最終章・【第二部】:連鎖の終焉 ― 灰の中の証言 ―
1
雨が降っていた。
あの日、十五年前の夜と同じ、すべてを洗い流すかのように冷たく、容赦のない雨だ。
渋谷のスクランブル交差点を見下ろす古い雑居ビルの一室。紗季は、窓ガラスに映る自分の姿を眺めていた。安物のスウェットは脱ぎ捨て、タクシーの男――「受取人」が調達してきた、仕立ての良い紺色のスーツに身を包んでいる。
鏡の中の女は、三日前まで商社で書類の山と格闘していた事務員には見えなかった。頬はこけ、目は鋭く、その指先には決死の覚悟が宿っている。
「……準備はいいか」
背後で、受取人が声をかけた。彼は大型のノートパソコンを操作し、街の至るところに設置された屋外ビジョンの制御システムへ、目に見えない糸を伸ばしていた。
「ええ。準備はできているわ。……でも、一つだけ教えて。あなたはどうして、リスクを冒してまで私を助けるの? 金のためだけじゃないはずよ」
男はキーボードを叩く手を止め、初めて、仮面のような無表情を崩した。
「……俺にも、かつて届けるべき『封筒』があった。だが、それを届ける前に、相手がいなくなった。……君を見ていると、その果たせなかった約束を思い出させる」
男の過去に何があったのか。それを深く追求する時間はなかった。だが、その言葉だけで十分だった。孤独な逃亡者同士、言葉を超えた連帯がそこにはあった。
紗季は、ポケットの中のマイクロフィルムを握りしめた。
これから始まるのは、法廷での議論ではない。情報の海で行われる、命懸けの「告発」だ。
2
午前十時。
スクランブル交差点は、色とりどりの傘がひしめき合い、巨大な生き物のようにうごめいていた。
突然、全てのビジョンの映像が乱れた。
派手な広告、アイドルの笑顔、ニュース番組。それらが一瞬にして消え、代わりに、ざらついた白黒の静止画が映し出された。
それは、十五年前の事件現場の、隠し撮りされた写真だった。
そして、その上に鮮やかな赤文字で、ひとつのメッセージが刻まれる。
『明和商事・長谷川常務へ。娘からの最後の手紙です』
街を行く人々が足を止める。数千、数万の目が、一斉に巨大なスクリーンを見上げた。
紗季は、ビルの屋上に立っていた。
雨に打たれながら、彼女はワイヤレスマイクに向かって、静かに、しかし凛とした声で語り始めた。
「私は、間宮紗季。明和商事の社員であり、十五年前に闇に葬られた事件の目撃者です。……そして、長谷川常務。あなたの実の娘です」
その告白は、雨の音を突き破り、街全体に波及していった。
紗季は、マイクロフィルムの内容を、リアルタイムでビジョンに投影させ始めた。
警察庁長官との裏金工作。美咲を殺害した佐久間への指示書。そして、佳代子を精神的に追い詰め、自分を人質として利用し続けた証拠。
「あなたは、世界を自分の思い通りに操れると思っていた。……でも、あなたは忘れている。……あなたが踏みつけてきた一人ひとりの人間には、声があることを」
3
「……そこまでだ」
背後で、重厚な扉が開く音がした。
振り返ると、そこにはレインコートを羽織った長谷川が、数人の武装した私兵を連れて立っていた。彼の顔には、もはや余裕の笑みはない。ただ、獣のような剥き出しの殺意が、その瞳に燃えていた。
「紗季……。やはり、私の血を引いている。これほどまでに私を追い詰めるとはな」
「血の繋がりなんて、呪いでしかないわ。……お父さん。警察はもう、ここへ向かっている。あなたの『保護者』だった長官も、さっき公開した証拠でもう逃げられない」
「警察だと?」
長谷川は低く笑った。
