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『名前のない終止符 ―36歳の私が拾った、15年目の断罪―』  作者: 久遠 睦


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7/12

第四章:砂の牙城 ―潜入と連帯―

1

 午前八時三十分。

 新宿駅の喧騒は、まるで巨大な洗濯機の中に放り込まれたような無慈悲さで紗季を飲み込んだ。

 彼女は駅ビルのトイレで、千円札数枚を握りしめて買った安物のスウェットと、サイズが少し合わないスニーカーに着替えていた。泥に汚れ、血が滲んだストッキングはゴミ箱の奥底に沈めた。鏡に映る自分は、徹夜明けの疲れ果てたどこにでもある「疲弊した女」だ。誰も、この女が数時間前に拳銃を突きつけられ、十五年前の死体と対面してきたなどとは思いもしないだろう。

 彼女は、死んだはずのスマートフォンの充電を待つため、駅外れの古いネットカフェに潜り込んだ。

 狭い個室、タバコのヤニが染み付いた壁、隣の部屋から聞こえる断続的な咳払い。かつての自分なら眉を潜めて一分も耐えられなかったであろう空間が、今は唯一のシェルターだった。

 USBケーブルを繋ぎ、画面に電力が灯るのを待つ間、紗季は手に入れた「美咲の真実」を反芻していた。

 あの音声記録。美咲は言った。

『あなたが、あの夜、私のバッグに入れた「私のスマホ」の中に、すべてが入っている』

 十五年前、自分が勤める今の商社――「明和商事」は、単なる憧れの就職先だった。だが、美咲のデータが示唆していたのは、その明和商事と警察上層部、そして佐久間を結ぶ、どろりとした癒着の構図だった。

(……もし、私の就職さえも、仕組まれていたとしたら?)

 ぞっとする思考が脳裏をかすめる。

 身寄りのない、事件の「共犯者」である彼女を、監視しやすい場所に置いておくための人選。

 震える指で、再起動したスマートフォンのフォルダを開く。

 そこにあったのは、膨大な数の文書ファイルだった。

 明和商事の裏帳簿。政治家への献金リスト。そして、十五年前の「Project S」という名の土地開発計画。その計画の邪魔になったのが、当時その土地に住んでいた美咲の一家だったのではないか。

 その時、個室のドアが控えめにノックされた。

「……っ!」

 紗季は反射的に裁断機のレバーを握りしめる。

 だが、聞こえてきたのは聞き覚えのある、しわがれた老婆の声だった。

「間宮さん。そこにいるんでしょう?」

 ドアを細く開けると、そこには明和商事で十年以上清掃員を務めている、門脇かどわきトミが立っていた。

 常に腰を曲げ、無表情にフロアを磨き続けていた彼女。会社では「空気」のように扱われていた存在。

「門脇さん……なぜ、ここが?」

「あんたの鞄に、私の予備のGPSタグを入れておいたのさ。昨日、あんたが顔面蒼白で会社を出ていくのを見てね。……嫌な予感がしたんだよ」

 門脇トミは、狭い個室にするりと入り込むと、紗季のボロボロになった手を見て小さく溜息をついた。

「三十六にもなって、無茶をするもんじゃない。……でも、あんたが持っているその『箱』。それは、私の息子を殺した連中の首を絞める縄だね」

2

 門脇トミの語る真実は、紗季が知る以上に深い闇を孕んでいた。

 彼女の息子は十五年前、明和商事の経理部に勤めていた。ある日、彼は「帳簿の不一致」を指摘した直後、駅のホームから転落して死んだ。警察は「酔っ払った末の自損事故」として処理した。その時の担当刑事が、若き日の佐久間だったという。

「私はね、あいつらがいつか尻尾を出すのを待って、あの会社で掃除をし続けてきたんだ」

 トミは、使い古された魔法瓶から熱いほうじ茶を注ぎ、紗季に差し出した。

「間宮さん。あんた、これからどうするつもりだい? 警察も、あんたの会社も、みんな敵だよ。航平っていう男も……あの目を見りゃわかる。あれは魂を売った男の目だ」

 紗季はお茶を一口すすり、胃の腑に落ちる熱を感じながら、静かに答えた。

「会社に行きます。……今日、午後から行われる『創立記念式典』に」

「正気かい? 虎の穴に飛び込むようなもんだよ」

「美咲のスマホにあるデータは、一部が破損しています。……でも、会社にあるメインサーバーの『鍵』があれば、すべてが復元できる。美咲は、その鍵の在り処を今の私に遺してくれたんです」

 紗季は、美咲のスマホの裏側に貼られていた、小さなホログラムシールを指差した。

 それは、明和商事の社員証をかざすことで反応する、特殊なICチップだった。

 全社員が持っている社員証。だが、紗季の社員証だけには、入社時からある「細工」が施されていた。彼女はそれを「会社側の監視用」だと思っていたが、美咲は死の間際、それを逆手に取るためのプログラムを仕込んでいたのだ。

