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『名前のない終止符 ―36歳の私が拾った、15年目の断罪―』  作者: 久遠 睦


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第二章:闇を泳ぐ魚(後編)

4

 ビジネスホテルの駐車場は、湿ったコンクリートの臭いが充満していた。

 航平がエンジンを切ると、車内は急激に冷え込んでいった。さっきまで鳴り響いていたサイレンが、遠い幻聴のように耳の奥で反復している。

 紗季は、膝の上に置かれた「二通目の封筒」を凝視した。

 そこにある、自分の筆跡。

『ごめんなさい。私は、あなたを裏切りました』

 その言葉は、まるで鋭利な氷の破片となって、彼女の記憶の深淵をかき乱す。

「紗季……。大丈夫か?」

 航平が隣から声をかけてくる。その声は、十五年前と変わらず優しく、落ち着いたトーンだった。だが、今の紗季にとって、その優しさは毒を含んだ蜜のように感じられた。

 彼女の視線は、航平の左手の袖口に向けられたままだ。そこに見える、白い紙の端切れ。それは、彼がこの封筒を開けた、あるいは別の何かを隠し持っている証拠ではないのか。

「ねえ、航平」

「なんだ?」

「さっき、家に見知らぬ連中が入っていくのを見たって言ったよね」

「ああ。黒い服を着た男たちだった。ただの空き巣じゃない。動きが訓練されていた。だから、お前の身が心配で……」

「……そう。ありがとう」

 紗季は嘘をついた。

 感謝の言葉を口にしながら、心の中では冷徹な計算を始めていた。

 航平が本当に自分の家を見張っていたのなら、なぜ彼は「タクシーの男」や「佐久間」の存在を正確に把握していないのか。それとも、把握した上で、救世主の面を被って接触してきたのか。

 三十六歳。彼女はこの歳月で、人を疑うという悲しい処世術を身につけてしまっていた。

 かつて愛した男であっても、空白の十五年は、彼を完全な「他人」に変えるには十分すぎる時間だ。

「ここなら、あいつらもすぐには追ってこれないはずだ。とりあえず、チェックインしよう。お前、足が……」

 航平が、裸足の紗季の足元を見て顔を顰めた。

 泥と細かな傷にまみれた足先。パンプスを捨てた解放感は、今や歩くたびに走る鋭い痛みへと変わっている。

「歩けるわ」

「無理するな。ほら」

 航平が、車の中にあった予備のサンダルを差し出す。

 紗季はそれを借りて、よろよろと車を降りた。

 ホテルのロビーは、深夜特有の静寂と、少し古びた芳香剤の匂いに包まれていた。フロントの男は、疲れ果てた表情で、泥だらけの女と、それを支える男を無感動に一瞥しただけで、機械的に鍵を渡した。

 エレベーターの狭い空間。

 肩を寄せ合う二人の影が、鏡の中に映し出される。

 かつての恋人同士。

 だが、その間には、十五年前の「あの日」の死体と、真っ白な封筒が横たわっている。

5

 402号室。

 部屋に入ると、紗季はすぐにバスルームへ駆け込んだ。

 蛇口を捻り、熱い湯を出す。

 サンダルを脱ぎ、泥に汚れた足を洗う。

 お湯が傷口に沁みて、彼女は思わず声を漏らした。

(落ち着け、紗季。考えろ)

 手元にあるもの。

 一通目の封筒から抜き取った「ロッカーの鍵の写真」。

 二通目の封筒に入っていた「ICカード」と「自分の手紙」。

 そして、タクシーの男が言った『103』という数字。

 この断片を繋ぎ合わせれば、自分が封印したはずの真実に辿り着ける。

 けれど、その真実を誰が望んでいるのか。

 タクシーの男か、汚職警官の佐久間か、それとも――この部屋のドアの向こうにいる航平か。

 湯気の中に、十五年前の雨の夜が浮かび上がる。

 あの日、彼女は大学の帰りに、いつもとは違う近道を通った。

 路地裏。

 激しい雨音を突き破るような、鈍い衝撃音。

 駆け寄った先で、彼女が見たのは……。

「……そうだ。私は、あの日、彼に会ったんだ」

 記憶の霧が、ほんの一瞬だけ晴れた。

 事件現場のすぐ近く。

 街灯の影に隠れるようにして立っていた人物。

 それは、当時付き合っていた航平だったのではないか?

