第9話『母の秘密』
ローゼが再び眠りについた後、マリシェラは寝台のそばに置かれた椅子に座ったまま、しばらく娘の寝顔を見つめていた。
先ほどまで苦しそうにしていた呼吸は、今は落ち着いている。けれど、頬にはまだ涙のあとが残っていた。
「……こんなこと、今までなかったのに」
小さく呟く。信頼の出来る医師に診てもらった。身体のどこかに病気があるようにも見えない。それなのに、ローゼは起き上がることすら辛そうなくらい、ぐったりとしていた。
魔法を使おうにも、治癒魔法は万能ではない。原因の分からない不調に、むやみに治癒魔法を使うのは得策ではなかった。だからこそ、今は何もできずに見守るしかない。それが、母親としては何より苦しかった。
「奥様」
扉の向こうから、控えめな声がした。
「入ってちょうだい」
返事をすると、ゆっくりと扉が開く。
入ってきたのは、濃紺のローブを身につけた一人の魔導士だった。王宮から呼んだ、魔力鑑定を専門とする魔導士だ。
「お呼びいただきありがとうございます」
「急に呼び立ててしまってごめんなさい。娘のことで、少し気になることがあるの」
「医師からは、身体的な異常は確認できなかったと伺っています」
「ええ」
マリシェラはローゼが寝ているベッドへ視線を向けた。
「だからこそ、魔力のほうを調べてほしいの」
「承知しました」
魔導士はローゼの眠っている姿を確認すると、静かにベッドのそばへ歩み寄った。
「お嬢様を起こさずに調べさせていただきます。」
「お願い」
魔導士が手袋を外す。
そして、ローゼの手首へそっと指先を添えた。
目を閉じる。しばらく沈黙の時間が流れた。
「……?」
突然、魔導士の眉がわずかに動いた。
「どうしたの?」
「少々、お待ちください」
魔導士は指先に意識を集中させ、まずは表面に近い魔力を探る。ほとんど何もない。これだけなら、確かに「魔力量が少ない」と判断されてもおかしくない。
けれど———
「……妙ですね」
魔導士は、さらに深く探った。表面ではなく、その奥。身体の内側へ意識を伸ばしていく。すると、ようやく細い一本の流れを見つけた。それは手首から腕へ。腕から肩へ。胸の奥へ。そこからさらに全身へと、途切れることなく巡っていた。
「……これは」
魔導士は息を呑んだ。身体中に魔力が流れている。それも、ただ流れているだけではない。まるで身体の中に決められた道があるかのように、一切の乱れがなく一定の速度で巡っている。
普通の人間の魔力はもっと不規則だ。
力が余れば一か所に溜まり、使えば一気に減る。感情が揺れれば流れも乱れる。けれど、ローゼの魔力は違った。細く、静かに、途切れることなく、まるで呼吸をするように、ずっと身体の中を巡っている。
「……奥様」
「何か分かった?」
魔導士はすぐには答えなかった。
もう一度、魔力の流れを確認する。
「……ありえない」
「え?」
「いえ……失礼しました」
魔導士は一度手を離し、手袋をはめながらこちらへ振り向いた。
「以前の魔力測定では、お嬢様の魔力量は少ないと記録されていましたね」
「ええ。本人もそう思っているわ」
「……その結果は、ある意味では間違っていません」
「ある意味では?」
「外へ出せる魔力が少ないのです」
マリシェラが眉を寄せる。
「でも……」
魔導士はローゼを見つめた。
「お嬢様の身体の中に存在している魔力そのものは、かなり多いです」
「……多い?」
「はい」
マリシェラの目が見開かれる。
「むしろ、この年齢の子供として考えれば多いほうです」
「それなのに、どうして今まで……」
「外へ出てこなかったのでしょう」
魔導士は静かに答えた。
「お嬢様の魔力は、ほとんどすべてが別のことに使われています」
「別のこと?」
「身体です」
マリシェラが息を止める。
「ずっと身体の維持に使われています」
魔導士はローゼの胸元へ視線を落とした。
「この子の魔力は、魔法を使うために蓄えられているというより……身体そのものを支えるために、常に循環しているのです」
「身体を、支えている……?」
「ええ」
魔導士は頷いた。
「おそらく、お嬢様は生まれつき身体があまり丈夫ではありません」
その言葉に、マリシェラの表情が曇った。
「……やっぱり」
思い返せば、心当たりはいくつもあった。
ローゼは赤ん坊の頃から、よく眠る子だった。起きている時間が短いことを、最初は「よく眠る子なのね」と微笑ましく思っていた。
少し大きくなってからは、他の子供たちと比べて疲れるのが早いことにも気づいた。庭で遊んでいても、いつの間にか侍女に抱かれて眠っていた。季節の変わり目には体調を崩すことも多い。