「この街の警察が、誰の金で動いていると思っている。……ビジョンの映像など、すぐに『ハッカーによる偽造』として処理される。君をここで殺し、証拠を灰にすれば、明日には世界は何事もなかったかのように回り出すのだよ」
長谷川が合図を送ると、私兵たちが銃を構えた。
紗季は逃げなかった。彼女は、手に持った小型の起動スイッチを掲げた。
「そう。あなたがそう言うと思って、あらかじめセットしておいたわ。……私がこのスイッチから指を離せば、このマイクロフィルムの全データが、国内外の主要メディア、さらには国際人権団体へ一斉に送信される。……あなたが殺すべきなのは私だけじゃない。世界中の『目』よ」
「はったりを!」
「はったりかどうか、試してみる? 三十六年生きてきて、私が学んだ唯一のことは、失うものがない人間の強さよ。……美咲を殺し、航平を傷つけ、母を壊したあなたに、私は絶対に屈しない!」
4:深掘り ― 対峙する父と娘
長谷川は、数歩近づいた。雨に濡れた彼の顔は、驚くほど紗季に似ていた。
「紗季……。私と一緒に来い。お前の能力は、こんなところで腐らせるべきではない。私の後継者として、明和商事を、この国を動かす力を授けてやろう。……佳代子だって、お前が成功することを望んでいるはずだ」
「お母さんの名前を汚さないで!」
紗季の声が震える。
「お母さんが望んでいたのは、あなたからの解放よ。十五年間、彼女を檻の中に閉じ込め、私という人質を使って彼女の口を封じてきた。……あなたの愛は、支配でしかない」
長谷川の目が、冷酷な計算を始めた。
「……残念だよ。やはり、お前は美咲と同じ、救いようのない理想主義者だ」
長谷川が銃を抜き、紗季の眉間に狙いを定めた。
その瞬間。
――ズドン。
乾いた音が響いた。
だが、倒れたのは紗季ではなかった。
長谷川の右肩から血が吹き出し、彼は銃を取り落とした。
背後の非常階段から、血まみれの男が現れた。
「……航平?」
紗季の口から、悲鳴に近い声が漏れた。
野上航平。死んだと思われていた彼は、腹部を抑え、足を引きずりながら、執念だけでここまで辿り着いたのだ。
「……終わらせに来たぞ、長谷川。……俺たちの、十五年を」
航平の手には、佐久間から奪ったと思われる拳銃が握られていた。
長谷川の私兵たちが航平に向かって発砲しようとしたその時、ビルの周囲に夥しい数のサイレンが鳴り響いた。
今度のサイレンは、長谷川の味方ではなかった。
受取人が裏で動かしていた、長谷川と敵対する派閥の「本物の警察官」たちが、ビルを完全包囲したのだ。
5:深掘り ― 灰の中の証言
激しい銃撃戦は起きなかった。
圧倒的な数の警察官たちが屋上に雪崩れ込み、長谷川の私兵たちは次々と制圧されていった。
長谷川は、肩を抑えて座り込み、自分を囲む警察官たちを、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「……バカな。……金は、権力は……」
「金で買えるのは服従だけよ、長谷川さん。……信頼は買えない」
紗季は、長谷川の前に立った。
受取人が屋上に現れ、紗季の隣に立った。
「データはすべて送信された。……もう、誰にも止められない」
紗季は、航平の元へ駆け寄った。
「航平! 大丈夫!? しっかりして!」
「……ああ。……やっと、お前を、……美咲を守れた気がするよ……」
航平は微かに笑い、そのまま意識を失った。
雨は、いつの間にか止んでいた。
雲の切れ間から、鋭い朝日が差し込み、水浸しの屋上を照らし出す。
紗季は、手の中のスイッチをそっと置いた。
彼女の指は、もう震えていなかった。
十五年前、雨の路地裏で立ち尽くしていた一人の少女。
彼女は今、灰の中から立ち上がり、自分の足で新しい世界の一歩を踏み出そうとしていた。




