第六章:鏡像の審判 ―宿命の血脈―
1
霧が、すべてを塗りつぶしていた。
房総の山奥、湿った土と腐った落葉の匂いが立ち込める療養施設の駐車場。紗季の手の中で、一枚の古い写真が震えていた。
セピア色に変色し始めたその写真には、若き日の母・佳代子が、今の自分と同じくらいの年齢で微笑んでいる。その隣で、自信に満ちた傲慢な笑みを浮かべているのが、明和商事の長谷川常務。
二人の背景には、十五年前に消滅したはずのあの「Project S」の完成予想図が掲げられていた。
「どういう……ことなの」
紗季の声は、霧に吸い込まれて力なく響いた。
「お母さんと長谷川が、どうして……。私は、お父さんは死んだって聞いていたわ」
ボンネットに腰掛けた「タクシーの男」が、ゆっくりと煙草を地面で揉み消した。
「死んだ父親の顔を見たことはあるかい? 遺品は? 写真は?」
「それは……お母さんが、悲しすぎるからって、全部捨てたって」
「捨てたんじゃない。最初から存在しなかったんだよ」
男は冷酷な真実を、事務的な報告書を読むような口調で告げた。
「長谷川は、野心のために今の地位を築いた男だ。だが、その裏で彼は、自分の『汚点』を清算し続けてきた。……君という存在は、彼が若き日に犯した、唯一の計算違いだったのさ」
背後で、航平が低く呻いた。
「……長谷川の娘。それが、紗季の本当の正体か」
紗季は、自分の体の中を流れる血が、一瞬で汚泥に変わったような嫌悪感に襲われた。
十五年前。美咲が殺されたあの夜。
佐久間が自分を見逃した理由。
長谷川が自分を明和商事に入社させた理由。
それは、親心などという生易しいものではない。自分の手元に置き、いつでも処刑できる「人質」として管理するためだったのだ。
「お母さんは、どこ?」
紗季は写真を握りつぶし、タクシーの男を睨み据えた。
「あの中にいる。だが、君の知っている母親じゃないかもしれない」
男は、施設の重い鉄の扉を指差した。
霧の向こうから、複数の足音が近づいてくる。長谷川の私兵たちが、包囲網を縮めていた。
「行け。……俺がここで、時間を稼いでやる」
男が、コートの内側から一丁の拳銃を取り出した。
「なぜ……私を助けるの。あなたは何者なの?」
「俺は『受取人』だ。……だが、不完全な品物を届けるのは、俺の美学に反するんでね」
2
紗季と航平は、施設の裏口から内部へと滑り込んだ。
薄暗い廊下には、消毒液の匂いと、老いた者たちの溜息のような沈黙が満ちていた。
看護師の姿はない。あるのは、各所に設置された監視カメラの赤いレンズだけだった。
最上階の特別病室。
そこは、療養施設というよりは、窓のない独房に近い作りだった。
重い扉を押し開けると、そこには、車椅子に座って窓の外の霧を見つめる一人の女性がいた。
「……お母さん」
紗季の声に、女性がゆっくりと振り返った。
間宮佳代子。かつて美しかった母の面影は、不自然なほどの静寂の中に埋もれていた。彼女の目は、娘を見ているようで、その実、はるか遠くの「十五年前」を見つめているようだった。
「紗季……。遅かったわね。……あの方が、もうすぐいらっしゃるわ」
「あの方って、長谷川のこと? お母さん、私、全部知ったわ。どうして今まで黙っていたの。どうして、私に嘘をつき続けたの!」
佳代子は、力なく笑った。
「守りたかったのよ、あなたを。……あの方の影から。でも、あなたは、あの夜にそれを見てしまった。美咲さんが殺されるのを。……いえ、美咲さんが、あの方に何をしようとしていたのかを」
佳代子が震える手で、自分の膝に置かれた毛布の下から、一冊の古い日記帳を取り出した。
「美咲さんは、あなたを通して、あの方を脅そうとしていた。……彼女は、自分が死ぬことを分かって、あなたを『証拠』にしたのよ。……紗季。あなたが美咲さんから奪ったのは、スマホだけじゃない。……あなたの記憶そのものが、あの方を破滅させる最後の鍵なの」
その時。
廊下に、重厚な革靴の音が響き渡った。
監視カメラが、一斉に首を振る。
扉が開き、仕立ての良いスーツを纏った長谷川が、数人の護衛を連れて現れた。
「感動の再会を邪魔してすまないね」
長谷川の声は、冷たく、心地よいほどに響いた。
「佳代子。君の役割は終わりだ。……そして、紗季。君の『金庫』としての役割も、今日で閉じることになる」
長谷川が歩み寄り、紗季の頬を撫でようとした。
紗季は、その手を力強く振り払った。
「触らないで。……お父さんと呼ぶつもりなんて、欠片もないわ」
「それでいい。……私は、自分の過ちを認めるのが嫌いでね。……君という存在を消すことが、私の人生における最後の『清算』だ」
