〝王妃〟が必要であるためだだろう。
王妃の強い願望を元に世界が構築されるのであれば、もちろん、その数は多ければ多いほど、効率は良い。当然の話だ。
たとえばサライダール国が一夫多妻制を取るのも、神々への信仰が厚いのも、気候の関係から成人前に命を落とす子供が多いことに由来している。冥府にも似たような感覚があるのは理解できた。
リヴィメラはそれを把握した上でわざわざ説明したりはしなかった。それは勿論、フローティアが自身とだけ結ばれることを望んでいたから、だ。想いが先で、役割は後。それは紛れもない真実なのだろう。
であるならば、最後まで言わないままで居てくれればそれでよかったのだ。よりにもよって、フローティアが望ましいと感じるような相手に求婚された後に、そんなことを言う必要は無い。
「貴方にとっての幸せの道は、多い方が良いですからね」
本気で言っているのだから、非常にたちが悪かった。どうにも腹立たしい思いが湧き上がるも、同時に、そんな思いを抱く理由はないのだと囁く理性によって、フローティアは静かに目を閉じ、言葉を飲み込んだ。
結局のところ、彼は人間同士の生殖について、さほど強い興味があるわけではないのだ。性交渉をしたいとは思いますか、なんてとんでもない質問を投げておいて。
ほんの少しの好奇心で試してみようというだけの行為だから——リヴィメラが重きを置く〝食事〟ではないから、別にその程度のことは、誰としても構わないと思われている。
『私ならきっと貴方を幸せにできる』と言ったのは、リヴィメラではなかったか。この世界の誰よりもそうして見せると言ったのは。
八歳の時の記憶を取り出しかけて、強い手つきで仕舞いにかかる。あの時のフローティアは〝味見〟が恐ろしくてならなくて、泣きわめいて求婚を断った。当たり前だ。誰が自ら発狂するかもしれない道を選ぶというのか。
ただ、その時に見せられた彼の、フードの奥に広がる夜空のような深淵を、美しいと思ったのも確かだったのだ。
フローティア・バーノッツという人間は自らの意志で闇魔術に傾倒し、冥府の王たるリヴィメラを喚びだし、彼と婚姻関係を結ぶに至った。
カルトスと出会うことが出来たのはフローティアがそうした道を選んだがためであり、その出会いを、都合の良い夢想によって成り立つ関係に繋げようとするのは、現実のフローティアを無視した行いだ。
あまりにも生物としての価値観が違うために後悔することも幾度もあったが、それでも、フローティアが心を許したのはリヴィメラだけだったし、騙し討ちのような真似をされたものの、結局はフローティアの意思で結婚をしたのだ。
フローティアは止めた筈の足の踵で、一度だけベッドを叩いた。
「……なら、もしも私がカルトス様と冥府の作法で愛し合っても、貴方は構わないと思うのね。それが私の幸せになるのであれば」
随分と、子供じみた拗ねた口調になってしまった。口元を押さえるものの、もう遅い。目を伏せたフローティアはただただ、静かに己を恥じた。
リヴィメラは答えなかった。ただ僅かに、機嫌の良さを感じさせるような吐息を零して、フローティアを見つめていた。夜空のように果てなく広がる闇を前に、フローティアは自身の頬が熱を帯びるのを感じる。それでも、隠すように顔を伏せるのも、目を逸らすのも妙に悔しくて、フローティアはベッドの縁を握りしめたまま対面に立つリヴィメラを一心に見つめ返した。
「貴方が言ったのはそういうことよ。そうね、私が、そう、とても美味しそうな誰かを見つけて、その方の味に夢中になって、そういうことをしてもいいと言ったのと同じなのよ」
「私達はお友達でしょう? 愛しのフローティア、貴方がこの先も私に望むのは、そういうことを見せつけても構わない相手で居ることではありませんか」
穏やかに、緩やかに切り返されて、フローティアは何処か息の詰まる思いで口を閉じた。
リヴィメラの指摘はひどく正しいものだった。フローティアはこの先もずっと、彼とお友達でいることを望んだ。
それは、婚姻関係を結んだために生命を脅かされる恐怖を味わいたくはなかった、というのが大半の理由ではあったが、それでも、自分を恋愛対象として愛する相手に友情を強要する行為だった。
〝お友達〟であることを望んでおいて、己への求婚については伴侶として配慮してほしいなどと思うのは、あまりに不誠実だ。