それでも、普段は元気だった。笑って走り回ることもできた。転べば泣き、少し休めばまた遊びに行きたがる。だからマリシェラは、「少し身体が弱い子なのだろう」と思い、それ以上深く考えたことはなかった。
「……それが、魔力のおかげだったの?」
「恐らく」
魔導士はローゼの身体を流れる魔力を見つめる。
「本来なら身体が負担を感じるような部分を、この魔力が補っているのでしょう」
「だから、この子は……」
「身体が弱いことに気づいていない可能性があります」
マリシェラは言葉を失った。
それなら、今までのことにも説明がつく。ローゼが疲れやすかったこと。それでも、思っていた以上に元気に遊べていたこと。少し眠れば、またいつものように笑っていたこと。
———全部、この子自身の力だけではなかった。
「……この循環は、いつから?」
「恐らく、生まれたときからでしょう」
「生まれた時から……」
マリシェラは小さく繰り返す。
ならばローゼは、生まれたその日からずっと、自分自身の魔力に守られていたのだ。それを知らず、それが当たり前だと思ったまま。
「それに、非常に興味深いことがあります」
「何?」
魔導士は少しだけ表情を曇らせた。
「この魔力は、身体を維持しているだけではないようです」
「え?」
「今現在、身体の中に残っている小さな損傷や負担を、少しずつ修復しているように見えます」
「……修復?」
「ええ。擦り傷や軽い打撲程度なら、本人が気づく前に治っている可能性があります」
「ええ。病気という意味ではありません。身体が弱いことで生じた負担や、体調を崩した際に受けた身体への影響などです」
マリシェラは黙って聞いていた。
「一度にすべてを治すわけではありません」
魔導士は続ける。
「日々、身体を維持しながら、少しずつ修復しているのでしょう」
「……だから、体調を崩しても回復するのが早かったの?」
「それもあると思います」
マリシェラは、これまでのローゼを思い返す。
体調を崩したことは何度かあった。けれど、長く寝込むことは少なかった。数日休めば、いつものように笑えるようになっていた。当時は、それを「子供だから回復が早いのだ」と思っていた。
「……あれも、この子の魔力が?」
「可能性は高いでしょう」
魔導士は頷いた。
「お嬢様の魔力は、傷を一瞬で治すようなものではありません。もっとゆっくりと落ち着いている」
「落ち着いている?」
「ええ。身体を支えながら、少しずつ整えていく」
その言葉に、マリシェラはローゼの寝顔を見る。
今もそうなのだろう。今日、突然に身体がつらくなった。けれど、その身体の中では魔力が途切れることなく働いている。疲れた身体を支えながら。負担を受けた場所を、少しずつ修復しながら。だからこそ、ローゼは眠っている間にも魔力を使い続けているのだ。
「……今も?」
「はい」
魔導士は静かに答えた。
「今も、身体を支えています」
「今日みたいに体調を崩した後なら……」
「むしろ、普段より魔力が必要になっている可能性があります」
マリシェラの表情が変わった。
「身体が受けた負担を修復しながら、いつもの状態を維持しなければなりませんから」
魔導士はローゼの身体を巡る魔力を見つめる。
「今夜も、ずっと働き続けているのでしょう」
マリシェラは胸が痛くなった。何も知らずに眠っているのに身体の中では、魔力が休むことなくローゼを守っている。
「……この子はずっと自分を守っていたのね」
「ええ、それがこの子にとっては当たり前なのでしょう」
マリシェラはふと顔を上げた。
「そしたら何故今日突然体調を崩したのかしら」
魔導士の表情が変わった。
「そこが問題です」
「やっぱり、何かあるのね」
「はい」
魔導士は慎重に言葉を選ぶ。
「お嬢様の魔力が一時的に大きく外へ流れた可能性があります」
「何かしたのね」
「何かを治した。あるいは、本人も気づかないうちに特殊な魔法を使った……その可能性があります」
マリシェラは黙った。
ローゼが何をしたのかは分からない。けれど
「つまり……身体を守っていた魔力が、外へ出てしまった」
「そう考えるのが自然です」
「だから、急にあんなに疲れたのね」
「はい」
魔導士は頷いた。
「お嬢様の魔力は多い。ですが、そのほとんどは自由に使える魔力ではありません」
「身体を守るために必要だから、ね」
「その通りです」
「では、本人が知らずに魔法を使ったら?」
「危険です」
即答だった。マリシェラの顔が強張る。
「大きな魔法である必要はありません」
魔導士は続ける。
「身体の維持に使われている魔力が一定量以上外へ流れれば、その分だけ身体への負担が増えます」
「……」
「特に、お嬢様自身が『自分の魔力量は少ない』と思っているのなら、なおさらです」
