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第8話『悪夢』


 翌朝。

 目が覚めた瞬間から、身体が重かった。


「……ん」


 いつものように起き上がろうとして、腕に力を入れる。けれど、身体が思うように動かない。


「……あれ?」


 ゆっくりと身体を起こす。身体の奥に、鉛でも入っているみたいに重い。風邪ひいたかな、そんな呑気なことを考えていた。


 今日は、お母様が朝から公爵家の仕事で出かけている。

昨日も王宮へ行っていたし、今日はいつもの仕事に戻らなければならないらしい。


「お嬢様、お目覚めですか?」


 扉の向こうから、話しかけてくる彼女は私専属の侍女ミレアだ。彼女は私が小さい頃からお世話をしてくれている。ミレアは私にとって、侍女というより……第二のお母様みたいな人だった。


「……はい」


 返事をすると、すぐに扉が開く。


「おはようございます、ローゼ様」

「おはよう……ミレア」


 ミレアはいつものように朝の支度をしようと近づいてきた。でも、私の顔を見るとぴたりと足を止めた。


「……ローゼ様?」

「なあに?」

「お加減が悪いのではありませんか?」

「……分からない」


 正直に答える。やっぱり、ミレアにも具合が悪そうに見えるみたい。


「なんだか、すごく身体が重いの」


 ミレアが心配そうに私の額へ手を当てる。


「熱は……なさそうですね」

「うん」

「どこか痛いところは?」

「ない…」

「気持ちが悪かったり、頭が痛かったりは?」

「少しぼんやりするだけ……」


 ミレアはしばらく私の顔を見ていた。どうしよう、と悩んでいるみたい。それから、安心させるように私の手を握ってくれた。

 

「今日は無理に起きなくてもよろしいですよ」

「でも……」

「お母様も、今日はお帰りが早いとおっしゃっていました。とりあえずゆっくり休みましょう」

「……はい」


 ベッドで横になった。けれど、身体の重さは消えなかった。ミレアが少し離れたと思ったら水を持ってきてくれた。


「少しお飲みください」

「ありがとう」


 一口飲む。おいしい。


「朝食はどういたしましょう?」

「……食べる」

「お持ちしますね」


 しばらくして、ミレアが朝食を運んできてくれた。

私はベッドの上に身体を起こして、小さなテーブルを置いてもらう。


「食べられそうですか?」

「うん。たぶん」


 スープを一口。柔らかなパンを少し。

どうしよう、ちょっと気持ちが悪いかも。いつもなら何とも思わない量なのに、今日は食べられそうにない。


「……もう、いいかな」

「はい。無理なさらなくて大丈夫ですよ」

「ごめんなさい」

「謝らなくてよろしいのです」


 ミレアが食器を片付ける。

 

「少し眠れそうですか?」

「うん……」


 枕に身体を預ける。目を閉じると、すぐに眠気がやってきた。


「ミレア」

「はい」

「お母様が帰ってきたら……起こしてね」

「もちろんです」

「ありがとう」


 そのまま、私は眠りに落ちた。


 


 

 ぼんやりする。

 目を開けると、真っ白な天井が見えた。

 

「……?」


 ここはどこだろう……すぐに胸の奥がざわついた。知らないはずなのに、どうしてか知っているような気がする。ここに来たことがあるような気がするのに、いつ来たのかは思い出せない。鼻に残る、消毒液の匂い。遠くから聞こえる機械の音。白いシーツ。


「……いや」


 怖い。ここにいたくない。けれど、身体が動かない。

起き上がりたいのに。外へ行きたいのに。誰かと遊びたいのに。何度呼んでも、声が届かない。


「おうち……帰りたい」


 そう思ったら、お母さんの顔が見たくなった。お母さんはどこにいるんだろう。ここにいないのかな。私がここにいることを知っているのかな。


「お母さん、どこ……?」


 呼んでも誰も来てくれない。どうして来てくれないの。私、ちゃんとここにいるよ。ここにいるから、早く見つけてほしい。

 

「いや……」


 場面が変わる。窓の外に友達と笑いながら歩いていく子供たちの姿。私は、それを眺めていた。


「……私も、行きたい」

 

 歩きたいのに身体が動かなくて、起き上がりたいのに力が入らなくて、どうして動かないのかも分からなくて、どんどん怖くなってくる。


「なんで……?」


 いつもなら歩けるのに。外にも行けるし、走ることだってできるのに。どうして今日はできないの?


