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『名前のない終止符 ―36歳の私が拾った、15年目の断罪―』  作者: 久遠 睦


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第三章:封印された解答(前編)

1

 午前四時。ビジネスホテルの部屋は、深い海の底のような静寂に包まれていた。

 遮光カーテンの隙間から、都会の濁った夜明けが微かに滲み出している。紗季はベッドの上で、浴衣のまま身を硬くしていた。隣のベッドからは、航平の規則正しい寝息が聞こえる。

(本当に、寝ているの……?)

 その問いに答えは出ない。彼女は音を立てないようゆっくりと身を起こし、床に脱ぎ捨てられた自分のコートを手に取った。

 ポケットの中には、あのICカードと、一枚の写真、そして裁断機のレバー。

 サンダルを履き、ドアの鍵を慎重に回す。カチリ、という小さな音が、静寂の中では銃声のように響いた。心臓が跳ねる。だが、航平は動かなかった。

 彼女は部屋を抜け出し、エレベーターを避けて非常階段を駆け下りた。

 一階のロビーには夜勤のスタッフすらおらず、ただ自動ドアがセンサーに反応して無機質な音を立てて開いた。

 外気は、昨夜よりもさらに冷え込んでいた。雨は上がっているが、濡れたアスファルトが街灯を反射し、世界を銀色の鏡のように映し出している。

 紗季は裸足にサンダルという不格好な姿のまま、地下鉄の駅へと歩き出した。

 目的地は、十五年前に通っていた大学の最寄り駅。

 かつての通学路。かつての青春。そして、かつての罪が眠る場所。

 三十六歳の体は重い。寝不足と精神的な消耗で、視界がときおり歪む。

 それでも彼女を突き動かしていたのは、恐怖を上回る「知らなければならない」という強迫観念だった。

『ごめんなさい。私は、あなたを裏切りました』

 あの手紙の言葉が、呪文のように脳内で繰り返される。

 裏切り。

 私は誰を、いつ、どうやって裏切ったのか。

 その答えが、あの「103番」のロッカーにある。

2

 早朝の駅構内は、始発を待つ数人の酔客と、清掃員の姿があるだけだった。

 かつて毎日使っていたはずの改札口が、今は異世界の入り口のように見える。

 紗季は、北口の階段を下りた先にある、薄暗い通路へと向かった。

 そこは、再開発から取り残されたかのように、古いタイル壁とカビの臭いが漂う一角だった。

 突き当たりに、それはあった。

『スカイブルー・コインロッカー』

 名前とは裏腹に、塗装は剥げ落ち、無数の傷が刻まれた鉄の塊。

 紗季は視線を走らせる。

 一番下の段。角から三つ目。

 そこには、真新しい非接触型のセンサーが後付けされた、103番の扉があった。

 手の中のICカードが、じっとりと汗ばんでいる。

 彼女は震える手を伸ばし、カードをセンサーにかざした。

 ――ピッ。

 電子音が響き、ロックが外れる低い金属音がした。

 扉が、数ミリだけ手前に開く。

 紗季は息を止め、その重い鉄の扉を引いた。

 中にあったのは、大きな鞄でも、血まみれの凶器でもなかった。

 ただ一つ、丁寧に梱包された「ポータブルDVDプレーヤー」と、一枚のディスク。

 そして、十五年前の自分が使っていた、懐かしいデザインのスマートフォン。

「これ……私の……」

 十五年前、事件の直後に紛失したと言い聞かせていた、あのスマホだ。

 なぜ、ここにあるのか。

 紗季は吸い寄せられるように、プレーヤーの電源を入れた。

 バッテリーは十分に充電されている。

 震える指で再生ボタンを押すと、液晶画面にざらついた映像が映し出された。

 それは、十五年前の「あの日」の映像だった。

3

 映像は、暗い路地裏を俯瞰で捉えていた。

 激しい雨の音。

