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『名前のない終止符 ―36歳の私が拾った、15年目の断罪―』  作者: 久遠 睦


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2/12

第一章:水曜日のデジャヴ(後編)

2

 指先が、氷に触れたように冷たい。

 紗季は、無人の交番の床にへたり込んだまま、その写真を見つめ続けていた。

 十五年前。当時、彼女は二十一歳。都内の私立大学に通う、どこにでもいる学生だった。

 写真の中の彼女は、今よりもずっと短い髪を振り乱し、雨に濡れたコンクリートの上で立ち尽くしている。その足元には、黒ずんだ赤が広がっていた。街灯の光を反射して、どろりと不気味に光る血溜まり。その中心に横たわる「何か」を、彼女はただ、呆然と見下ろしていた。

 記憶の蓋が、内側から激しく叩かれる音がした。

 忘れたはずはなかった。ただ、厳重に梱包し、心の最も深い、光の届かない場所へ沈めていただけだ。

 あの日。あの雨の夜。

 就職活動を控えた、将来への漠然とした不安の中にいた彼女が目撃したもの。

 そして、その場で「選択」してしまった沈黙。

「……なんで、今になって」

 掠れた声が、自分の耳にも見知らぬ誰かのもののように聞こえた。

 封筒の底から、もう一枚の紙片が滑り落ちる。

 それは写真ではなく、どこかのホテルのメモ帳を千切ったような、小さな紙の端切れだった。

 そこには、万年筆による力強い、だがどこか歪んだ筆跡でこう記されていた。

『誰も、逃げ切ることはできない。三十六歳の誕生日、おめでとう。間宮紗季さん』

 心臓が、喉元までせり上がってくるような錯覚を覚えた。

 誕生日。

 先週、誰に祝われることもなく、コンビニの小さなケーキで済ませた、あの夜のことだ。

 犯人は知っている。

 私の名前を。

 私の現在の居場所を。

 そして、十五年前に私が何を見たのかを。

 その時、交番の古い電話機が、沈黙を破って鳴り響いた。

 ――ジリリリリリリリ!!

 悲鳴を上げそうになり、紗季は口を手で覆った。

 けたたましいベルの音は、狭い室内で反響し、彼女の鼓膜を容赦なく叩く。

 誰もいないはずの空間。

 鍵をかけたはずの場所。

 なぜ、このタイミングで?

