第二章:闇を泳ぐ魚(前編)
1
静寂が、耳を劈く。
電気が消えた瞬間、交番という四角い空間は、この世から切り離された深海へと変わった。
視界を奪われた代わりに、他の感覚が異常なほど鋭敏になる。雨に濡れた佐久間の制服が発する湿ったウールの臭い。外で鳴り響くサイレンの、内臓を揺さぶるような低周波。そして、目の前にいる「捕食者」が放つ、殺気という名の熱量。
「……あ」
紗季は、自分の心臓の音が外まで漏れているのではないかと恐怖した。
闇の中で、佐久間が動く気配がする。衣擦れの音。ホルスターから何かが引き抜かれる、硬質な金属音。
死ぬ。
三十六年の月日が、走馬灯のように駆け巡ることもなかった。ただただ、冷たい指先が、握りしめた裁断機のレバーに食い込んでいることだけが、今の自分のすべてだった。
「無駄だよ、間宮さん。この状況でどこへ逃げるつもりだ?」
佐久間の声が、すぐ近くから聞こえる。
紗季は、デスクの下に潜り込んだまま、全神経を集中させて「出口」の位置を思い描いた。
入り口の引き戸までは約三メートル。その間には、佐久間が立っているはずの空間がある。
右側には、警察官が休憩に使うための小さな流し台。
左側には、先ほどまで座っていたパイプ椅子。
紗季は、左手に持っていたバッグを、思い切り右側の流し台の方へ投げつけた。
ガッシャン、という、陶器が割れるような激しい音が響く。
「そこか!」
佐久間の足音が右へ動いた。
今だ。
紗季は、裁断機のレバーを盾のように構え、這い出すようにして入り口へと突進した。
暗闇の中、何かに肩がぶつかる。パイプ椅子だろうか。激痛が走るが、止まらない。
引き戸の取っ手に手が触れる。
鍵は、さっき佐久間が入ってきた時に開けられたままだ。
戸を乱暴に引き開けると、外の狂ったような赤い光が目に飛び込んできた。
サイレンの音は、もはや一つの和音となって空気を震わせている。
紗季は、交番を飛び出した。
「待て! 止まれ!」
背後で佐久間の怒号が響く。
振り返る余裕はない。雨が、いつの間にか激しくなっていた。
一月のみぞれ混じりの雨。それが、ストッキング一枚の足首に突き刺さる。
紗季は、駅へと続く幹線道路とは逆の、暗い住宅街の路地へと逃げ込んだ。
右。左。さらに右。
自分がどこを走っているのかも分からない。
普段なら、地図アプリなしでは歩けないような迷路のような路地。
けれど、今の彼女を動かしているのは、脳の奥底に眠っていた生存本能だった。
コンクリートの塀をなぞり、ゴミ捨て場の影に隠れ、息を殺す。
肺が、焼けるように熱い。
喉の奥で、鉄の味がする。
(なんで、あんな写真が。なんで、あの刑事が……)
十五年前の「あの日」。
雨の夜、彼女が見てしまったのは、一人の男が路地裏で倒れている姿だった。
その傍らに立ち、血に汚れた手でナイフを握っていたのは――。
記憶の中の犯人の顔は、長い年月の霧に包まれてはっきりしない。
だが、あの日、警察に「何も見ていない」と嘘をついた自分の臆病さだけは、鮮明に覚えている。
その嘘の対価が、今のこの逃走劇だというのか。
2
サイレンの音が、少しずつ遠ざかっていく。
いや、遠ざかっているのではない。街中に分散しているのだ。
パトカーが、まるで網を張るように、この一帯を囲い込んでいる。
紗季は、自販機の灯りさえも恐ろしく感じ、人影のない公園の植え込みに身を潜めた。
膝が笑っている。
ヒールの片方が、どこかで脱げてしまった。
残った左足の靴を脱ぎ捨てると、地面の冷たさがダイレクトに脳を揺さぶった。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