 紗季は、自分の記憶が恐怖によって改ざんされている可能性を疑った。

 けれど、あの時、航平は酷く怯えた表情をしていた。

 そして、彼女にこう言ったのだ。

『何も見ていない。いいな、紗季。俺もお前も、今日はここに来ていないんだ』

 その言葉に従い、彼女は沈黙を守った。

 だが、その直後。

 現場に落ちていた「何か」を、彼女は反射的に拾い、バッグに隠してしまった。

 それが、今日という日を招く呪いの種だったとも知らずに。

「紗季、着替えを持ってきた。ホテルの浴衣だけど」

 ドア越しに航平の声が聞こえた。

 紗季は慌てて足を拭き、バスルームを出た。

 航平はベッドの端に腰掛け、テレビのニュースを無音で流していた。

 画面の中では、赤と青のパトライトが激しく点滅している。

 テロップには「都内で大規模な通信障害と複数の不審火」という文字が躍っていた。

「……街が、大変なことになっているわね」

「ああ。さっきのサイレンは、これのせいだろう。何者かが意図的に警察の網を撹乱している」

 航平がリモコンを操作して、画面を消した。

 暗くなった部屋の中で、彼がゆっくりと立ち上がる。

「それで、紗季。……封筒の中に、何が入っていた?」

 核心を突く問い。

 紗季は、ベッドの上に置いてあったICカードを隠すように、浴衣の裾を握りしめた。

「……大したものは入っていなかったわ。ただの、昔の手紙よ」

「そうか。……嘘をつくのが下手になったな、お前」

 航平の距離が、一歩縮まる。

 彼は笑っていなかった。

 その目は、かつての恋人を見守る慈愛ではなく、隠し事を見透かそうとする執念に満ちていた。

「航平、あなたこそ、私に隠していることはないの?」

「何が言いたい」

「あなたの袖口。……さっきから白い紙の破片が見えているわ。……私の家のポストにあった封筒、本当に中を見ていないの?」

 部屋の空気が、凍りついた。

 航平の視線が、自分の左手に落ちる。

 彼は一瞬だけ、苦い表情を浮かべ、それから自嘲気味に息を吐いた。

「……気づいていたか。さすがだな、紗季」

 彼はゆっくりと、袖口からその紙片を取り出した。

 それは、二通目の封筒の「切れ端」ではなかった。

 それは――。

「これは、十五年前の新聞記事のコピーだ。……俺がずっと、個人的に調べていた事件のな」

6

 航平が差し出した紙片。

 そこには、小さな囲み記事で「未解決のまま捜査終結へ」という見出しが躍っていた。

 被害者は、当時二十歳の女子大生。

 紗季と同じ大学に通っていた、彼女の友人。

「……美咲みさきのこと?」

「そうだ。彼女が死んだあの日、現場にいたのはお前だけじゃなかった。俺もいた。……そして、もう一人いたんだ」

 航平の声が、微かに震えていた。

「俺は、お前を守るために『何も見ていないことにしろ』と言った。けれど、それは間違いだった。俺が本当に守りたかったのは、お前じゃなくて、自分自身だったんだ」

「どういうこと……?」

「あの日、俺は見てしまったんだ。美咲を刺した男が、警察の制服を着ていたのを」

 紗季の背筋を、衝撃が突き抜けた。

 警察官が、犯人。

 だから、さっきの佐久間という刑事は、自分を殺そうとしていたのか。

 目撃者を、一人残らず排除するために。

「俺は、その警察官の顔を覚えていた。……それが、さっきお前を追い詰めていた佐久間だ。奴は当時、事件の担当刑事だった。……自分の罪を、自分で捜査して、握りつぶしたんだよ」

 航平の話が真実なら、すべてのパズルのピースが繋がり始める。

 タクシーの男が言っていた「別の事件」も、佐久間が自分を犯人に仕立て上げようとしているという警告も。

「でも、なんで今になって、あの封筒が届いたの? 誰が送ってきたの?」

「……それは、俺にも分からない。だが、一つだけ確かなことがある」

 航平は紗季の両肩を掴み、真っ直ぐに彼女の目を見た。

「あの『ロッカー103』。あそこには、佐久間が喉から手が出るほど欲しがっている『証拠』が眠っているはずだ。そして、それを開けられるのは、あのICカードを持っているお前だけなんだ」

 紗季は、自分の手の中にあるICカードの冷たさを感じた。

 これが、唯一の武器。

 そして、自分を死へと追いやる呪い。

「……明日、行くわ。あの駅へ」

「俺も一緒に行く」

「いいえ。あなたは来ないで」

 紗季は、はっきりと拒絶した。

 航平の話を信じたい。けれど、彼の目の中に宿る「何か」が、まだ彼女の警戒心を解くことを許さなかった。

 彼が本当に正義のために動いているのか。それとも、彼自身も佐久間に脅され、自分をロッカーまで誘い出す「犬」として使われているのか。

 三十六歳の女は、孤独であることを選んだ。

「一人で行く。……それが、あのタクシーの男との約束だから」

 嘘だ。

 タクシーの男はそんな約束などしていない。

 けれど、航平を遠ざけるためには、それらしい理由が必要だった。

「……分かった。深追いはしない」

 航平は意外にもあっさりと手を引いた。

 彼は窓際へ歩み寄り、カーテンの隙間から外の様子を窺った。

「夜が明けたら、俺が駅の近くまで送る。……紗季。これだけは信じてくれ。俺はお前を、今度こそ失いたくないんだ」

 その言葉に、偽りはないように聞こえた。

 けれど、紗季は答えないまま、ベッドに横たわった。

 暗闇の中で、彼女は浴衣のポケットに忍ばせた「裁断機のレバー」の硬さを確かめる。

 外では、まだサイレンが鳴り響いている。

 まるで、世界が終わりを告げるオーケストラの演奏を続けているかのように。

 紗季は目を閉じた。

 瞼の裏に浮かぶのは、十五年前の自分の声。

『ごめんなさい。私は、あなたを裏切りました』

 その言葉の「あなた」とは、航平のことなのか。

 それとも、死んでしまった友人、美咲のことなのか。

 あるいは、正義を捨てて生きることを選んだ、自分自身のことなのか。

 答えは、明日の午後三時、あの冷たい鉄の扉の向こうにある。


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