第17話『束の間』
いつの間にか寝てしまっていたらしい。耳を澄ましても、もう雷の音は聞こえない。嵐は通り過ぎていたようだ。今は荷馬車が地面を踏みしめる音だけが、一定の間隔で響いている。
木箱の中は相変わらず真っ暗で、自分が目を開けているのか閉じているのかさえ分からない。この空間にいると、どうしても雷雨を思い出してしまう。息がしづらい。そう思った途端、胸が急に苦しくなった。
「……っ」
ちゃんと息をしているはずなのに、胸の奥まで空気が届かないような気がする。
「……やだ……」
声が震える。暗闇が怖い。何も見えないことが怖い。せっかく忘れていたはずの感情が、堰を切ったように溢れ出した。
——私は誰にも愛されない。
どうして今、そんなことを思ったのか分からない。ずっと考えないようにしていたはずなのに、一度浮かんでしまった言葉は消えてくれなかった。
「っ、は……っ」
苦しい。落ち着かなきゃ。
そう思うのに、身体は言うことを聞いてくれない。
焦る度に呼吸は浅く途切れていく。胸が締めつけられて、指先がぴりぴりする。怖い。このまま、この暗闇から出られなかったら。リオに、もう会えなかったら。
そう思った瞬間だった。
遠くから、馬の蹄の音が聞こえた。その音に重なるように、荷馬車に乗っていた男たちが騒ぎ始める。
「追いつかれるぞ!」
「急げ!」
胸が大きく跳ねた。
まさか。そんなはずはない。そう思ったのに、耳を澄ますことをやめられなかった。蹄の音が近づいてくる。少しずつ、確かに近づいてくる。その音を聞いているだけで、胸の奥に小さな光が差し込んでくるようだった。
馬車が大きく揺れる。外で何かがぶつかったような音がして、続いて馬の嘶きが響いた。
怖い。何が起きているのか分からない。
けれど、それ以上に、胸の奥で別の感情が膨らんでいく。
——もしかして。
そんな期待をしてしまう。違ったらどうしよう。また、勝手に期待してしまっただけだったら。来てほしいと思っているから、聞こえないはずの声まで聞こえてしまっただけだったら。
そのとき。
「ローゼ!」
雨音の向こうから、声が聞こえた。
聞き間違えるはずがない。何度も聞いてきた、ずっと、会いたかった人の声。
「……リオ……?」
呟いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
目の奥が滲む。もう来ないと思おうとした。私のことなんて、諦めてしまったのだと思おうとした。来てほしいと願うことすら怖くて、何度も気持ちを押し殺した。それなのに、心の奥ではずっと待っていた。
「ローゼ!そこにいるのか!」
今度は、すぐ近くで聞こえた。
胸の奥がいっぱいになる。さっきまであれほど苦しかったのに、今度は別の意味で息ができない。涙が次から次へと溢れてくる。
「……いる……!」
必死に声を出す。
けれど、喉が震えて上手く声にならない。届かなかったらどうしよう。ここにいるのに、また見つけてもらえなかったら。そんな不安に背中を押されるように、ゆっくり深呼吸してからもう一度呼ぶ。
「リオ……!」
今度は、ちゃんと届いた。
「ローゼ、そこで待ってて」
その声を聞いて、初めて本当に来てくれたのだと実感した。
直後、荷馬車に乗ってた数人が飛び降りたような衝撃がした。
「ッチ…予定より早いがあれを使うしかねぇな」
「準備しろ。もうすぐ乗ってくるぞ」
「分かってる」
続けて低い詠唱が聞こえた。
「……何をするつもりなの?」
嫌な予感がした。
けれど、答えを聞くより先に、突然、荷馬車が止まった。
「追手がすぐそこだ!応戦しろ!」
「いくぞ、お前ら!」
複数人の声と足音が通り過ぎていった。
直後、木箱のすぐそばで激しい音が響いた。誰かが地面に叩きつけられたような音。続いて、短い呻き声。
「——殿下!」
遠くから騎士の声が響いた。
「やっと追いついたか」
「殿下が早すぎるんです!」
「俺はローゼのところに行くから、こいつら頼む」
「御意」
遠くから数人の騎士が駆けつけたようだった。
そして、一つの足音だけがこちらへ近づいてきた。
「ローゼ?どこだ?」
「リオ…!」
「ここか。開けるから、もうちょっと待ってて」
がさごそと音が聞こえたあと、蓋が開けられた。
差し込んだ月光の向こうに、雨に濡れた銀白の髪が見えた。
「ローゼ!よかった…」
震えるその声を聞いた瞬間、また涙が溢れた。
「リオ……」
それ以上、言葉にならなかった。会いたかった。ずっと、会いたかった。
リオは慣れた手つきで私を縛っていた紐を解いてくれた。差し出された手を掴み、体を起こす。その手が触れた瞬間、ようやく分かった。
もう、暗闇の中に一人じゃない。
そのときだった。
「……っ」
瞬く間に視界が白く染まっていく。
「ローゼ、動くな!」
「なに……これ……?」
白い霧が、荷馬車の周囲から一気に広がっていく。
目の前にいたリオの姿さえ、ぼんやりとしか見えなくなる。
「リオ?」
返事がない。代わりに、荒い息遣いが聞こえた。
「……っ、なんだ……これ」
リオの声が震える。
次の瞬間、周囲の空気が変わった。身体から溢れ出す魔力が、目に見えるほど濃くなっていく。
「効いてる……」
霧の向こうから、男の声がした。
「さすが第二王子だな。元々あれだけ魔力を持ってりゃ、増幅させればどうなるかと思ったが……」
「もう少し増やせ。まだ倒れねぇぞ」
「分かってる」
ローゼの胸が凍りついた。
「……増幅?」
男は笑った。
「そうだ。そいつの魔力を、無理やり引き上げる霧だ」
リオの顔が苦しげに歪む。普段なら制御できているはずの力が、まるで身体の内側から押し広げるように膨れ続けている。
「ローゼ…下がって」
「でも……!」
「俺から離れて」
その言葉に胸が締めつけられた。
「嫌……」
気づけば、そう答えていた。
「ローゼ」
「せっかく会えたのに……また、離れるなんて嫌」
リオの目がわずかに見開かれる。
「……俺だって、離れたくないよ」
か細い声でリオは呟いた。
「でも、ローゼをここに置いておけない。迂回して騎士と合流するんだ」
「リオは?」
「俺は——」
その瞬間、霧の向こうから男が飛び出してきた。
「きゃっ……」
リオが咄嗟に私を抱き寄せるようにして庇う。
鋭い音が響き、男が後ろへ弾き飛ばされた。
「……ローゼに近づくな」
低い声だった。
いつ倒れてもおかしくないくらいふらついた体で、私を守ろうとしている。
「ローゼ、逃げて」
「でも…!」
「俺を信じて!」
「……っ」
「絶対に、ローゼのところへ戻る」
リオの手が離れる。
「……待ってるから。絶対に帰ってきて」
リオは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく「ああ」と返事をした。
「ローゼを置いて、どこにも行かないよ」
その言葉だけを残して、リオは霧の向こうへ駆けていった。
——神様、お願いです。どうか、私にもリオを守らせて。
そう強く願った瞬間、眠っていた何かが、胸の奥で静かに目を覚ました。




