番外編『婚約の前日譚』
王宮の午後。
王妃エルネリアの私室には、柔らかな日差しが差し込んでいた。テーブルの上には、焼き菓子と紅茶。向かいに座っているのは、エルフィーナ公爵夫人——マリシェラだった。
「それで? 最近のローゼちゃんはどう?」
エルネリアが楽しそうに尋ねる。
「そうね……」
マリシェラは少し考えてから、ふっと笑った。
「以前よりずっと、王宮へ来るのを楽しみにするようになったわ」
「まあ!」
「馬車に乗ると、今日はリオヴァルト殿下はいらっしゃるかなって気にしているみたい」
「ふふっ。リオも同じよ」
「やっぱり?」
「ええ。ローゼちゃんが来る日は、朝から機嫌がいいもの」
二人は顔を見合わせて笑った。
「今では、庭へ行くのが二人のお決まりみたいになっているのよね」
「そうね。気に入ってくれて嬉しいわ」
マリシェラは紅茶に口をつける。せっかく大きな庭を作って貰ったものの、王妃という立場上訪れる機会は少なくなってしまった。それが少し申し訳なく思っていたが、二人が頻繁に訪れるようになってからは安心した。
「最初の頃は、あんなに緊張していたのに」
「ローゼちゃんも?」
「ええ。でも、最近は帰ってくると楽しそうに話してくれるの」
「リオも、今日はローゼと何をしたって、夕食の席でずっと話していたわ」
「まあ。そんなに?」
「ええ。途中からアルに『それはもう聞いた』って言われていたくらい」
嬉しそうに笑った。
けれどマリシェラはふと思い出したように話し始めた。
「……ただ、一つだけ気になることがあるの」
「何かしら?」
「エルフィーナ家には、昔から言われていることがあるでしょう?」
エルネリアが首を傾げる。
「王族との婚姻は、避けるように——っていう話?」
「ええ。」
マリシェラは小さく頷いた。
エルフィーナ家に古くから伝わる伝承で、なぜそう言われるようになったのか、正確な理由を知る者はもういない。
ただ、先祖代々、王族との婚姻については慎重になるよう言い聞かされてきた。
「今でも、そういう教えが残っているのね」
「形だけだけれどね。私自身、理由まで聞かされたことはないわ」
「昔のしきたり、ということ?」
「たぶん」
マリシェラは少し困ったように笑う。
「子供の頃から、『王族とは必要以上に深く関わらないように』って聞かされていたくらいだもの」
「それなら、ローゼちゃんのことを考えると気になるわね」
「ええ」
マリシェラは窓の外へ目を向けた。
「私も、リオの将来を考えたら、簡単には決められないわ」
「でしょうね」
「王族の婚約者になれば、ローゼちゃんの人生も大きく変わるもの」
その言葉に、マリシェラが顔を上げた。
「……そうなのよ」
今まで二人が話していたのは、庭で遊ぶ子供たちの姿だった。けれど婚約者という関係になれば、それだけでは済まない。ローゼが大きくなれば、王族の一員として見られるようになる。ただ庭で遊んでいればよかった今とは、何もかもが変わってしまう。
「ローゼはまだ五歳よ」
マリシェラがぽつりと言った。
「本人は、きっとそこまで先のことなんて考えていないでしょうね」
「リオもそうでしょうね」
「だからこそ、大人が勝手に決めてしまうのは違うと思うの」
「私も同じ気持ちよ」
「二人が仲良くしているからといって、それだけで将来まで決めてしまっていいわけではないもの」
その言葉に、マリシェラも静かに頷いた。
その時、扉がノックされた
「失礼いたします」
入ってきたのは、王宮付きの魔導士だった。
「お待たせいたしました」
「ローゼちゃんの検査結果?」
「はい」
魔導士が記録をテーブルへ置く。
「ロゼリシア嬢の魔力については、今日も特に異常はありません。」
それを聞き、マリシェラは安堵の表情を浮かべる。
