第三章:封印された解答(後編)
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駅の地下通路に、乾いた笑い声が響いた。
それは紗季自身の喉から漏れたものだった。
目の前に立つ航平の瞳には、かつての恋人への情愛など一欠片も残っていない。そこにあるのは、獲物を袋小路に追い詰めたハンターの、冷徹な達成感だけだった。
「……いつからなの? 航平」
紗季の声は、自分でも驚くほど低く、冷えていた。
「いつから、佐久間と繋がっていたの?」
航平は一歩、佐久間の隣へと歩み寄り、ポケットから煙草を取り出した。だが火は点けない。ただ、その銀色のフィルターを弄んでいる。
「繋がっていた、なんて人聞きの悪い言い方はよしてくれ。俺は最初から、佐久間さんの『協力者』だったんだよ。十五年前も。そして、今もな」
心臓が、鋭い氷の刃で刺されたように痛んだ。
十五年前、事件現場の近くで怯えていた航平。
『何も見ていないことにしろ』と彼女を諭した航平。
あれは彼女を守るための言葉ではなく、彼女を「沈黙という共犯関係」に引きずり込み、証拠の在り処を監視し続けるための鎖だったのだ。
「君は実に優秀な『金庫』だったよ、間宮紗季」
佐久間が、嘲笑を浮かべて口を開いた。
「美咲から奪ったあのペンダント。中身が何かも知らずに、自分の罪の象徴として大切に隠し持っていた。我々がどれだけ探しても見つからなかったはずだ。君自身の記憶が、それを『無かったこと』にしていたんだからな」
佐久間がゆっくりと、拳銃を構えたまま近づいてくる。
「さあ、そのICカードと、ロッカーの中にあるスマホを渡しなさい。それで君の役目は終わりだ。十五年前の『泥棒』の罪も、すべて不問にしてあげよう」
紗季は、床に落ちたポータブルDVDプレーヤーと、ロッカーの中に鎮座する古いスマートフォンを交互に見た。
映像の中の自分。
死体から物を奪う、あの醜い姿。
私は、彼らが言う通りの汚らわしい人間なのだろうか。
だが、その時。
紗季の脳裏に、映像の「違和感」がフラッシュバックした。
(待って……何かがおかしい)
映像の中の二十一歳の自分。
美咲の首からペンダントを引きちぎる直前、彼女は美咲の耳元で何かを囁いていた。
そして、その直後の指の動き。
ただ奪うのではない。彼女は、自分のバッグから「何か」を取り出し、代わりに美咲のバッグの中へ滑り込ませていたのではないか?
映像は意図的にカットされている。
あるいは、特定の角度からしか見えないように細工されている。
(私は、奪ったんじゃない。……「交換」したんだ)
その確信が生まれた瞬間、紗季の指先に、十五年間忘れていた「感覚」が蘇った。
雨の冷たさ。美咲の肌の、死にゆく者の熱。
そして、彼女が最後に遺した言葉。
『――紗季、これを持っていて。あいつには、偽物を……』
震える指が、ロッカーの中のスマートフォンに触れた。
これは、単なる記録媒体ではない。
これは、彼女たちが仕掛けた「十五年越しの罠」の鍵だ。
5
「渡さない」
紗季は、はっきりと言い切った。
「なんだと?」
佐久間の眉が吊り上がる。
「分かっていないようだな。君の命も、その元恋人の立場も、すべては私の指先一つで決まるんだぞ」
「いいえ、分かっているのは私の方よ。佐久間さん、そして航平。……あなたたち、このスマホの中身、実はまだ一度も見ていないでしょう?」
航平の表情が、微かに強張った。
紗季は賭けに出た。
もし、彼らがすでに中身を知っているなら、こんな回りくどい方法で彼女を誘導する必要はない。彼女を殺して、ロッカーを物理的に破壊して奪えば済む話だ。
それをしないのは、このロッカーが「特定の生体反応」あるいは「紗季の持つ固有のパスコード」がなければ、中身を永久に消去する仕組みになっているからだ。
「このICカードは、単なる鍵じゃない。私の指紋と、設定された特定の動作がなければ、データは一瞬で上書きされる。……そうでしょ?」
紗季は、ハッタリを交えながら佐久間を睨み据えた。
三十六歳の社会人経験は、伊達ではない。理不尽な取引、裏のある契約。そんな荒波の中で磨かれた「交渉術」が、今、彼女の命を繋いでいた。
「面白い。……航平、言っただろう。この女は、追い詰められるほど厄介になるタイプだと」
不意に、背後から声がした。
タクシーの男だ。
彼はいつの間にか佐久間の背後に回り、その首筋にナイフを突きつけていた。
「なっ……! お前、何の真似だ!」
佐久間の部下たちが一斉に男に銃口を向ける。だが、男は動じない。
「佐久間さん。あんたとの契約は『証拠の回収』までだ。だが、この女性が面白いことを言い出した。……中身が偽物である可能性があるなら、報酬の額が変わってくる」
「貴様……裏切るのか!」
「裏切り? 心外だな。俺は『受取人』だと言ったはずだ。より価値のある方を、より高く買ってくれる方へ届ける。それが俺の仕事だ」
三つ巴の膠着状態。
狭い通路に、火薬と汗の臭いが充満する。
その隙を、紗季は見逃さなかった。
彼女はロッカーの中に手を伸ばし、スマートフォンの横に置かれていた「あるもの」を掴んだ。
それは、十五年前の彼女が、万が一のために用意していた護身用の催涙スプレー――ではなく、学生時代に愛用していた「香水の瓶」だった。
中身は、十五年という歳月を経て、揮発し、強力なアルコール濃度を持った異臭の塊へと変貌している。
「……みんな、どいて!」
紗季は、その瓶を床に叩きつけた。
同時に、右手に握りしめていた「裁断機のレバー」で、通路の壁にある非常用火災報知器のボタンを叩き割る。
――リリリリリリリリリ!!!!
