第14話『呼び水』
意識が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
最初に感じたのは、頬に触れる冷たい床だった。何かを考えようとしても頭がぼんやりとしていて、上手くまとまらない。私何してたんだっけ……。そう思いながら身体を起こそうとした瞬間、背中側へ回された両手が動かないことに気づいた。
「……え?」
手首に食い込む感触がある。
縛られてる、その事実を理解した途端、それまで霞んでいた記憶が一気に押し寄せてきた。そうだ、私は知らない男たちに襲われてここに連れてこられたんだ。
——あれ、ミレアは?
「……ミレア?」
声が震えた。
「ミレア……?」
もう一度呼んだ、そのときだった。
「……ローゼ様?」
聞き慣れた声が、壁の向こうから返ってきた。
「ミレア!」
ローゼは慌てて声のした方へ身体を向ける。姿は見えないけれど、声が聞こえた。それだけで張り詰めていたものがほんの少しだけ緩んだ。
「ローゼ様、ご無事ですか?」
「うん……。ミレアは?」
「私も大丈夫です」
その言葉を聞いただけで、胸の奥に溜まっていた息がようやく吐き出せた気がした。もしミレアまでいなくなっていたら、自分はどうなっていたのだろう。知らない場所で、知らない人たちに囲まれて、ひとりきりだったら。想像するだけで鳥肌がたった。
「……家、帰りたいなぁ」
ローゼは縛られた手首を見つめた。暖かいご飯を食べたい。ふかふかの布団で眠りたい。お父様に褒めてもらいたい。お母様とお茶したい。フィルを甘やかしてあげたい。特別でもなんでもないと思っていた毎日が、今はひどく遠いものに感じられた。
リオは私がいなくても大丈夫かな
「……リオ」
名前を口にしただけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。どうせ未来では捨てられるけど、今だったら心配してくれるかな。出会った時から私を見つけ出してくれるのはいつだってリオだった。
だから今回だって、きっと助けに来てくれる——と信じたかった。
扉が開き、一人の男が入ってきた。
「起きたか」
低い声に、ローゼは反射的に身を縮め、睨みつける。
「目的はなんなの?」
男は答えず、ローゼをじっと見た。
まるで、何かを確かめるような視線だった。怖くなって、ローゼは少しだけ身を引く。
「……何?」
「別に?」
男はそう言ったあと、ローゼの手元へ視線を落とした。
そして、ぽつりと言う。
「噂通りだな」
「……え?」
「何でもない」
ローゼは眉を寄せた。
何の噂?そう聞こうとしたとき、男は何気ない様子で口を開いた。
「お前は第二王子の婚約者だろう」
「……私が、リオ様の婚約者だから誘拐したの?」
「まあ、それも理由の一つだ」
男の返事は妙に引っかかった。
「……それも?」
「お前に教えることはない」
男はそれ以上話そうとしなかった。
けれど、自分はリオの婚約者だから攫われた。つまり、交渉材料にされているという事だ。ならば簡単に殺されることはないだろう。
命を狙っていたのなら、わざわざ縛って生かしておく必要なんてない。今こうして話をしていること自体、少なくとも今は私を必要としているということなのだろう。
——だったら。
ローゼは男の背中を見つめた。怖がっているだけでは何も変わらない。そう自分に言い聞かせながら、ローゼは小さく息を吸った。少しでも情報を落としてもらおう。
「……じゃあ、私を殺すつもりはないんだ」
男の足が止まった。
「……何?」
「だって、私が死んだら困るんでしょう?」
男はゆっくりと振り返った。ローゼは怖さを隠すように、少しだけ強気に笑ってみせる。本当は心臓が早鐘のように鳴っていた。
「私がリオ様の婚約者だから攫ったんでしょう?だったら交渉材料の私が死んだらまずいわよね」
「……」
「それとも、私が死んでも別に困らないかしら?」
少しだけ挑発するように言う。
男の目が細くなった。その瞬間、ローゼの胸がどくんと鳴った。怒ったのかもしれない。やっぱり言い過ぎたのかもしれない。けれど、ここで目を逸らしてはいけない。そう思って、震えそうになる指をぎゅっと握り込んだ。
「随分と余裕があるな」
「そう見える?」
「少なくとも、聞いていた様子とは違うな」
本当は今すぐ泣きたいくらいだった。それでも、泣いてしまったらこの人たちの思う通りになってしまうような気がして、私は唇をきゅっと結んだ。
「私を攫ったら王家に何されるか分かってるの?」
私がいなくなれば、公爵家だけじゃない。王家だって黙っているはずがない。
「私がいなくなったら、リオ様も黙っておかないわよ」
少しだけ胸を張ってみせる。
これは、半分は強がりだった。でも半分は本当だと思っている。リオはきっと私を探してくれる。どれだけ危険でも、私がここにいると知ったら、きっと来ようとする。
「お前は随分と王子を信用しているんだな」
「当たり前でしょう」
思わず答えてしまった。
すると突然男は笑い始めた。その笑みからは、焦りも警戒も見えなかった。薄暗い部屋の中に響いた低い笑い声が、妙に耳に残る。
「何が面白いの?」
「いや?」
男はそれ以上答えず、私から視線を逸らした。
胸の奥がザワザワするのがわかる。
リオが来れば王家の騎士も動く。私を攫ったことが知られれば、ここだってすぐに探されるかもしれない。それなのに、どうしてそんな顔をするのだろう。
「……リオ様が来たら、困るんじゃないの?」
「どうして?」
「だって……」
言葉が詰まった。
確かにまだリオも子供だと言われれば否定できない。でもその魔法は大人でも簡単に太刀打ちできないほど成長している。攻撃なんかされたら一溜りもない。
男は私の沈黙を見て、ふっと笑った。
「優しいオウジサマだな」
その言葉に、なぜか嫌な感じがした。
「……何が言いたいの?」
「別に」
また、はぐらかされる。
けれど、笑い方が頭から離れなかった。まるで私の言葉を聞いて、何かを確かめたみたいだった。
「王子は来る。危険だろうが何があろうがお前を置いて帰ることなんてできないだろうな」
男は穏やかに笑った。
「———だから、お前が大切にしているオウジサマが危険に飛び込むとしたら、そのきっかけを作ったのは誰なのか。よく考えてみるといい」




