番外編 騎士の懊悩
自分付きの騎士や従者と連絡をとり、新しい領地で落ち合う段取りをつけてジルベールは娘と旅をする。
道中でようやく娘の名前を知り、ジルベールは有頂天になった。
「ジルベール」
「どうした、クロエ」
おとなしく腕に収まり馬に揺られているクロエは、しきりにジルベールの名前を呼ぶ。赤い唇から紡がれれば平凡な名前が妙なる音楽のように聞こえる、とおかしな方向に考えが浮かんでしまう。
苦行のような日々を過ごし、生命すら危機に瀕して得たのは一人の娘。
出自も、能力も、存在すらもジルベールの人生とは交わらないはずの『器』は、ジルベールの命の恩人として、そして愛しい娘として側にいる。
希望に満ち、娘を腕にして辺境の領地を目指すジルベールは幸福のさなか――のはずだった。
砦での夜もジルベールにとっては苦行ではあった。
若い娘が何も身につけずに川で水と戯れて、陸に上がっても被り布一枚で歩き回るのを見かねてつい世話をしてしまったのだった。
懇願してからはどうにか服を着てくれるようにはなったが、それだとて水に濡れればなまめかしいことこの上ない。そんな姿を異性にさらして平気な娘には、羞恥心などない。
いや、羞恥心に限らずほかの感情にもひどく乏しかった。
話すようになってからの口調は、魔術師の尊大なものを真似たもので若い娘には似つかわしくない。
馬にも乗れないから一頭の馬に二人で乗っているが、それだってジルベールには嬉しいがある意味辛い。
なにしろジルベールは健康な青年なわけで。
間近にいるのは美しくて若い娘で、しかも想いをかけている娘なわけで。
騎士として恥じることのないようにと、理性は総動員している訳だが娘はそんな努力をあっさり無にしてくれる。
どうしても野宿になる時など遠慮会釈なしに体を寄せて眠り込むし、馬上でも間近で仰ぎ見られればその危うい角度に何度生唾を飲み込む羽目になったことか。
自分の名前を呼んでくれるのも嬉しいが、胸が高鳴って仕方がない。
少し目線を落とせば、王宮を出立した時よりも格段に柔らかい笑みがかえってくる。
全くもって心臓に悪い。こちらの諸事情も察して欲しい。
「どうしたんだ、クロエ」
「街が、見える」
「今夜はあそこで宿をとろう。湯浴みもしたいしな」
ジルベールは二人を乗せて移動している馬の手綱を改めてしっかりと握って、遠目に見える街を目指した。
「生憎、一部屋しか」
定期的な市の立つ日だとかでたどりついた街は混雑していて、宿屋をあたればこの返事だ。すでに二軒断られた後だったので、もういいと妥協する。
前払いで食事こみの代金を支払い、馬の世話も頼んでジルベールはクロエと部屋におさまった。簡素な寝台と、木の卓と一脚の椅子。衝立の向こうに大きな桶があってこれが浴槽がわりなのだろう。
湯は運び上げてもらうしかあるまいと考えていたジルベールは、クロエがなにごとかを呟いた後で水音がしたのに気付いた。衝立の向こう側を覗けば、湯気のたつ湯が張られている。
クロエがさっきまで顔が分からないようにと深くかぶった布を肩まで下げて、手を桶に差し入れていた。
「クロエがやったのか?」
「湯浴みがしたかったのだろう?」
宿の主人は湯が欲しいなら声をかけてくれと受付で言っていた。それが、勝手に湯が張られていたと知れば、連れが魔術師だと推測するだろう。
辺境に向かうにつれて魔術師は数が少なく、必然的に注目を集める。
ジルベールにとってはありがたくない展開だ。
「主人に、湯はいらぬと伝えておこう。疲れたから湯浴みはせぬと言っておけばよいだろう」
早めに湯浴みをして、桶を乾かしておけばばれないだろう。
この湯はどう処理したものか。こっそり流すような場所はあるだろうか。
「ジルベール?」
