第16話『雨に消えて』
どれくらい時間が経ったのか、もう分からない。
薄暗い部屋の中で、ローゼは壁に背を預けたまま、じっと扉の向こうの気配を探っていた。
突然、隣の部屋で鍵が外れる音がした。
「ミレア?」
続いて、何かが倒れるような音と、聞き慣れた声が響いた。
「やめてください!ローゼお嬢様に何かするつもりなら——」
「ミレア!」
ローゼは思わず立ち上がり、扉へ駆け寄った。
「ミレア! ミレア、大丈夫なの!?」
何度呼んでも返事はない。
代わりに聞こえたのは、何か重いものを引きずるような音だった。
「……ミレア?」
耳を澄ます。
ずる、ずる、と床を擦る音が遠ざかっていく。ローゼは扉に手を当てたまま、唇を噛んだ。
私の命は、とりあえず保証されている。でも、ミレアは違う。私の侍女だっただけで。私のせいで、ミレアまで巻き込まれてしまった。
何もできない自分が悔しくて、胸の奥が痛んだ。それでも、今は泣いている場合じゃない。泣いてもミレアを助けられるわけじゃないのだから。
しばらくすると、外から複数の足音が近づいてきた。
ローゼは反射的に身体を起こした。
「立て」
入ってきた男が短く言い、壁と手首を繋いでいた紐を解いた。
「ミレアはどうしたの?」
「さあな」
「……っ」
「お前次第だ」
その言葉に、ローゼはほんの少しだけ息を吐いた。
お前次第。つまり、まだミレアは殺されていない。今は、それだけで十分だった。
「……どこへ行くの?」
「移動する」
「どうして?」
問い返すと、男は一瞬だけローゼを見たが、それ以上は何も答えなかった。
逃げるため?それとも、ここが見つかる可能性が高くなったから?でも、それならどうして今なのだろう。もう捜索が始まっているはずだ。ここから別の場所へ移動するなら、途中で見つかる危険もある。犯人たちだって、それくらい分かっているはず。
それでも移動する。
つまり———ここに留まっているよりも、移動するほうが都合がいい何かがある。
ここがどこなのか、結局まだ分からない。せめて場所だけでも分かったら違ったかもしれないのに。そう思いながら歩き出したとき、ローゼはふと自分のドレスへ目を落とした。
裾についていた小さな飾りを一つ、指先で外す。そして、男たちに気づかれないよう、扉の影へそっと落とした。
———誰かが見つけてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、ローゼは廊下を歩いた。
「止まれ」
急に立ち止まった男は、仲間から紐を受け取り、ローゼの頭に巻いた。視界が奪われた瞬間、胸の奥がざわついた。
けれど、音に気をかける。足音。床の感触。扉を開ける音。階段を下りる回数。曲がった方向。誰かが小声で交わす会話。
ひとつでも覚えておけば、いつか役に立つかもしれない。
誰かが後ろで小さく話している。
「……本当に予定通りでいいんだな?」
「問題ない」
「だが、追手が——」
「————————!」
その後の言葉は聞こえなかった。ローゼの足が、一瞬だけ止まりそうになった。
「歩け」
「……っ」
背中を押され、仕方なく足を進める。
突然、足元の感触が変わった。ひんやりしていた部屋の中とは違い、湿った風が頬を撫でる。
外へ出た。このまま誰も見つけてくれない遠い土地に運ばれたらどうしよう。ローゼは唇をきゅっと結んだ。