 また場面が変わる。長い廊下、点滴スタンドを押しながら歩く。何度も繰り返される検査。いつ終わるのか分からない毎日。


「もう、いや……」


 胸が苦しい。たすけて、ここから出たい。なのに、どこへ行っても白い部屋に戻ってくる。今日帰れる?明日なら帰れる?明日になったら、お母さんが迎えに来てくれる?


「いや……」


 夢の中で、私は何度も首を振った。

そして。今度は、何も見えなくなった。ただ、ひどく怖かった。ずっと、ここから出られないような気がした。


「いや……!」




 

 ベッドの上で、ローゼの身体がびくりと揺れた。


「……っ」


 ミレアが振り返る。


「ローゼ様?」


 先ほどまで穏やかに眠っていたはずのローゼが、苦しそうに眉を寄せている。頬にはうっすらと赤みが浮かび、閉じた瞼が小さく震えていた。


「いや……」


 かすかな声。寝言だろうか。

そう思ったミレアだったが、次の瞬間、ローゼの小さな手がシーツをぎゅっと握りしめ


「いや……ここ、やだ……」

「ローゼ様?」


 ミレアは慌ててベッドのそばへ戻ると、ローゼの肩へそっと手を添えた。

 

「ローゼ様、どうなさいました?」


 けれど、返事はない。

ローゼは目を覚まさないまま、苦しそうに身体を丸める。

 

「おうち……帰りたい……」

「……!」


 ミレアの顔が強張る。

眠っているのに、まるで何かに怯えている。額には先ほどまでなかった汗が浮かび、呼吸も少しずつ速くなっていた。


「ローゼ様、起きてください」


 身体を揺すっても、反応がない。

 

「ローゼ様。聞こえますか?」


 それでも反応はない。

ローゼの指がシーツを握ったまま、小さく震えている。


「こわい……」


 その声を聞いて、ミレアは胸が締めつけられるような思いがした。


「もう、やだ……」


 ミレアは慌ててローゼの手を握った。


「大丈夫ですよ。ここはお屋敷です。ローゼ様のお部屋ですよ」


 けれど、その声は届かない。

ローゼは夢の中で、まだ白い部屋にいた。

 

「ローゼ様……」


 ミレアはどうしていいのか分からず、ローゼの手を握ったまま何度も名前を呼んだ。


「大丈夫ですよ」

「怖くありませんから」


 何度も声をかける。

けれど、ローゼの呼吸はなかなか落ち着かない。何度も苦しそうに寝返りを打ち、シーツを握り直す。


「……お母さん……」


 小さな声が漏れる。


「お母さん、どこ……」

「ここにいますよ。大丈夫です」


 それでも、ローゼの目は開かない。

夢の中では、まだ何かを探しているようだった。しばらくして、ローゼの身体がまた大きく震える。


「……死にたくない……」

「……!」


 その言葉に、ミレアは息を呑んだ。


「……ローゼ様?」


 けれど、ローゼは答えない。

閉じた瞼の端から、涙が一筋こぼれ落ちる。ミレアは急いでその涙を指先で拭った。


 


 

 ――知ってる。

この場所を、私は知っている。


「……ここ……」


 嫌で仕方がない。この匂いも、この白い天井も、このベッドも、ずっと前から知っている。


「……病院……?」


 その言葉が浮かんだ瞬間、頭の中にいくつもの記憶が流れ込んできた。白いベッドの上に横たわり、窓の外を眺めながら、今日は外へ出られるかなと考えていたこと。普通に歩いて、普通に笑って、普通に毎日を過ごしたかったこと。


 そして、それがずっと叶わなかったこと。


「……私……」


 思い出した。私は、ここでずっと病気と一緒に生きていた。何度も入院して、何度も検査を受けて、良くなってほしいと思って、それでもなかなか良くならなくて、それでもいつか元気になれると思っていた。


 ベッドの上でできることなんて、たくさんはなかった。外には行けないし友達とも遊べない。学校の話を聞くのも辛い日があった。


 そんな私が、時間を忘れて夢中になれたのが――『恋と魔法のエトワール』だった。

 

 今日はどこまで進めよう。今日はリオヴァルト様とどんな話ができるかな。次はどんなイベントが起きるのかな。そんなことを考えている間だけは、病院にいることを忘れられた。辛い日もあった。何もしたくない日もあった。泣きたくなる日もあった。それでも、ゲームを開けば、いつもの世界が待っていた。