「ああ、クロエ。ありがとう。早めに湯を浴びるか。食事はどうする? 部屋に持ってきてもらうか、それとも下で……はやめておこう」
床に座っているクロエを、酒も出る食堂などへは連れて行けない。騒ぎになるに決まっている。ことに無防備なクロエは、人目にさらすことなど論外だった。
クロエは部屋に入るなり念入りに結界を張ったので、侵入者は心配しなくていい。口実をつけて入ろうとする者も阻んでくれる。自分が急に動けなくてもクロエに危険が及ぶことが少ないので、安心できる。
辛抱強く言い聞かせたので、クロエが一人でふらりと外に出ることも最近はない。
以前は本当に目が離せなかったのが、ずいぶんと楽にはなった。
「クロエが先に浴びるといい」
「承知した」
その場でためらいなく服を脱ごうとするので、慌てて衝立の反対側に飛び退く。ぱさりと衝立にクロエの服がかかり、桶に入ったらしい音が続く。
――衝立があって良かった。ジルベールは宿の主人に感謝する。
それでも寝台の端で、クロエに背を向けて時間が過ぎるのを待った。
「ジルベール、終わった」
そのまま歩いてきそうな気配に、慌てて布を手にしてクロエのもとにいく。
湯上がりで上気した肌のまま、クロエが衝立に片手をかけてちょこんと顔をのぞかせていた。顔を背けてばさりと布でクロエを覆う。そして部屋の中央の椅子に座らせた。
「――クロエ」
「ジルベール」
きらきらと期待に満ちた眼差しを向けられて、ジルベールは嘆息した。
自分の荷物の中から、もう一枚布をとりだす。
王都を離れる際にジルベールは食料や金子とともに、大きな布を用意した。今クロエが包まれているものがそうだし、ジルベールが手に持っているものもそうだ。野宿の際の毛布代わりはもちろんだが、大事な役割がある。
クロエを包み、拭上げるという目的が。
おとなしく椅子に座ったクロエの背後にまわって、ジルベールは濡れた長い髪の毛を布で挟んで水分を吸い取る。布で拭っているジルベールの前で、クロエは行儀良く静かにしていた。
砦での延長なのか、クロエは湯上がりの体をジルベールに任せる。
その無茶な試練に耐えながら、ジルベールはクロエの世話をしていた。
布で挟んだ髪の毛を押さえるようにして拭っていく。身じろぎした拍子に、体を包んでいた布がずれて肩が露わになった。
「――っ、クロエ、布が、落ちた」
見返るクロエの首から肩の線がジルベールを射貫く。
濡れてしっとりと重い髪、うっすらと上気した頬、わずかに開かれた唇ときゃしゃな首から肩への曲線。
思わず手が震えそうになる。
クロエが布を掴んで肩をかくすまでの時間は、ジルベールにとっては試されている時間でもあった。
ありとあらゆる理性を総動員して危険な時間を耐え抜いたジルベールは、クロエの髪の毛を拭いて新しい服を身につけさせた。
クロエが自分で服を着るようになるまでも、それは大変だったのだが。
魔術師の服はゆったりとした布を頭からかぶって腰で紐を結ぶようなもので、はじめはクロエは娘用の服の着方すら分からずにジルベールを大いに困らせた。
ジルベールの努力と協力を求めた旅の途中で出会った女性の指導により、なんとかクロエは自分で服を着るようになってくれた。
進歩である。
この勢いで湯上がりも一人で、と楽観視していたジルベールの期待は見事に打ち砕かれる。どうやら水から、この場合は湯でもだが上がったらジルベールが世話をするのだと、クロエには刷り込まれてしまったらしい。
いつにもまして心臓に悪い姿をジルベールに晒して、気にする様子は全くない。
世話は嫌ではないが、ジルベールとて健康な男性であるからして。差し障りが十分にある。
ただ生まれたての雛のようなクロエは、機微であるどころか人として当たり前の感情や反応の表出も、ようやくできるようになったばかり。自身のことでさえまだ幼子のようなのに、ジルベールの事情まで察しろとは言えない。
