最終章・【第一部】:残響の断罪 ― 孤立する真実 ―
1
世界が反転したあの日から、三日が過ぎた。
間宮紗季は、都心の喧騒から切り離された、古びたビジネスホテルの「隠れ家」にいた。そこはタクシーの男――自らを「受取人」と称した、名前も持たぬ男が用意した、この街で唯一、法の手も組織の牙も届かない空白地帯だった。
テレビの画面では、連日「明和商事爆破未遂事件」と「長谷川常務の汚職疑惑」が報じられている。ネット上には、あの療養施設から発信されたライブ映像の断片が溢れていた。しかし、風向きは紗季が思っていたほど、単純な正義の勝利には傾いていなかった。
「……信じられない」
紗季は、ひび割れたスマートフォンの画面をなぞった。
大手メディアや御用学者たちが、あの映像を「精巧なフェイク」あるいは「精神を病んだ元社員による狂言」として検証し始めていた。長谷川は逮捕どころか、警察の「保護」を受け、被害者としての地位を固めつつある。
三十六歳。彼女はこの社会の仕組みを熟知していたはずだった。真実は声の大きい者に塗り替えられ、事実は権力の下に埋没する。
十五年前、友人の美咲が死んだ時と同じだ。
「絶望している暇はない。……受取人さん、これを見て」
紗季は、傍らで窓の外を監視している男に、母・佳代子から託されたあの日記帳を差し出した。
男は表情を変えず、節くれ立った指でページを捲った。
「佳代子さんが隠していたのは、長谷川との情事の記録じゃない。……明和商事が警察幹部を抱き込むために使った、秘密裏の『裏口』――つまり、接待の場所と日付、そしてそこに同席した官僚たちの実名リストだわ。美咲はこれを見つけ、私に託そうとした。私が長谷川の血を引いていることを、彼女は知っていたから」
男は日記を閉じ、紗季を真っ直ぐに見つめた。
「君の言う通りだ。だが、紙のリストだけでは弱い。このリストが『本物』であることを証明する、物理的な証拠が必要だ。航平が言っていた、マイクロフィルム……それがあれば、すべてが終わる」
「場所は分かっているわ。……私たちの、あの日の中学校」
2
深夜の校舎は、巨大な墓標のように静まり返っていた。
十五年前、美咲と紗季が放課後の時間を共有した場所。
紗季は、航平から託された真鍮の鍵を握りしめ、理科準備室の床下にある古いタイムカプセルの保管場所へと向かった。
背後には、常に「受取人」の気配がある。彼はもはや監視者ではなく、共に地獄を歩く伴走者だった。
「待って。……誰かいる」
男が紗季の肩を掴み、影の中に引き込んだ。
理科室の扉が、ゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、包帯で顔を覆い、幽霊のようにやつれた男だった。
「……佐久間」
紗季の喉から、乾いた声が漏れた。
海外へ逃亡したはずの汚職警官。彼は、長谷川に見捨てられ、暗殺者から逃げ延びた果てに、ここへ辿り着いたのだ。
「……間宮、紗季……。お前さえ、お前さえ現れなければ、私は……」
佐久間の手には、小型の自動拳銃が握られていた。銃口が、月光の下で鈍く光る。
「長谷川は、私にすべての罪を擦りつけた。……だが、あの男だけを生き残らせるわけにはいかない。……証拠を出せ。あのフィルムがあれば、私は長谷川を道連れにできる」
「残念ね、佐久間さん」
紗季は、震える足で一歩前へ出た。
「そのフィルムは、あなたの逃走資金にするためのものじゃない。……美咲の無念を晴らすための、最後の一撃よ」
「黙れ! 殺してやる、お前も、美咲と同じように!」
佐久間が引き金に指をかけた瞬間。
「受取人」が弾丸のような速さで動いた。
暗闇の中で火花が散り、肉がぶつかり合う鈍い音が響く。
佐久間は床に叩きつけられ、男がその首を締め上げる。
「待って! 殺さないで!」
紗季が叫んだ。
「そいつは、法廷で証言させなきゃいけない。……死なせて、逃がすわけにはいかないの!」
男は一瞬、冷酷な光を瞳に宿したが、紗季の必死な目を見て、ゆっくりと力を抜いた。
佐久間は、無様に喘ぎながら、床に崩れ落ちた。
3
理科準備室の床下。古い木箱の中に、それはあった。
小さな、銀色のカプセル。
中には、美咲が命を懸けて守ったマイクロフィルムが収められていた。
紗季はそれを手に取り、窓から差し込む月光にかざした。
そこには、無数の数字と、幾つかの署名が刻まれていた。
長谷川、佐久間、そして――今の警察庁長官の名前。
「これが、あなたの本当の顔なのね。お父さん」
紗季は、長谷川を「父親」と呼ぶことに、もはや痛みを感じなかった。
彼女は、この血を憎むのではなく、この血を使って奴を地獄へ引きずり込む決意を固めていた。
「受取人さん。……一つ、お願いがあるの」
「なんだ」
「この証拠を、検察や警察に渡しちゃいけない。……奴らの息がかかっていない『場所』へ届けてほしいの」
「どこだ?」
「……明日の朝、この街で一番大きな広告ビジョンの前に。……私は、自分の手で、この『封筒』を開封するわ」
4:深掘り ― 紗季の心理
紗季は、準備室の片隅で、一人静かにカプセルを見つめていた。
三十六歳の人生。
これまでは、誰かに与えられた仕事をし、誰かに決められたルールの中で生きてきた。
封筒を拾ったあの日、彼女は自分を「運の悪い被害者」だと思っていた。
だが、今は違う。
この封筒は、拾わされたのではない。
自分の人生を自分の手に取り戻すために、十五年かけて自分の元へ届いた「招待状」だったのだ。
航平は死んだのかもしれない。
母は、一生心を病んだままで過ごすのかもしれない。
それでも、紗季は立ち止まらない。
彼女は、かつて美咲が言った言葉を思い出していた。
『紗季は、太陽みたいな人だね。自分では気づいていないけど、周りを照らしているんだよ』
「美咲。見てて。……私は、もう影の中にはいないわ」