「これに入れ」
これに入れと言われても、前が見えないのにどうやって何に入るの…そんなことを考える間もなく、身体を押される。
「いたっ……。」
手をついた場所は、硬くざらついた木だった。
身体を起こそうとしたが、狭い。ローゼ一人が、どうにか膝を抱えて座れる程度の大きさしかない。
「暴れたらあの侍女の命はないと思え」
ローゼは息を呑んだ。ミレアの身を案じると抵抗もできず、ローゼは小さく縮こまることしか出来なかった。
蓋が閉じられた直後、箱が持ち上げられた。身体が大きく揺れて、木の板に肩がぶつかった。外から聞こえる足音は少なく、誰かが何かを話している声も次第に遠ざかっていく。
少し歩くと、足音が止まった。
「乗せろ」
箱が何かに置かれた。
人の気配が少なくなった時、蓋を持ち上げようとしてみたが、重石を置かれているのかビクともしなかった。辛うじて酸素を取り込むだけの穴は空いているらしく、涼しい風が入ってくる。
しばらく耳を澄ませていると、また人がやってきた。
「出せ」
さっきと同じ男の声が聞こえた。
箱の中で身体が揺れる。ガタン、と大きく揺れた拍子に、頭を木にぶつけた。
「……っ」
痛みに顔をしかめる。
けれど、声は上げなかった。
少しして、規則的な揺れが始まった。馬の蹄に車輪の音。
ローゼはようやく理解した。
「……荷馬車」
人を乗せていると分かれば、検問で止められる可能性がある。だから荷馬車として通る気なんだ。
馬車が走り出してから、しばらく経った頃。
最初は規則的だった揺れが、次第に大きくなっていく。車輪が石を踏むたびに身体が跳ね、狭い箱の中では身動きすら取りにくい。
それでもローゼは、耳を澄ませていた。何か一つでも覚えておけば、あとで役に立つかもしれない。
そう思っていた、そのときだった。
——ゴロ……ゴロゴロゴロ……。
「……雷?」
遠くで低い音が響いた。
最初は気のせいかと思った。もしかして、誰かの魔法かも。なんて考えたしもした。けれど、しばらくすると雨粒が箱の上を叩き始めた。ぽつ、ぽつ、と小さかった音は次第に強くなり、やがて激しい雨音へと変わっていく。
——ピシャッッ
「……っ」
一瞬、箱の隙間から白い光が差し込んだその直後。近くで雷が鳴った。身体の奥まで響くような轟音に、ローゼはびくりと身体を震わせた。
暗くて狭い。縄を解いて耳を塞ごうとしても、身体を丸めるだけで精一杯の箱の中では、それすら難しい。
もう一度、雷鳴が響いた。箱全体が震えたような気がして、ローゼは思わず身体を縮める。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いた。
「大丈夫だから……」
けれど、声は思っていたより小さく震えていた。
雨はますます強くなっている。それでも馬車は止まらない。こんな天気なら、普通はどこかで雨を避けるはずなのに。
——どうして?何をそんなに急いでいるの?
ローゼは息を潜めた。
しばらくすると、前のほうから男たちの声が聞こえた。
「この雨じゃ、追手も足を取られるだろうな」
「むしろ都合がいい」
「……ああ」
雷鳴に混じって、男たちの笑い声が聞こえた。
ローゼの胸がざわつく。追手。やっぱり、リオたちはもう動いているのだろうか。今も、私を探して——
——ゴロォンッ!