いつもはそれで帰る魔導士は、今日は続けて話し始めた。
「そして、リオヴァルト殿下についてですが」
魔法師がもう一枚の記録を取り出した。
「殿下は年齢に対して魔力量が非常に多く、成長に伴ってさらに増えていく可能性があります。今後も注意して見ておく必要があると思われます。」
「……そう。そんな気はしていたわ。」
エルネリアが苦笑する。
「最近は魔法の練習をするたびに、前より大きな魔法を使うようになっているもの」
「ただ、少し気になることがあります」
「何かしら?」
「ロゼリシア嬢と一緒にいるときだけ、殿下の魔力の流れが安定する傾向があります」
エルネリアが目を瞬く。
「ローゼちゃんと一緒にいると?」
「はい」
「ローゼのほうは?」
「こちらも、僅かですが魔力が増え安定して循環しています。」
マリシェラは少し驚いた顔をした。
「二人とも、なのね」
「はい。非常に珍しい相性だと思います」
「それは、将来的にも変わらないものなのかしら?」
「そこまでは分かりません。まだ幼いですから」
魔導士は首を横に振った。
「ただ、今の二人にとって互いが良い存在であることは確かでしょう」
「分かりました」
マリシェラが答える。魔導士が一礼して部屋から退室すると、しばらく沈黙が続いた。
「……不思議ね」
エルネリアがぽつりと言う。
「ええ、それならなおさら、簡単には引き離したくないと思ってしまうわ」
マリシェラも頷く。本人達はかなりお互いのことを気に入っているように見える。それを抜きにしても、家柄や年齢を考えて殿下の婚約者筆頭はローゼだった。
けれど、マリシェラの中にはまだ迷いがあった。
エルフィーナ家に伝わる、あの言葉。王族との婚姻は避けるべき。それが単なる古いしきたりなのか、何か理由があったのか。分からないからこそ、簡単には無視は出来なかった。
マリシェラが窓の外を見る。
「ローゼがリオヴァルト殿下と一緒にいるとき、本当に楽しそうなのよね」
「リオもローゼちゃんの為にって色々頑張るようになったのよ」
エルネリアが微笑む。
「まずは二人の気持ちを大切にしましょう」
「……そうね」
その言葉に、マリシェラも小さく笑った。
その日の夕方。
国王レグナート、公爵アドベル、エルネリア、マリシェラが集まり、四人で話し合うことになった。
婚約の話をするために集まったというのに、誰もすぐには口を開かなかった。
「……珍しいな」
レグナートが静かに言った。
「こうして四人揃って、子供たちの将来について話すというのは」
「そうね」
エルネリアが苦笑する。
「でも、リオももう六歳よ。いつまでも子供だからと、大人だけで決めていいことでもないでしょう?」
「その通りだ」
「私も同じ考えです」
穏やかな声だった。
「ローゼは、まだ何も知らないでしょうから」
「ええ」
マリシェラも頷く。
「だからこそ、私たちが慎重にならないと」
「エルフィーナ家の古い言い伝えか」
レグナートが静かに呟く。
「はい」
マリシェラが頷く。
「理由が分からない以上、私としては慎重に考えたいと思っています」
「当然だろう」
レグナートも否定しなかった。
「古い言葉だからというだけで、無視する理由もない」
「ええ」
アドベルも静かに頷いた。
「私も、ローゼのことを考えるなら慎重であるべきだと思っています」
穏やかな声だった。
「ただ……」
アドベルは少しだけ笑う。
「ローゼが王宮から帰ってきた日の顔を見ると、あまり心配しすぎる必要もないのかもしれない、とも思うんです」
「ローゼちゃん、そんなに嬉しそうなの?」
エルネリアが尋ねる。
「ええ。最近は特に」
アドベルは娘の様子を思い出すように目を細めた。
「今日は綺麗な花を見ただとか、お魚を見たとか……」
そこで、少し苦笑する。