「私がサーバー室に入り、データをアップロードすれば、世界中にこの真実が拡散されます。……門脇さん、手伝ってくれますか?」

 トミは、深く刻まれた皺をさらに深くして笑った。

「掃除屋を舐めちゃいけないよ。防犯カメラの死角も、警備員が居眠りする時間も、全部頭に入ってる。……あんたを、一番奥の部屋まで運んでやるよ。ゴミ回収の台車に乗せてね」

3

 午後一時。

 明和商事の本社ビルは、記念式典を前に華やかな祝賀ムードに包まれていた。

 エントランスには高級車が並び、政財界の大物たちが吸い込まれていく。

 その裏口。

 大型のゴミ回収容器の中に身を潜め、紗季はトミが押す台車の振動に耐えていた。

 ガタガタと揺れる暗闇の中で、紗季は裁断機のレバーを強く握る。

 十五年前。私は怖くて逃げた。

 美咲を見捨て、自分の日常を守るために記憶を閉ざした。

 その結果、手に入れたのは「何者でもない自分」という、空虚な平穏だった。

 

(もう、逃げない。……美咲。あなたの人生を、私の人生で買い戻すわ)

 台車が止まった。

 重い扉が開く音がし、ひんやりとした冷気が流れ込んでくる。地下のサーバー管理フロアだ。

「ここまでだよ、間宮さん。……あとは、あんたの腕次第だ」

 トミの声に促され、紗季は容器から這い出した。

 灰色の壁。無機質な電子音。

 彼女は社員証をリーダーにかざした。

 通常なら、一般社員にはアクセス権限のない最深部。

 だが、リーダーは静かに「承認」の青い光を放った。

 美咲の遺した「鍵」が、十五年の時を超えて扉を開いたのだ。

 紗季は、巨大なサーバーラックが並ぶ回廊を走り抜けた。

 突き当たりにある、マスターコンソール。

 彼女は震える手で美咲のスマホを接続し、アップロードを開始した。

 0%……10%……。

 画面上のプログレスバーが、ゆっくりと進んでいく。

 その時。

「……やはり、ここに来たか」

 背後のスピーカーから、聞き覚えのある声が響いた。

 佐久間ではない。

 航平でもない。

 それは、明和商事の現社長であり、十五年前の「Project S」の推進責任者だった、常務の長谷川の声だった。

「間宮紗季。君が拾ったあの封筒……あれを届けたのは、私だと思わなかったかね?」

 紗季は目を見開いた。

「どういう……こと?」

「佐久間は、もう使い物にならなくなった。彼は過去の証拠に怯え、独断で君を消そうとした。だが、私は違う。……私は、そのデータを『完成』させるために、君をここまで導いたんだ」

 監視モニターが一斉に点灯し、そこには銃を構えた佐久間を、背後から航平が「拘束」している映像が映し出された。

 佐久間は猿ぐつわを噛まされ、必死に目を剥いている。

「航平……?」

「彼は、最初から私の部下だ。君に恩を売り、佐久間を暴走させ、最終的に『証拠』をこのサーバーまで運ばせる。……間宮さん。君が今アップロードしているそのデータ。それは、佐久間の罪を告発するものであると同時に、明和商事のこれまでの不正を『上書き』して消去するためのウイルスなんだよ」

 紗季の指が凍りついた。

 画面には「45%」という数字。

 美咲が遺した真実。それは、長谷川の手によって「佐久間一人の犯行」として矮小化され、組織全体の罪を隠蔽するための道具に変えられようとしていた。

「あと数分で、君は『汚職警官の正体を暴いた英雄』として、我が社の誇りとなる。……そして、本当の闇は、永遠に君の指先で消えることになるんだ」

 スピーカーから流れる長谷川の哄笑。

 紗季は、アップロードの中止ボタンに手をかけた。

 だが、反応しない。

 制御はすでに、長谷川の側に奪われていた。

「無駄だ。君の役割は、ただそこに立って、歴史が書き換えられるのを見届けることだ」

 紗季の目の前で、数値が「80%」を超える。

 絶望が、再び彼女を飲み込もうとしていた。

 その時。

 ガシャン! と、サーバー室の非常用電源パネルが物理的に破壊された。

「……あんたたちが掃除をサボるから、こういう隙間が残るんだよ」

 コンソールの裏側から、トミが血まみれのモップを握りしめて現れた。

 彼女は、サーバーを冷却するための液体窒素のパイプを、巨大なレンチで叩き割っていた。

「間宮さん! 物理的にぶっ壊しちまいな! 論理が通じない相手には、暴力が一番さ!」

 トミの叫びに応えるように、紗季は裁断機のレバーを振り上げた。

 液晶画面。サーバーのハードディスク。長谷川の傲慢な声が漏れるスピーカー。

 

 彼女は、十五年分の怒りを込めて、その冷たい機械の塊を打ち抜いた。


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