第五章:虚飾の残響 ―三十六時間の逃亡者―
1
鼓膜を劈くアラート音が、遠くで鳴り響く。
破壊されたサーバーから立ち上る、電子基板が焼ける特有の鼻を突く異臭。間宮紗季は、右手に持った裁断機のレバーを杖のように突き、膝をついた。足の裏には無数の細かなガラス片が食い込み、そこから流れる血が、無機質な灰色の床に点々と赤い花を咲かせている。
「……門脇さん」
掠れた声で呼ぶが、霧散した液体窒素の白い煙の向こうに、老婆の姿は見えなかった。
「逃げな、間宮さん。ここは、私が『掃除』しておくからさ」
煙の奥から、低く、力強い声が返ってきた。それは、十年以上、社会の隅っこで塵を払い続けてきた者だけが持つ、鋼のような覚悟の響きだった。
紗季は、震える手で美咲のスマートフォンを抱え、非常階段へと走り出した。
背後で、重い鉄の扉が閉まる音がした。それが、トミとの永遠の別れになるかもしれないという予感が胸を締め付けたが、振り返ることは許されない。今の彼女には、託された「十五年分の重み」がある。
地上へと続く階段を駆け上がり、非常口を突き破る。
眩い午後の光。
明和商事のビルの前には、すでに数台のパトカーが到着し、武装した警官たちが次々と建物内に雪崩れ込んでいた。
「そこだ! 止まれ!」
警官の一人が紗季を見つけ、怒号を上げる。
紗季は、反射的に逆方向へ走った。
式典のために集まっていた高級車、その間を縫うようにして走る。
三十六歳。全力で走ればすぐに息が切れ、心臓が破裂しそうになる。だが、今の彼女を動かしているのは筋肉ではなく、剥き出しの神経だった。
通りかかった黒いタクシーのドアを、彼女はなりふり構わず開けた。
「出して! 早く!」
「お客さん、どちらまで……」
「どこでもいい! とにかく、ここから離れて!」
運転手がバックミラー越しに彼女の異様な姿――ずぶ濡れの髪、血まみれの足、そして狂気を孕んだ目――を見て、顔を引き攣らせながらアクセルを踏んだ。
パトカーのサイレンが、背後でますます激しくなる。
紗季は、シートに深く沈み込み、震える指でタクシーの備え付けのモニターに目をやった。
そこには、速報テロップが流れていた。
『明和商事本社ビルで爆発。重要参考人の女が逃走中』
そして映し出されたのは、彼女自身の顔写真だった。
「……英雄なんかじゃない。テロリスト、ってわけね」
自嘲的な笑いが漏れる。長谷川常務の言った通りだ。彼は、彼女がデータを破壊することも計算に入れていた。物理的な破壊は、彼女を「精神に異常をきたしたテロリスト」に仕立て上げるための、絶好の口実になったのだ。
2
タクシーは、都心を離れ、寂れた湾岸エリアへと向かっていた。
紗季は、運転手に数枚の千円札を叩きつけ、倉庫街の入り口で車を降りた。
海からの湿った風が、汗ばんだ肌を冷やす。
彼女は、死んだはずのスマートフォンを再び取り出した。
破壊の衝撃で液晶は蜘蛛の巣状に割れていたが、奇跡的にバックライトは灯っていた。
メッセージアプリを開く。
そこには、十五年前の美咲からの、未送信のメッセージが残っていた。
『紗季。もし明日、私が待ち合わせに来なかったら……あの封筒を、私の母に届けて。そこに、すべての「種」を蒔いてあるから』
美咲の母。
事件の後、娘を失ったショックで心を病み、千葉の療養施設に身を寄せていると聞いていた。
紗季は、十五年間、一度も彼女に会いに行かなかった。合わせる顔がなかった。自分が美咲の持ち物を奪い、沈黙を守り続けたからだ。
(美咲のお母さん……彼女なら、本当の「受取人」を知っているかもしれない)
その時。
静まり返った倉庫の影から、ゆっくりと一台の車が姿を現した。
昨夜、彼女を絶望の淵に突き落とした、あのセダン。
ドアが開き、野上航平が降りてきた。
彼は銃を構えてはいなかった。だが、その目はひどく虚ろで、どこか遠い場所を見ているようだった。
「……また、あなたなの?」
紗季は、裁断機のレバーを構える。もはやそれは、武器というよりは、彼女の崩れそうな自尊心を支える杖だった。
「佐久間は、消されたよ」
航平が、絞り出すような声で言った。
「長谷川の手の者に。……次は、俺たちの番だ」
「『俺たち』? 笑わせないで。あなたは会社の犬でしょう? 長谷川の指示で私をここまで誘い出した」