3
長谷川が指を鳴らすと、護衛の一人が航平を床に押し倒し、銃口を突きつけた。
「航平くん、君の裏切りも、この物語のスパイスとしては最高だったよ。……さて、紗季。そのスマホと、お母さんの持っている日記帳を渡しなさい。そうすれば、二人とも楽に逝かせてあげよう」
紗季は、自分の手にある「裁断機のレバー」を見つめた。
そして、傍らにある母の震える手を見た。
(私は、ずっと守られてきた。美咲に。トミさんに。そして、嘘をつき続けてまで私を匿ってきた、この弱い母親に)
三十六歳。
もう、誰かに守られる年齢ではない。
彼女は、深く、静かに息を吸った。
恐怖は消えていなかったが、その底には、冷徹なまでの怒りが結晶となっていた。
「……長谷川さん。あなたは、一つだけ計算違いをしているわ」
「ほう?」
「あなたは、私がデータを破壊したと言った。……でも、私は破壊したんじゃない。……物理的なサーバーの破壊と同時に、会社の全システムを介して、あなたへの『ライブ配信』を開始するように設定してきたのよ」
長谷川の顔から、余裕の笑みが消えた。
「……何を言っている」
「門脇トミさんが、私のために道を空けてくれた。……彼女が破壊したのはメインサーバーじゃない。……広報部が記念式典のために用意していた、世界同時中継の回線よ。……今、この部屋の光景は、音声を含めて、ネットを通じて世界中に垂れ流されているわ。……あなたが自分の娘を殺そうとしている、この瞬間が」
紗季は、自分の胸元を指差した。
そこには、トミから託された、清掃員用の「超小型ワイヤレスマイク」が仕込まれていた。
そして、美咲のスマホ。液晶は割れているが、レンズは生きていた。
「……私のスマホのパスコードは、美咲が死んだ日じゃない。……美咲が、あなたと初めて会った日の日付よ。……あなたは、彼女を自分の愛人にしようとして、断られたから殺した。……そうでしょ?」
長谷川の顔が、怒怒で赤黒く染まった。
「……この、小娘がぁ!」
彼が銃を抜こうとした瞬間。
施設の窓ガラスが激しく砕け散った。
4
突入してきたのは、警察の特殊部隊(SAT)ではなかった。
それは、明和商事の不正を追っていた、独立系のジャーナリストたちと、タクシーの男が手配した「別の組織」だった。
混乱の中、紗季は母の車椅子を押し、部屋を飛び出した。
背後で銃声が響く。航平が護衛に組み付き、自分たちの逃げ場を作っているのが見えた。
「航平!」
「行け! 紗季! お前は、生きろ!」
それが、航平の最後の叫びだった。
紗季は涙を拭い、霧の深い森へと続く裏口へと急いだ。
足の裏の痛みは、もう感じない。
ただ、背負っている「真実」の重みだけが、彼女を前へと進ませた。
森の入り口で、一台のタクシーが待っていた。
昨夜、彼女をここまで運んできた、あの男だ。
「……終わったのか」
「いいえ。……これからよ。……これを、世界に届けて」
紗季は、スマホと日記帳を男に託した。
自分は、ここへ残る。
母を守り、そして、逃げ続けてきた過去と向き合うために。
「君は、どうするつもりだ」
「私は……あの日、美咲がなりたかったはずの『私』になる。……平凡な会社員じゃなくて、自分の足で立つ、一人の人間に」
タクシーの男は、微かに笑い、アクセルを踏んだ。
霧の中に、テールランプの赤が消えていく。
紗季は、振り返った。
療養施設の向こうから、ようやく本物の警察車両のサイレンが聞こえてくる。
今度のサイレンは、彼女を追い詰めるためのものではない。
悪夢に終止符を打つための、号砲だった。
5
一週間後。
ニュースは、明和商事の長谷川常務の逮捕と、十五年前の事件の再捜査一色に染まっていた。
佐久間も、海外逃亡を図ろうとしたところを拘束された。
紗季は、都内の小さなカフェにいた。
足の傷はまだ完治していないが、彼女は久しぶりに、名前のない封筒ではなく、自分宛ての「手紙」を手にしていた。
差出人は、トミ。
彼女は、あのサーバー室の崩壊から奇跡的に生還し、今は地方の療養所で静かに暮らしているという。
『間宮さん。掃除が終わった後の部屋は、気持ちがいいね。……あんたの人生も、これからが本番だよ』
紗季は、コーヒーを一口飲み、窓の外を見上げた。
空は高く、澄み渡っている。
ふと、隣の席に、一人の男が座った。
黒いコートを脱ぎ、穏やかな表情をしたその男は、メニューも見ずに「ブレンドを」と頼んだ。
「……受取人は、まだ募集中かな?」
タクシーの男の声に、紗季は笑った。
三十六歳。
物語は、ここで終わるのではない。
ここから、彼女の本当の名前を刻むための、新しい一章が始まるのだ。