かくして、ジルベールは日々忍耐を強いられている。
この日も危うい時間を無事に乗り切ることができ、ジルベールもほっとして湯浴みをしようとした。
クロエが椅子から立ち上がり、ふる、と頭を振ったのが目の端にとらえられる。
瞬間、濡れて重そうな髪の毛がさらりと輝きをはなって揺れた。見間違えたかとクロエに向き直ると、寝台に横になったクロエの髪の毛が敷布に広がる。
よろけそうになりながら寝台にいく。手ですくい上げれば、さらりと髪の毛は滑り落ちた。
「……クロエ」
ん? とでも言いたげに黒い瞳が見返す。
「もしかして、魔術で体や髪の毛を乾かすことができるのか?」
ゆっくり質問すれば、こっくりと肯定の頷き。
崩れそうになる膝を励まして、もう一つ質問する。
「砦の川から上がった時も、そうやって乾かしていたのか?」
もう一度こくりと頷かれ、ジルベールは項垂れた。
あの忍従の日々。葛藤と懊悩の日々が無意味だったとは。
血の涙を流す思いで川をたゆたうクロエを意識していた日々に、ジルベールは泣きたい気分になる。
「そうか……便利だな」
褒められたと思ったのか、クロエが実に嬉しそうな顔になった。
不意打ちの笑顔に、ジルベールは降参するしかない。
腰を落として、寝台に横たわるクロエと同じ目線になる。
「これからも湯上がりの世話は私がしてもいいのか?」
「ジルベール、うん」
「ならば、私以外にはさせてはならないよ」
「承知した、ジルベール」
ジルベールはクロエの頭を撫でながら約束させる。
「そうだな、私にもお楽しみのひとときではあるし」
「――『お楽しみ』」
それまでジルベールの手の感触を楽しんでいるようだったクロエが、目を見開いた。
がっとジルベールの側頭部を両手で掴む。
「クロエ?」
「――『お楽しみ』」
そう繰り返して、クロエはジルベールの顔を自分の胸元に寄せていく。
「クロエッ、な、な、何を」
「――『お楽しみ』」
ぐいぐいと顔に胸を押しつけられて、ジルベールは悶絶した。
なんの拷問だ。なんとういう試練なのだ。
この誘惑に理性の箍を騎士道精神でどうにか、どうにか外さずに済んだジルベールは、精神的な疲労にさいなまれた。クロエを引きはがして湯桶につかり、自分をようやく取り戻す。
食事を取れば、旅で蓄積された疲労が眠りを誘う。
「クロエは寝台で。私は床で休む」
クロエの体を拭いた布を二枚重ねて、床に横たわろうとしたジルベールは、クロエの呼びかけという攻撃を受ける。
「ジルベール」
「お休み」
「ジルベール」
「野宿に比べれば夢のような寝台だろう。ゆっくり休め」
「ジルベール」
顔を向ければご丁寧に上掛けをめくったクロエが、ジルベールを誘っている。
いや誘っているつもりは毛頭ない。これも刷り込みのせいで、眠るときはジルベールが側にいるものだと疑いなく思っている。
王都魔術師団の建物の地下で、すがりついたまま意識を失ったクロエに付き添ったジルベールは、寝台にもたれてクロエを半ば抱きしめた形で自分も眠り込んでしまっていた。目覚めたクロエはその状態のジルベールに、自分から身をすり寄せた。
以来クロエはジルベールにくっついて眠る。
ジルベールにクロエがくっつくのはともかく、今のようにクロエの側にジルベールが潜り込む形になるのは、非常に、非常にジルベールの心身によろしくない展開だ。ただクロエの瞳は、まっすぐにジルベールだけを映している。
内心涙を流しながら、のろのろと床から身を起こしてジルベールはクロエの隣に横たわった。すぐにクロエが顔をすり寄せる。
「お休み、ジルベール」
「――お休み、クロエ」
ジルベールの心中を知らぬクロエは、まぶたを閉じて健やかな寝息を立てる。
腕枕をしたジルベールに、健やかな眠りはいまだ訪れそうになかった。