「そうだ。……そうだよ、紗季。俺は、十五年前からずっと、あいつらの掌の上だった。美咲が死んだ夜、俺はあいつらに弱みを握られたんだ。……俺が、美咲を殺した警察官の顔を見てしまったからじゃない。……俺が、あいつらの不正に加担していた証拠を、佐久間が持っていたからだ」
紗季は息を呑んだ。
航平は「被害者」でも「目撃者」でもなかった。
彼は、最初から汚れきった、敵側の人間だったのだ。
「俺は、お前を守りたかった。それは本当だ。……でも、お前を守ることで、俺は自分の罪を隠し続けてきた。……紗季。今の俺には、もう帰る場所も、守るべきプライドもない」
航平は、ゆっくりと自分の胸ポケットから、一枚の鍵を取り出した。
古びた、真鍮製の鍵。
「これは、美咲の実家の地下室の鍵だ。……あの日、美咲が俺に預けようとして、俺が拒絶した鍵だ。……お前が持っているスマホのデータ、それだけじゃ足りない。……『実物』があそこにはある」
「実物?」
「佐久間が、美咲から奪おうとして奪えなかった、本当の『現物証拠』だよ。……明和商事の裏金、数億円分を洗浄した記録を記した、物理的なマイクロフィルムだ」
3
夕闇が、湾岸を紫色の静寂で塗りつぶしていく。
紗季は、航平の提示した「共闘」を、すぐには受け入れられなかった。
裏切りに裏切りを重ねた男。その言葉のどこに真実があるというのか。
「信じろなんて言わない。……ただ、長谷川の追手が、もうそこまで来ている。……お前の母親のところへもな」
その言葉に、紗季の血の気が引いた。
母。
老人ホームで、穏やかに暮らしているはずの、唯一の身寄り。
「母に……何をするつもりなの!」
「人質にするつもりだろう。……あいつらは、お前が持っているスマホのパスコードが欲しいんだ。物理的な破壊でデータが消えなかったことを、長谷川は恐れている」
紗季は、拳を固く握りしめた。
三十六歳。若さゆえの無謀さはない。けれど、大人ゆえの「捨て身」の覚悟があった。
「行きましょう。……千葉へ」
航平の車に乗り込む。
走り出した車内。気まずい沈黙が流れる中、紗季は窓の外を流れる工場の夜景を眺めていた。
昨夜、あの封筒を拾うまで、自分は明日のランチのことや、来月のカードの引き落としのことばかりを考えていた。そんな平凡な悩みが、今は遠い前世のことのように思える。
「……ねえ、航平」
「なんだ」
「あの時……十五年前、私たちがもっと正直だったら、別の人生があったと思う?」
航平は、ハンドルを握る手に力を込めた。
「……別の地獄があっただけさ。俺たちは、あの雨の夜に、もう壊れていたんだよ」
その言葉に、紗季は首を振った。
「いいえ、壊れていたのは、私たちを取り巻く世界の方よ。……私たちは、ただ、その破片を拾い集めて生きてきただけ」
車は、アクアラインを越え、深い霧に包まれた房総の山道へと入っていった。
美咲の母が待つ療養施設。そこは、かつて美咲と紗季が、夏休みに遊びに行ったことのある、思い出の場所のすぐ近くだった。
前方から、数台の黒いワゴン車がライトを消して近づいてくる。
長谷川の私兵たち。
そして、その中心に立つのは、あの「タクシーの男」だった。
男は、車のボンネットに腰掛け、夜空を見上げている。
その手には、今度は銃ではなく、一通の「宛名のない封筒」が握られていた。
「ようやく来たか。……受取人諸君」
男の声が、霧の中に響き渡る。
紗季は車を降り、裁断機のレバーを構えた。
「その封筒の中に、何が入っているの。……今度こそ、教えてもらうわよ」
男は、不敵な笑みを浮かべ、封筒を紗季に向けて放り投げた。
「これは、君の母親からの『伝言』だよ。……そして、十五年前の事件の、真の『黒幕』からの招待状だ」
紗季は、震える手で封筒を受け取った。
中に入っていたのは、一枚の古い写真。
そこには、若き日の紗季の母と、その隣で微笑む、若き日の「長谷川常務」の姿があった。
「……お母さん?」
すべての伏線が、一つの恐ろしい結末へと収束していく。
十五年前の事件。
美咲の死。
そして、紗季が狙われた理由。
それは、単なる偶然の目撃者だったからではなく――彼女の血筋そのものが、明和商事の「負の遺産」の一部だったからなのだ。
紗季の絶叫が、深い霧の森に吸い込まれていった。