「……っ」
また雷が鳴った。暗闇の中で、雷の音だけが何度も響く。
箱の中は雨の冷気でどんどん冷えていく。身体を縮めても、震えはなかなか止まらない。
早く出たい。誰かに来てほしい。
そう思った瞬間、真っ先に浮かんだのはリオだった。
こんなところから連れ出してほしい。大丈夫だと言ってほしい。いつものように、何でもない顔で「もう大丈夫だから」と言ってほしい。
でも、犯人たちの狙いはリオかもしれない。リオに何かあったら、ヒロインはどうなってしまうの。全部私のせい。だから、私が犠牲になって解決できるならそうする。そう思わなければいけない。私に助けを乞う資格なんて無いもの
でも、もうひとりで死ぬのはいやだよ
————————————
「もう……やだ……」
何度目か分からない雷鳴に、とうとう堪えていたものが切れた。涙が頬を伝っていく。
さっきまでなら耐えられたはずなのに、雷が鳴るたびに、心の中にある何かまで少しずつ壊されていくようだった。
「……っ、ぅ……」
また身体が震える。
ローゼは膝を抱え直し、できるだけ小さく身体を丸めた。
こわいよ。くるしい。さみしい。つらい。なんでたすけにきてくれないの。
——もしかしたら、見つからないから諦めたのかもしれない。
王子であるリオには、やらなければならないことがたくさんある。私一人のために、いつまでも探し続けるわけにはいかない。そう考えるのが普通なのかもしれない。
「……そう、だよね」
口にした途端、胸の奥がずきりと痛んだ。
分かっていた。分かっていたはずなのに。
それでも、ほんの少し前まで「絶対に来てくれる」と思っていた自分が、急に恥ずかしくなった。私は、何を当たり前だと思っていたんだろう。
ローゼは俯いた。
この世界すら、私の夢の中なのかもしれない。そうだ、私なんか誰かに必要とされることも、誰かに必死になって探してもらうこともない。
一度ひびが入ってしまえば、確かなものなど何一つ残っていないように思えた。
「リオ…」
暗闇の向こうには、誰もいない。
ただ雨の音と、遠くで繰り返される雷鳴だけが、いつまでも続いていた。
————————————
ローゼ達がいなくなってからしばらく経った頃。
小屋の周りを沢山の騎士が囲んでいた。
「こんな所に建物があったなんて…」
誰かが呟いた声を聞きながら、俺は馬から飛び降りた。目の前にあるのは、森の奥にひっそりと建つ古びた小屋。外から見ればただの使われていない建物にしか見えない。それでも、胸の奥が嫌なほどざわついていた。
「中を確認する」
返事を待つより先に扉へ向かう。騎士が扉を開けると、湿った空気が流れ出してきた。
——ここだ。
理由なんてない。ただ、そう思った。
足を踏み入れた瞬間、冷たい床に残る足跡や、乱れた椅子が目に入る。誰かがここで長い時間を過ごしていた痕跡がある。机の上には飲みかけの水。壁際には、切れた縄まで落ちていた。
「殿下、こちらに……!」
呼ばれて駆け寄ると、床に小さな飾りが落ちていた。
見覚えがある。指先で拾い上げた瞬間、息が止まった。
「……ローゼ」
間違えるはずがない。この飾りはローゼのお気に入りのドレスについていた。これがここにあるということは、ローゼは確かにこの場所にいた。
見つけた。ようやく、見つけた。ずっと何も掴めなかった。どれだけ探しても、どこへ消えたのかさえ分からなくて、最悪の想像ばかりが頭をよぎっていた。それなのに今、確かにローゼがここにいた証拠が、俺の手の中にある。
胸の奥に張りつめていたものが、一瞬だけほどける。けれど、その直後に気づいてしまった。
「……もう、いないのか」
声にした途端、嫌な予感が現実になったような気がした。 遅かった。あと少し、ほんの少し早ければ。
俺がもっと早く見つけていれば、ここでローゼを連れて帰れたかもしれない。そう思った瞬間、握りしめた飾りが手のひらに食い込んだ。
「……くそっ」
思わず壁を殴る。鈍い音が小屋の中に響いた。
「殿下……」
「探せ。周囲を全部だ。まだ近くにいるかもしれない」
「はっ!」
騎士たちが一斉に動き出す。
ローゼを攫った奴らが許せない。けれど、それ以上に、自分自身が許せない。自分を責める言葉は頭を離れない。でも今はいくら自分を責めたところで、ローゼが戻ってくるわけじゃない。だから、今はただ探すしかない。
これまでの俺は、諦めることに慣れていた。
第二王子として生まれて、自由なんてものはほとんどなかった。何を望むのかより、何を望んではいけないのかを先に教えられた。
期待しなければ、余計なものを失わずに済む。いつの間にか、それが当たり前になっていた。
けれど——
ローゼだけは、諦められない。
今まで何度、自分の望みを手放してきたとしても。これだけは、手放したくない。
ローゼだけは、絶対に。
全然納得いかないのでちょこちょこ修正します……
リオ視点書くのはめっちゃ楽しいです