今度は、目を伏せてしまった。
「……ごめんなさい」
「おや、何か謝ることが?」
白々しい物言いだ。
おどけたような声音に再び苛立ちが湧きかけて、なんとか堪えた。
「あの者は、残り生きてもせいぜい六十年でしょう。構いませんよ」
「…………それは、私がその間に、本当に彼を愛してしまう道があってもいいということ?」
「貴方が心から誰かを愛せる相手と出会えたのなら、それはきっと素晴らしい幸福に違いありませんからね。無論、その相手が私であるのならそれは何より喜ばしいことではあります」
心からの思いであるのは、声音だけで理解できた。
できてしまった。
リヴィメラは本心から口にしている。愛するフローティアが幸せを感じられることこそが自身にとっての喜びなのだと。
抱いていた筈の苛立ちが、自分へと跳ね返るような思いがする。拗ねて捻れた心を押さえつけるように、フローティアは軽く自身の胸元の布地を掴んだ。
「……私、身勝手で浅ましい女ね」
フローティアは、顔から火が出るような思いを、淑女教育の賜物である表情の取り繕いで押し込めながら、小さく呟いた。
友人であることを強いておきながら、嫉妬はしてほしいだなんて。いや、してほしい、訳ではない。嫉妬されないことに落胆したのだ。それは、単純な嫉妬を望むよりも更に、傲慢で恥ずかしい行いではないだろうか。
気を抜けば涙も滲んでしまいそうだった。ぱち、ぱち、と感情を押さえつけるようにして繰り返される瞬きを落ち着かせようとしたのか、六本指のひとつがそっと、フローティアの目元をなぞった。
「私は貴方が勝手をしているところを見るのが好きですよ、フローティア。現世では誰もがそれを許しはしなかったでしょう」
きっと、慈しむとは、こういうことを言うのだ。
闇に沈むような柔らかい声を聞きながら、頬を滑るように撫でる優しい指先を感じながら、フローティアはそっと瞼を下ろした。
こんなに優しい声をしておいて、フローティアが望むなら他の者と思いを通わせてもいい、と言っているのだ。この男は。それがフローティアの幸福であるならば構わないと。本気で。
羞恥に燃えていた頬が、気づいた時には別の熱で塗り替えられていた。
それは極めて、そう、極めて衝動的な行動でしかなかった。
思考を通さず行われた、反射のような情動だった。
リヴィメラの手を取ったフローティアは、黒く蠢く六本指のひとつに噛みついた。
肉を食い破るのに躊躇いはない強さで立てられた歯が、皮膚と呼べるかも分からない存在の輪郭を食いちぎる。ぶつ、と削り取った指の端を、フローティアは臆することなく、こくり、と飲み込んだ。飲み込んだのだ。細く白い喉が嚥下のために微かに皮膚を波打たせ、唇の端に残った薄い黒色を、赤い舌先が舐め取る。
「ごめんなさい、勝手をしたわ」
くらりと歪む視界をなんとか堪えて、つっかえかけた喉から零れる乱れた呼吸を整えることもせず、フローティアは衝動を形にしたような声で突きつけた。
身勝手にも程がある振る舞いだった。けれども。リヴィメラはたった今、そうしているフローティアが好きだと言ったのだ。
リヴィメラは初め、ただぼんやりと、齧り取られた自身の指先を見つめるばかりだった。
少しの傷ならすぐに治ってしまう――治せてしまうだろうに、リヴィメラはゆったりとした仕草で、つ、と伝い落ちる黒い滴を眺めている。
瞳もないのに、その視線が自分へと向かうのが、フローティアにははっきりと分かった。
唇さえ存在しない虚空が、言葉を探すように波打っているのを感じる。無言のままに首を傾けたリヴィメラが、未だ濡れている指先を、他の指で微かに擦る。
彼の血が霧のごとく宙に溶け消えるのを見た、と思った時には、フローティアの視界には、全てを覆うような影がゆらりと立っていた。
フローティアがその影に挨拶を投げつけることが出来たのは、きっと、口の中に残る芳香の名残が意識を保たせていたから、だろう。
「もっ、もう寝るわ。お、おやすみなさい」
「――――、――ええ、おやすみなさい」
良い夢を、と予め定められた決まり事のように口にしたリヴィメラの声を撥ね除けるようにして、フローティアは頭から寝具を被った。リヴィメラはしばらくの間、布地に包まれたフローティアを見下ろしていたようだったが、気配はすぐに溶けて消えた。
さて。
それから。
フローティアは十日間、リヴィメラを避けた。




