第二章:闇を泳ぐ魚(後編)
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ビジネスホテルの駐車場は、湿ったコンクリートの臭いが充満していた。
航平がエンジンを切ると、車内は急激に冷え込んでいった。さっきまで鳴り響いていたサイレンが、遠い幻聴のように耳の奥で反復している。
紗季は、膝の上に置かれた「二通目の封筒」を凝視した。
そこにある、自分の筆跡。
『ごめんなさい。私は、あなたを裏切りました』
その言葉は、まるで鋭利な氷の破片となって、彼女の記憶の深淵をかき乱す。
「紗季……。大丈夫か?」
航平が隣から声をかけてくる。その声は、十五年前と変わらず優しく、落ち着いたトーンだった。だが、今の紗季にとって、その優しさは毒を含んだ蜜のように感じられた。
彼女の視線は、航平の左手の袖口に向けられたままだ。そこに見える、白い紙の端切れ。それは、彼がこの封筒を開けた、あるいは別の何かを隠し持っている証拠ではないのか。
「ねえ、航平」
「なんだ?」
「さっき、家に見知らぬ連中が入っていくのを見たって言ったよね」
「ああ。黒い服を着た男たちだった。ただの空き巣じゃない。動きが訓練されていた。だから、お前の身が心配で……」
「……そう。ありがとう」
紗季は嘘をついた。
感謝の言葉を口にしながら、心の中では冷徹な計算を始めていた。
航平が本当に自分の家を見張っていたのなら、なぜ彼は「タクシーの男」や「佐久間」の存在を正確に把握していないのか。それとも、把握した上で、救世主の面を被って接触してきたのか。
三十六歳。彼女はこの歳月で、人を疑うという悲しい処世術を身につけてしまっていた。
かつて愛した男であっても、空白の十五年は、彼を完全な「他人」に変えるには十分すぎる時間だ。
「ここなら、あいつらもすぐには追ってこれないはずだ。とりあえず、チェックインしよう。お前、足が……」
航平が、裸足の紗季の足元を見て顔を顰めた。
泥と細かな傷にまみれた足先。パンプスを捨てた解放感は、今や歩くたびに走る鋭い痛みへと変わっている。
「歩けるわ」
「無理するな。ほら」
航平が、車の中にあった予備のサンダルを差し出す。
紗季はそれを借りて、よろよろと車を降りた。
ホテルのロビーは、深夜特有の静寂と、少し古びた芳香剤の匂いに包まれていた。フロントの男は、疲れ果てた表情で、泥だらけの女と、それを支える男を無感動に一瞥しただけで、機械的に鍵を渡した。
エレベーターの狭い空間。
肩を寄せ合う二人の影が、鏡の中に映し出される。
かつての恋人同士。
だが、その間には、十五年前の「あの日」の死体と、真っ白な封筒が横たわっている。
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402号室。
部屋に入ると、紗季はすぐにバスルームへ駆け込んだ。
蛇口を捻り、熱い湯を出す。
サンダルを脱ぎ、泥に汚れた足を洗う。
お湯が傷口に沁みて、彼女は思わず声を漏らした。
(落ち着け、紗季。考えろ)
手元にあるもの。
一通目の封筒から抜き取った「ロッカーの鍵の写真」。
二通目の封筒に入っていた「ICカード」と「自分の手紙」。
そして、タクシーの男が言った『103』という数字。
この断片を繋ぎ合わせれば、自分が封印したはずの真実に辿り着ける。
けれど、その真実を誰が望んでいるのか。
タクシーの男か、汚職警官の佐久間か、それとも――この部屋のドアの向こうにいる航平か。
湯気の中に、十五年前の雨の夜が浮かび上がる。
あの日、彼女は大学の帰りに、いつもとは違う近道を通った。
路地裏。
激しい雨音を突き破るような、鈍い衝撃音。
駆け寄った先で、彼女が見たのは……。
「……そうだ。私は、あの日、彼に会ったんだ」
記憶の霧が、ほんの一瞬だけ晴れた。
事件現場のすぐ近く。
街灯の影に隠れるようにして立っていた人物。
それは、当時付き合っていた航平だったのではないか?