「どういう意味?」
「自分には魔力がないと思っている子供が、偶然なにかをできたと知れば……次もできるか試したくなるでしょう」
マリシェラは、はっとした。ローゼならきっと試す。 もう一度、今度はちゃんとできるか試してみたいと考えるだろう。
「……あの子、優しくて頑張り屋だから」
「そうでしょうね」
魔導士は穏やかに答えた。
「だからこそ、今は知らせないほうがいいと思います」
「しばらくは、私たちだけの秘密にしましょう」
「賢明だと思います」
「ローゼには、今まで通り『魔力が少ない』と思わせておくわ」
「はい」
「ただし、定期的に検査をして」
「もちろんです」
魔導士は頷いた。
「成長すれば、身体を支える魔力と外へ使える魔力の割合が変わる可能性もあります」
「変わる?」
「ええ。今はほとんどが身体の維持に使われていますが、身体が成長すれば余裕が生まれるかもしれません」
「そのときには……」
「本来の魔力量が、少しずつ外へ現れるでしょう」
マリシェラは眠る娘を見つめた。今はまだ、小さな身体の中に隠れている魔力。きっと体が弱くなければ私よりもいい魔導士になっていたに違いないわ。
「この子は、自分のことを何も知らないのね」
「それは、これから少しずつ知っていけばいいことです」
魔導士は穏やかに答えた。
「今はただ、身体が必要としている魔力を大切にしてあげればいいでしょう」
マリシェラは頷いた。
そして、眠っているローゼの髪をそっと撫でる。柔らかな黒髪が、指の間をすり抜けていく
「……大丈夫よ」
眠っている娘には届かないほど、小さな声で呟く。
「今までだって、あなたはちゃんと頑張ってきたもの」
ローゼは答えない。
ただ、穏やかな寝息を立てている。その姿を見ながら、マリシェラは思った。
――この子が元気に笑っていられるなら、それでいい。
魔力が少ないと聞いた時も、そう思っていた。
エルフィーナ家の娘なのだから、いつかは治癒魔法を使い、一緒に仕事する時がくるのだろうか。そう期待していなかったわけではない。
けれど、ローゼに魔力が少ないと告げられた時、それでもローゼが愛おしいことには何の代わりもなかった。魔法が使えなくてもいい。人より身体が弱くてもいい。特別な力なんて、なくてもいい。
ローゼが笑っていてくれるなら、それで十分だった。
だからこそ、今になってこんなにも大きな魔力がローゼの中にあると知って、マリシェラは複雑な気持ちになっていた。
母親としては、嬉しい。自分の娘が、それほど大きな力を持っていたのだと思うと、誇らしくさえある。
けれど、その力は、ローゼが自由に使えるものではない。
生まれたときからずっと、身体を支えるために使われている。
もし、魔力が多いことをローゼが知ったらきっと喜ぶだろう。私も魔法が使えると知ったら、きっと嬉しそうに笑う。
「……きっと、この子は」
マリシェラは、眠るローゼの小さな手をそっと包んだ。
——自分のためだけには使わない。
誰かが苦しんでいて、助けられる力が自分にあると知ってしまったら。きっと、迷わず手を伸ばしてしまう。自分の身体がどうなるかなんて考えずに。
「……あなたは、そういう子だものね」
マリシェラは困ったように微笑んだ。誇らしい。心から、誇らしいと思う。誰かを助けたいと思える優しさも、自分にできることがあるなら、手を伸ばそうとする強さも。
母親として、そんな娘を誇りに思わないはずがない。
身の回りの者たちにもきちんと「ありがとう」と言える。身分が違うからといって、人を見下すこともしない。まだ幼いから、これから変わっていくことだってあるのかもしれない。
それでもマリシェラは、そんなローゼの優しさが好きだった
「……だから、今は知らないままでいて」
それが、母親としてできる精一杯だった。いつかローゼがもっと大きくなって、自分の身体のことも、自分の力のことも理解できるようになったら……そのときには、きっと話してあげたい。
あなたの中には、ちゃんと力があるのだと。ずっと身体を守ってくれていた、こんなにも誇らしい大きな力があるのだと。そして、その力をどう使うかを決めるのは、あなた自身なのだと。ただ、それを伝えるのは今ではない。
「……ごめんなさいね、ローゼ」
マリシェラは小さく呟く。
ローゼは何も知らずに眠っている。その小さな身体の中では、今も魔力が静かに巡っていた。まるで、娘を守るもう一つの鼓動のように。
マリシェラはその寝顔を見つめながら、静かに思う。
———この子がいつか、自分の中にある力を知る日が来るのだろうか。
そんなことを思いながら。
同時に、その日ができるだけ遠くであってほしいと願った。