「話を聞いていると、殿下と過ごした話ばかりです」
「ふふっ」
エルネリアが笑う。
アドベルもつられるように笑った。
「それなら、二人は本当に仲がいいんですね」
「ええ」
けれど、アドベルはすぐに真面目な表情へ戻る。
「だからこそ、ローゼの気持ちは無視したくありません」
「私もそう思うわ」
マリシェラが頷く。
「家同士の都合だけで決めることではないもの」
「そうだな」
レグナートが答える。
「二人ともまだ幼い。今すぐに将来を縛る必要はない」
「ですが」
エルネリアが口を開く。
「もし二人自身が望むのなら?」
レグナートは少し考えた。
「……そのときは、反対する理由はないだろう」
アドベルは静かに息を吐いた。
「父親としては、少し複雑ですね」
「まあ」
マリシェラが笑う。
「あなた、今からそんなことを言っていたら、十年後には大変よ?」
「十年後?」
「ローゼが大きくなったら、もっと色々な男の子と出会うでしょう?」
「……」
アドベルの表情が固まった。
「それは困りますね」
「ふふっ」
エルネリアとマリシェラが笑う。
レグナートまで、わずかに口元を緩めた。
「気が早いな、公爵」
「娘のことですから」
アドベルは真顔で答えた。
けれど、すぐに穏やかな表情へ戻る。
「冗談はさておき……」
アドベルは三人を見る。
「ローゼがリオヴァルト殿下と一緒にいることで笑顔になるのなら、私はその時間を奪いたくはありません」
娘のことを思い浮かべる。
「ただ、あの子が本当に嫌がることだけは、させたくありません」
「もちろんよ」
エルネリアが頷いた。
「それなら、あとは二人の気持ちね」
「ええ」
マリシェラも頷いた。ひとまずそこで話はまとまり、その後は別の公務について話し合ってから、それぞれの仕事へ戻っていった。
その日の夜
「母上」
「どうしたの、リオ?」
寝る前のリオが、エルネリアのもとへやってきた。
「ローゼのことなんだけど」
「ローゼちゃん?」
「うん」
リオは少しだけ緊張したように、母親を見る。
「今日、ローゼと婚約するって話をしてた?」
「まあ、聞いていたの?」
「少しだけ」
エルネリアは息子の顔を見る。
「……どう思った?」
すると、リオは迷わず答えた。
「僕、ローゼがいい」
「……」
「ローゼがいい」
もう一度、はっきりと言う。
「どうして?」
「ローゼと一緒にいるのが好きだから」
リオは少し考えてから続けた。
「庭で遊ぶのも楽しいし、話すのも楽しい」
そして、小さく笑った。
「ローゼが笑ってると、僕も嬉しい」
エルネリアは何も言わず、息子を見つめる。
「だから、ローゼがいい」
「……大きくなってもかわらない?」
「うん」
リオは頷いた。
「大きくなっても、ローゼと一緒がいい」
エルネリアは少しだけ表情を柔らかくする。
「もし、ローゼちゃんが嫌だと言ったら?」
その問いに、リオは少し黙り、やがて静かに答える。
「そのときは、ローゼの好きにする」
「そう」
「でも……」
リオは母親をまっすぐ見た。
「僕は、ローゼに選んで貰えるように頑張りたい」
エルネリアは優しく微笑んだ。
「分かったわ」
「本当?」
「ええ。ただし、ローゼちゃんの気持ち次第よ」
「うん!」
リオは嬉しそうに笑った。
こうして、大人たちの間で話されていた婚約の話は、少しずつ形になっていった。
古い言い伝えがあるからこそ、慎重に。
二人の相性や、それぞれの家の事情も踏まえながら、未来を考えて。
そして何より「ローゼがいい」と、自分自身の意思で望んだのはリオだった。ただの家同士の取り決めではない。少なくとも、リオにとっては。
まだ幼い二人は知らない。エルフィーナ家がなぜ王族との婚姻を避けてきたのか。その理由が、遥か昔に交わされた一つの約束へと繋がっていることを———