「……楽しかった」


 病院で過ごす毎日の中で、それだけは本当に楽しみだった。

 

「そうだった私、前は……」


 言葉が続かない。その先にある記憶が、怖かった。ずっと思い出せなかった最後の日のことだけは、どうしても見たくなかった。けれど、夢の中では逃げられない。


「……あ」


 ローゼは夢の中で、小さく息を呑む。私は、帰れなかった。病院からも。あの毎日からも。


 そして――。


「……私、死んだんだ」


 その事実だけが、はっきりと分かった。


「……いや」


 怖い。嫌だ。そんなこと、思い出したくなかった。今の私は違う。優しいお母様も、賢いお父様もいる。私は走れるし、外へだって行ける。友達と遊べる。


 なのに、どうしてこんな記憶を思い出すの?


「死にたくない……」


 夢の中で、ローゼは必死に手を伸ばす。

今度こそ誰かに届いてほしくて、今度こそここから連れ出してほしくて、何度も何度も手を伸ばす。


「ローゼ様!」


 ミレアが慌てて身体を支える。

それでも目は開かない。悪夢は終わらず、何度も白い天井が現れる。何度も、あの匂いがする。何度も、あの頃の恐怖が蘇る。


 そして、そのたびにローゼは小さな声で「いや」と繰り返した。どれくらい経ったのか分からない。やがて扉が開いた


「ローゼの様子はどうかしら」


 扉の向こうから、お母様の声がした。


「……!」


 ミレアが振り返る。

扉が開き、マリシェラ(おかあさま)が部屋へ入ってきた。帰ってきたばかりなのだろう。けれど、ベッドの上で苦しそうに魘されているローゼを見た瞬間、その表情が変わった。


「どうしたの!?」

「お帰りなさいませ、奥様」


 ミレアが立ち上がる。


「先ほどから急にこのような状態に……」


 マリシェラはローゼの顔を覗き込む。

汗で髪が額に張りつき、頬には涙の跡が残っている。

 

「医師は?」

「すでに診ていただきました。ですが、身体には目立った異常がないと」


 マリシェラはベッドの端に腰を下ろし、娘の小さな手を握った。


「ローゼ。お母様よ」

「……」

「分かる?ここにいるわ」


 返事はない。

ローゼはまだ眠ったまま、苦しそうに眉を寄せている。


「……いや……」

「大丈夫よ」

「……病院、いや……」


 マリシェラの手が止まった。

隣にいたミレアも、不思議そうにローゼを見る。


「何か夢を見ているのでしょうか……」

「……そうね」


 マリシェラはそう答えながらも、不安を拭えなかった。

ローゼがこんなふうに怯える姿を見るのは初めてだった。

 

「大丈夫。ここはあなたのお部屋よ」


 何度もそう言い聞かせる。


「お母様もいるわ」

「……」

「大丈夫だからね」


 ミレアも反対側からローゼの手を握り、二人でそばに寄り添った。

 

 しばらくして、ようやくローゼの呼吸が少しずつ落ち着いていった。強く握られていたシーツから、小さな手の力も抜けていった。


 そして、ようやくローゼの瞼がゆっくりと動く。


「……ん……」

「ローゼ?」


 マリシェラがすぐに声をかける。

ローゼはゆっくり目を開けた。ぼんやりと天井を見つめて、それから隣にいるマリシェラへ視線を向ける。


「……お母様?」

「ええ。ここにいるわ」


 マリシェラは安心させるように微笑んだ。


「ずっとそばにいたのよ」


 ローゼはしばらく何も言わなかった。

それから、自分の頬に触れる。指先が濡れた。


「……?」


 どうして泣いているのか、自分でも分からない。

 

「……怖い夢を、見ました」


 ローゼは涙で濡れた頬を拭う。

マリシェラはそれ以上聞かなかった。ただ、ローゼの身体をそっと抱き寄せる。


「もう大丈夫よ」

「……はい」

「今日はずっとそばにいるから」

「……本当?」

「ええ。本当よ」


 私は小さな手で、お母様の服をぎゅっと握った。温かい。ここは病院じゃない。私はロゼリシア・エルフィーナだ。


 そう思っても、夢の中で思い出した怖さは、胸の奥に残ったままだった。でも、お母様の胸の中が心地よくて、そのまま眠りについた。


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