濡れた前髪が顔に張り付く。
バッグを失った今、手元にあるのは、右手に握りしめたままの「裁断機のレバー」と、コートのポケットに無意識にねじ込んだ「あの写真の最後の一枚」だけだった。
佐久間に封筒を渡す直前、彼女は本能的に、一番下にあった写真だけを抜き取っていた。
震える指で、ポケットからその写真を取り出す。
街灯の微かな光の下で、それを見た。
写真は、人物を写したものではなかった。
それは、どこかの「ロッカー」の鍵のクローズアップだった。
鍵には、掠れた文字で『103』という数字が刻まれている。
そして、その背景に写り込んでいる特徴的な看板。
『スカイブルー・コインロッカー』
紗季はその名に心当たりがあった。
大学時代、毎日通っていた駅の裏口にある、古びたロッカーだ。
なぜ、この写真が。
あの日、私が何かをそこに隠したとでもいうのか。
それとも、誰かが私に「そこへ行け」と命じているのか。
「……見つけた」
低い声が、頭上から降ってきた。
紗季は全身の毛が逆立つのを感じた。
植え込みの向こう側。
そこには、警察官の佐久間ではなく、あの「タクシーの男」が立っていた。
黒いロングコート。深く被った帽子。
街灯に照らされたその顔は、三十代後半から四十代ほどに見える。
整っているが、どことなく生気を感じさせない、彫像のような顔立ち。
「君は、運がいいのか悪いのか分からないな」
男は、ゆっくりと植え込みを回り込み、紗季の正面に立った。
紗季は裁断機のレバーを構える。
滑稽な姿だと、自分でも思った。三十六歳の女が、裸足で、鉄の棒を持って震えている。
「来ないで。警察を呼ぶわ……あ」
自分で言って、絶望した。
警察官こそが、自分を殺そうとしている張本人だったのだから。
「佐久間は、今、本部に『重要参考人を確保し損ねた』と虚偽の報告を入れている。君を、この街で起きた『別の事件』の犯人に仕立て上げるつもりだ」
男の言葉に、紗季は息を呑んだ。
「別の、事件?」
「さっきから鳴り止まないサイレンだよ。この近くの貴金属店で強盗殺人事件があった。佐久間はその初動捜査に紛れて、君を『逃走中の犯人』として射殺するつもりだ。そうすれば、十五年前の秘密は永遠に闇の中だからね」
男の語る言葉は、あまりにも荒唐無稽で、それでいて不気味なほどの真実味を持っていた。
今の日本で、警察官がそんな大胆な偽装をするはずがない。
そう思いたい自分と、佐久間のあの冷たい目を信じる自分が、脳内で激しくぶつかり合う。
「……あなたは、誰なの? なぜ、私を助けるような口ぶりをするの?」
「助ける? いや、そんな高尚なものじゃない。俺はただの『受取人』だ。君が持っている、その写真を渡してもらいたいだけだ」
男の目が、紗季のポケットに向けられた。
ロッカーの鍵の写真。
これが、彼らの狙い。
「これは渡さない。これが、私の唯一の身を守るカードだわ」
「カード? いや、それは死への片道切符だ。君がそれを持っている限り、佐久間も、彼の背後にいる組織も、君を追い続ける」
男は、一歩距離を詰めた。
紗季はレバーを振り回すが、男は軽々とした動きでそれを避け、彼女の手首を掴んだ。
「痛っ……!」
「静かに。君の『誕生日』を台無しにしたくないんだ」
男の指先は、驚くほど冷たかった。
だが、その瞬間。
遠くから、鋭いブレーキ音が響いた。
白いライトが、公園の入り口を激しく照らす。
パトカーではない。民間のセダンだ。
「ちっ……嗅ぎつけられたか」
男は紗季の手首を離すと、彼女の耳元で囁いた。
「『103』の中身を確認したければ、明日の午後三時、あの駅へ行け。ただし、一人でだ。……生き残れたら、の話だがな」