鼓膜を劈くベルの音と共に、天井のスプリンクラーが作動した。
激しい水の幕が、三人の男たちの視界を遮る。
揮発した香水の臭いが、水の粒子と混ざり合い、目と鼻を刺す刺激臭となって充満した。
「ぐっ……!」「何だ、この臭いは!」
男たちが怯んだ一瞬。
紗季はスマートフォンとICカードを抱え、水浸しの床を蹴った。
サンダルはもう脱ぎ捨てている。
裸足の裏に感じるタイルの冷たさが、逆に彼女の意識を鮮明にさせた。
「待て、紗季!」
航平の声が聞こえる。
だが、その声はもう、彼女を止める力を持っていなかった。
6
地上へ続く階段を駆け上がる。
肺が焼ける。足の裏から血が流れているのが分かる。
それでも、彼女は止まらなかった。
地上に出ると、街はすっかり朝の光に包まれていた。
通勤を急ぐ人々。開店準備をする商店。
昨夜の狂気が嘘のように、平和で、無関心な日常がそこにはあった。
全身ずぶ濡れで、裸足の女。
人々は怪訝な目を向けるが、誰も助けようとはしない。
それが、彼女が愛し、同時に絶望した「日常」の正体だった。
紗季は震える手で、手に入れたスマートフォンを起動した。
バッテリーの残量はわずか。
パスコードを求める画面が表示される。
彼女は迷わず、数字を打ち込んだ。
自分の誕生日でも、航平との記念日でもない。
美咲が死んだ、あの日の日付。
――カチリ。
ロックが解除された。
ホーム画面には、一枚の写真が設定されていた。
学食で、二人で笑いながらパフェを食べている、何の変哲もない日常の風景。
その写真の裏側に隠されたフォルダを開くと、一つの音声ファイルが見つかった。
タイトルは、『受取人へ』。
紗季は、震える指で再生ボタンを押した。
イヤホンなどない。彼女はスピーカーを耳に押し当てた。
『……紗季、聞こえる? もしあなたがこれを聴いているなら、私はもうこの世にはいない。そして、あなたは私の代わりに、地獄を歩いているはず』
美咲の声だ。
十五年前の、若く、凛とした、大好きな親友の声。
『あの夜、私は佐久間に呼び出された。あいつの不正の証拠を掴んだから。……でも、あいつが殺しに来ることも分かっていた。だから、紗季。あなたに「悪役」を演じてもらったの』
紗季の目から、熱いものが溢れ出した。
『映像の中のあなたは、私から物を奪っているように見えるでしょう? それでいい。あいつらを油断させるための偽装よ。……本当の証拠は、ペンダントでも封筒でもない。……あなたが、あの夜、私のバッグに入れた「私のスマホ」の中に、すべてが入っている』
紗季は思い出した。
あの雨の夜。彼女は、自分のスマホと、美咲のスマホを交換したのだ。
佐久間が奪ったのは、紗季の、中身のない空っぽのスマホ。
そして、紗季が死守し、この十五年間ロッカーに眠らせていたのが、美咲の「真実の記録」だったのだ。
『紗季。ごめんね。あなたにこんな重荷を背負わせて。……でも、信じている。三十六歳になったあなたは、きっと私よりもずっと強くて、賢い女性になっているはずだから』
音声が途切れる。
同時に、スマートフォンの画面が暗転した。
バッテリー切れ。
だが、紗季の心には、もう迷いはなかった。
私は、泥棒ではなかった。
親友に託された、最後の希望だったのだ。
背後から、再び足音が近づいてくる。
今度は一人ではない。大勢の、組織立った足音。
佐久間の部下か、あるいはそれ以上の権力を持った誰かか。
紗季は、濡れた髪をかき上げ、前を向いた。
手元には、証拠の詰まったスマートフォン。
そして、かつての弱さを脱ぎ捨てた、新しい自分がいた。
「……さあ、始めましょうか。十五年遅れの、本当の決着を」
彼女は、街の喧騒の中へと、力強く一歩を踏み出した。