紗季は、自分の記憶が恐怖によって改ざんされている可能性を疑った。
けれど、あの時、航平は酷く怯えた表情をしていた。
そして、彼女にこう言ったのだ。
『何も見ていない。いいな、紗季。俺もお前も、今日はここに来ていないんだ』
その言葉に従い、彼女は沈黙を守った。
だが、その直後。
現場に落ちていた「何か」を、彼女は反射的に拾い、バッグに隠してしまった。
それが、今日という日を招く呪いの種だったとも知らずに。
「紗季、着替えを持ってきた。ホテルの浴衣だけど」
ドア越しに航平の声が聞こえた。
紗季は慌てて足を拭き、バスルームを出た。
航平はベッドの端に腰掛け、テレビのニュースを無音で流していた。
画面の中では、赤と青のパトライトが激しく点滅している。
テロップには「都内で大規模な通信障害と複数の不審火」という文字が躍っていた。
「……街が、大変なことになっているわね」
「ああ。さっきのサイレンは、これのせいだろう。何者かが意図的に警察の網を撹乱している」
航平がリモコンを操作して、画面を消した。
暗くなった部屋の中で、彼がゆっくりと立ち上がる。
「それで、紗季。……封筒の中に、何が入っていた?」
核心を突く問い。
紗季は、ベッドの上に置いてあったICカードを隠すように、浴衣の裾を握りしめた。
「……大したものは入っていなかったわ。ただの、昔の手紙よ」
「そうか。……嘘をつくのが下手になったな、お前」
航平の距離が、一歩縮まる。
彼は笑っていなかった。
その目は、かつての恋人を見守る慈愛ではなく、隠し事を見透かそうとする執念に満ちていた。
「航平、あなたこそ、私に隠していることはないの?」
「何が言いたい」
「あなたの袖口。……さっきから白い紙の破片が見えているわ。……私の家のポストにあった封筒、本当に中を見ていないの?」
部屋の空気が、凍りついた。
航平の視線が、自分の左手に落ちる。
彼は一瞬だけ、苦い表情を浮かべ、それから自嘲気味に息を吐いた。
「……気づいていたか。さすがだな、紗季」
彼はゆっくりと、袖口からその紙片を取り出した。
それは、二通目の封筒の「切れ端」ではなかった。
それは――。
「これは、十五年前の新聞記事のコピーだ。……俺がずっと、個人的に調べていた事件のな」
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航平が差し出した紙片。
そこには、小さな囲み記事で「未解決のまま捜査終結へ」という見出しが躍っていた。
被害者は、当時二十歳の女子大生。
紗季と同じ大学に通っていた、彼女の友人。
「……美咲のこと?」
「そうだ。彼女が死んだあの日、現場にいたのはお前だけじゃなかった。俺もいた。……そして、もう一人いたんだ」
航平の声が、微かに震えていた。
「俺は、お前を守るために『何も見ていないことにしろ』と言った。けれど、それは間違いだった。俺が本当に守りたかったのは、お前じゃなくて、自分自身だったんだ」
「どういうこと……?」
「あの日、俺は見てしまったんだ。美咲を刺した男が、警察の制服を着ていたのを」
紗季の背筋を、衝撃が突き抜けた。
警察官が、犯人。
だから、さっきの佐久間という刑事は、自分を殺そうとしていたのか。
目撃者を、一人残らず排除するために。
「俺は、その警察官の顔を覚えていた。……それが、さっきお前を追い詰めていた佐久間だ。奴は当時、事件の担当刑事だった。……自分の罪を、自分で捜査して、握りつぶしたんだよ」
航平の話が真実なら、すべてのパズルのピースが繋がり始める。
タクシーの男が言っていた「別の事件」も、佐久間が自分を犯人に仕立て上げようとしているという警告も。
「でも、なんで今になって、あの封筒が届いたの? 誰が送ってきたの?」
「……それは、俺にも分からない。だが、一つだけ確かなことがある」
航平は紗季の両肩を掴み、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「あの『ロッカー103』。あそこには、佐久間が喉から手が出るほど欲しがっている『証拠』が眠っているはずだ。そして、それを開けられるのは、あのICカードを持っているお前だけなんだ」
紗季は、自分の手の中にあるICカードの冷たさを感じた。
これが、唯一の武器。
そして、自分を死へと追いやる呪い。
「……明日、行くわ。あの駅へ」
「俺も一緒に行く」
「いいえ。あなたは来ないで」
紗季は、はっきりと拒絶した。
航平の話を信じたい。けれど、彼の目の中に宿る「何か」が、まだ彼女の警戒心を解くことを許さなかった。
彼が本当に正義のために動いているのか。それとも、彼自身も佐久間に脅され、自分をロッカーまで誘い出す「犬」として使われているのか。
三十六歳の女は、孤独であることを選んだ。
「一人で行く。……それが、あのタクシーの男との約束だから」
嘘だ。
タクシーの男はそんな約束などしていない。
けれど、航平を遠ざけるためには、それらしい理由が必要だった。
「……分かった。深追いはしない」
航平は意外にもあっさりと手を引いた。
彼は窓際へ歩み寄り、カーテンの隙間から外の様子を窺った。
「夜が明けたら、俺が駅の近くまで送る。……紗季。これだけは信じてくれ。俺はお前を、今度こそ失いたくないんだ」
その言葉に、偽りはないように聞こえた。
けれど、紗季は答えないまま、ベッドに横たわった。
暗闇の中で、彼女は浴衣のポケットに忍ばせた「裁断機のレバー」の硬さを確かめる。
外では、まだサイレンが鳴り響いている。
まるで、世界が終わりを告げるオーケストラの演奏を続けているかのように。
紗季は目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、十五年前の自分の声。
『ごめんなさい。私は、あなたを裏切りました』
その言葉の「あなた」とは、航平のことなのか。
それとも、死んでしまった友人、美咲のことなのか。
あるいは、正義を捨てて生きることを選んだ、自分自身のことなのか。
答えは、明日の午後三時、あの冷たい鉄の扉の向こうにある。