男は脱兎のごとく、闇の中へと消えていった。
取り残された紗季の前で、セダンのドアが開く。
中から出てきたのは――。
「紗季! 紗季なのか!」
聞き覚えのある、懐かしい声。
そこに立っていたのは、十五年前、彼女の恋人だった男、**野上航平**だった。
3
世界が、急速に歪んでいく。
十五年間、一度も会うことのなかった元恋人が、なぜこの絶体絶命のタイミングで、この場所に現れるのか。
偶然。
その言葉で片付けるには、あまりにも出来過ぎている。
航平は、学生時代の面影を残しつつも、どこか疲弊した大人の表情をしていた。
彼は裸足の紗季を見て絶句し、すぐに自分の上着を脱いで彼女の肩にかけた。
「詳しいことは後だ。とにかく乗れ。ここにいたら消されるぞ」
紗季は躊躇した。
佐久間。タクシーの男。そして、かつての恋人。
誰を信じればいいのか、今の彼女には判断がつかない。
しかし、遠くからこちらに向かってくる複数の足音と、再び近づいてくるサイレンの音が、彼女の背中を押した。
セダンの助手席に滑り込む。
車内には、微かにタバコと、昔と変わらないシトラス系の香水の匂いが漂っていた。
航平は荒々しくアクセルを踏み、タイヤを鳴らして公園を脱出した。
「航平……なんで、ここに……」
「お前の家に、妙な連中が入り込むのを見たんだ。慌てて追いかけてきたら、この騒ぎだ」
航平はハンドルを握る手に力を込める。
バックミラーを何度も確認するその仕草は、彼もまた「追われる側」の人間であることを示唆していた。
「家に入り込んだ? 誰が?」
「分からない。だが、普通の泥棒じゃない。警察の車両が家の周りを見張っていた。……紗季、お前、十五年前のことを誰かに話したのか?」
紗季は、膝の上で震える自分の指を見つめた。
誰にも話していない。
親にも、親友にも、そして当時付き合っていた航平にすら。
あの日、彼女が路地裏で見た光景。
そして、その場に落ちていた「あるもの」を持ち去ってしまった、自分自身の罪。
「いいえ。誰にも。墓場まで持っていくって、決めていたから」
「……そうか。だが、向こうはそうは思っていないらしい」
航平は車を、幹線道路から外れた古びたビジネスホテルの駐車場に入れた。
「今夜はここに泊まれ。俺が名前を変えて予約してある。……それと、これをお前に渡しておかなきゃいけない」
航平がポケットから取り出したのは、一枚の古びた封筒だった。
紗季が拾ったものと同じ、あの真っ白で厚みのある、宛名のない封筒。
「これを……どこで?」
「お前の家のポストに入っていた。中身は見ていない。だが、お前が持っているべきだと思った」
紗季は震える手で、その二通目の封筒を受け取った。
一通目は、佐久間に奪われた。
そして、今、手元にあるこの封筒。
彼女は、航平の視線を跳ね除けるように、無理やり封を切った。
中から出てきたのは、一枚のICカード。
そして、十五年前の自分の筆跡で書かれた、短い手紙だった。
『ごめんなさい。私は、あなたを裏切りました』
それを見た瞬間、紗季の記憶の奥底で、鮮血のような赤い感情が弾けた。
裏切った?
私が?
誰を?
同時に、ある強烈な違和感が彼女を襲った。
航平は「中身は見ていない」と言った。
だが、彼がハンドルを握る左手の袖口から、微かに「同じ紙質の白い破片」が覗いているのを、紗季は見逃さなかった。
隣に座っている男は、本当に救世主なのか。
それとも、自分を「絶望」という名の終着駅へ運ぶ、最後のタクシー運転手なのか。
夜は、まだ始まったばかりだった。
三十六歳の誕生日は、終わりの始まりに過ぎない。