 画面の隅に、青い制服を着た男――佐久間の姿が映っている。

 彼の前には、血を流して倒れている女子大生、美咲。

 佐久間は冷酷な手つきで、彼女のバッグを漁り、何かを探している。

「嘘……」

 紗季は絶句した。

 航平が言っていたことは本当だったのだ。佐久間が美咲を殺した。

 だが、映像はそこで終わらなかった。

 佐久間が立ち去った数分後。

 画面の中に、もう一人の人物が現れた。

 黄色いレインコートを着た、若い女。

 二十一歳の、間宮紗季だ。

 映像の中の彼女は、美咲の死体に歩み寄った。

 泣き叫ぶのか、警察に電話するのかと思いきや、彼女が取った行動は、信じがたいものだった。

 彼女は、美咲の首元に手を伸ばした。

 そして、そこにあった「銀色のペンダント」を、力任せに引きちぎったのだ。

 さらに、彼女は美咲の開いたバッグから、一束の「封筒」を取り出し、自分のバッグへと隠した。

「……え?」

 紗季の記憶が、音を立てて崩落していく。

 私は、目撃者ではなかったのか。

 親友が殺された直後の現場で、私は――泥棒をしていたのか?

 映像の中の自分は、周囲を一度だけ見回すと、憑かれたような足取りで闇の中へと消えていった。

 その表情には、恐怖など微塵もなかった。

 ただ、狂気にも似た、冷徹な「欲望」だけが張り付いていた。

 画面が暗転し、文字が表示される。

『思い出しましたか? あなたが美咲さんから奪ったものは、単なる貴金属ではない。あの日、彼女が命を懸けて守ろうとした、警察の不正を暴くための記録媒体だったのです』

 紗季は、プレーヤーを床に落とした。

 乾いた音が通路に反響する。

 あの日。

 私は美咲が死んでいるのを見て、悲しんだのではない。

 彼女が持っていた「価値のあるもの」を奪うチャンスだと思ったのだ。

 そして、その事実を自分自身にさえ隠すために、記憶を都合よく塗り替えた。

 

 私は、被害者でも、ただの目撃者でもなかった。

 佐久間と同じ、あの夜の「共犯者」だったのだ。

「……そんな、まさか。私は、そんな人間じゃない……!」

 叫び声が、無機質な駅の通路に響く。

 だが、目の前にある映像が、残酷な真実を突きつけている。

 その時。

「ようやく、正解に辿り着いたようだね」

 背後から、あの「タクシーの男」の声がした。

 紗季が振り返ると、そこには黒いコートの男が、静かに立っていた。

 その手には、銀色に光る拳銃が握られている。

「君が奪ったあのペンダントの中には、マイクロSDカードが隠されていた。佐久間がずっと探していたのはそれだ。……そして君は、それをこのロッカーに隠した」

 男が歩み寄る。

「だが、残念ながら、君にはもう一つ、思い出してもらわなければならないことがある」

「……まだ、何かあるの?」

「あの日、君にその映像を撮らせ、美咲から証拠を奪うよう指示した人物だよ。君は一人でやったんじゃない。君を動かしていた『飼い主』がいたんだ」

 男の言葉が終わるより早く、通路の反対側から足音が聞こえてきた。

 規則正しい、軍靴のような足音。

「そこまでだ、二人とも」

 現れたのは、佐久間だった。

 その後ろには、数人の男たちが控えている。

 さらに、その男たちの中の一人が、ゆっくりと前へ出た。

「……航平?」

 紗季の声が震える。

 そこにいたのは、ホテルに置いてきたはずの、野上航平だった。

 彼は無表情のまま、佐久間の隣に立ち、紗季を見つめた。

「ごめんな、紗季。……やっぱり、お前が鍵だったんだ」

 世界が、反転する。

 元恋人は、自分を守る騎士ではなかった。

 自分をここまで誘い出し、記憶の封印を解かせるための、最も残酷な「装置」だったのだ。


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