 出なければいい。そう思っても、電話は鳴り止まない。

 まるで、紗季がそこにいることを確信しているかのような、執拗な呼び出し音。

 震える手で、受話器に指をかける。

 受話器を耳に当てるまで、永遠のような時間が流れた気がした。

「……はい、……矢来町交番です」

 精一杯、警察官を装おうとした声は、無様に震えていた。

 受話器の向こう側からは、最初、何も聞こえなかった。

 ただ、不気味なほどの静寂。

 そして、遠くで聞こえる、あの「夥しいサイレン」の音が、受話器を通じても微かに聞こえてくる。

『開けてしまったんだね』

 低く、抑揚のない男の声だった。

 金属を擦り合わせたような、感情の欠落した声。

「……あなた、誰。あのタクシーの人?」

『その写真は、君への招待状だ。十五年、長く待ちすぎたよ。紗季』

 男は、親しげに彼女を名前で呼んだ。

 その響きに、吐き気がした。

『外を見てごらん。街が騒がしいだろう?』

「何をしたの……。あのサイレンは、何?」

『君を自由にするための、祝砲さ。今から三十秒後、その交番の前に、一台の黒いセダンが止まる。それに乗りなさい。さもなければ――』

 言葉が途切れる。

 代わりに聞こえてきたのは、背後の「磨りガラス」を、コンコンと叩く指の音だった。

 ヒッと息を呑み、紗季は受話器を落とした。

 受話器はコードに吊るされ、壁に当たって虚しく揺れている。

 磨りガラスの向こう。

 街灯の逆光を背負って、巨大な人影が浮かび上がっていた。

 鍵はかかっている。

 だが、この古い扉が、その執念を阻んでくれるとは到底思えなかった。

3

 外のサイレンは、さらに数を増していた。

 一台、二台ではない。十台、二十台といった規模の緊急車両が、この交番の前の幹線道路を、地響きを立てて通り過ぎていく。

 まるで、巨大な怪物が街のどこかに出現し、すべての秩序を食い荒らしているかのようだ。

 紗季は、這うようにして交番の奥、事務デスクの下に身を隠した。

 警察官が使っているであろう、少し埃っぽい匂いのする空間。

 そこで彼女は、自分が持っている「封筒」の重みを再確認した。

 この封筒を落とした男。

 私を追いかけてきた足音。

 そして、今の電話。

 すべてが、精巧に組まれた歯車のように噛み合っている。

(どうして私が? 私はただ、真面目に生きてきただけなのに)

 会社では、理不尽な上司の小言に耐え、後輩のフォローに回り、週末は溜まった家事と格闘する。

 そんな、どこにでもある平凡な、けれど懸命な日々。

 それを、十五年前の、あの一夜の過ちだけで、すべて奪われてしまうのか。

「……いやだ」

 小さな呟きが、デスクの下で消える。

 その時、交番の入り口で「ガシャリ」と音がした。

 鍵が壊された音ではない。

 合鍵を使って、誰かが堂々と入ってきたような、そんな音。

「おい、誰かいるのか?」

 聞こえてきたのは、先ほどの電話の男とは違う、年配の男の声だった。

 紗季は息を止める。

 デスクの隙間から見えたのは、泥に汚れた革靴と、紺色の制服のズボン。

 警察官だ。

 安堵の波が、一気に押し寄せる。

 ようやく、警察が戻ってきた。これで助かる。この封筒を渡し、事情を話せば、あの男からも、過去の亡霊からも守ってもらえるはずだ。

「……あ、あの、すみません! 助けてください!」

 紗季はデスクの下から這い出した。

 目の前に立っていたのは、五十代半ばほどの、白髪混じりの警察官だった。

 その顔には深い疲労の色が刻まれ、雨に濡れたのか制服がしっとりと重そうに見える。

「なんだ、君。どうしてここに……。鍵をかけていたのか?」

「すみません、誰かにつけられていて。怖くて、勝手に入って……。あ、これ、落とし物なんです。これを拾ってから、変な電話が来て……」

 紗季は必死に、手に持っていた封筒を差し出した。

 警察官は、訝しげにその封筒を受け取った。

 だが、その瞬間。

 紗季の目に、彼の胸元の「階級章」が映った。

 ひどく曲がっている。

 そして、その下にある名札。

 そこには、彼女が先ほど封筒の中のメモで見かけた、「ある名前」と同じ苗字が刻まれていた。

 ――佐久間。

 十五年前。

 失踪した女子大生を担当し、その後、不祥事で警察を去ったと言われていた刑事の名前。

 なぜ、今、目の前の警察官が、その名を名乗っているのか。

 警察官の目が、ゆっくりと紗季に向けられた。

 先ほどまでの疲弊した表情が、一瞬で消える。

 代わりに宿ったのは、爬虫類のような、冷たく鋭い光。

「……君か」

 彼が言った言葉は、助けを求める市民に向けるものではなかった。

 獲物を追い詰めた猟師の、低い独り言だった。

「君が、あの夜の、最後の目撃者か」

 紗季の脳内で、警報が鳴り響く。

 目の前にいるのは、味方ではない。

 街中を埋め尽くすサイレンは、自分を助けるためのものではなく、この男を呼び戻すための「合図」だったのではないか。

 紗季は、一歩後退りした。

 背中が、壁に貼られた指名手配犯のポスターに当たる。

 警察官――佐久間と名乗る男は、預かった封筒を無造作にポケットにねじ込むと、腰のホルスターに手をかけた。

「残念だよ、間宮紗季さん。あと数分、早くここを出ていれば、君は平凡な会社員のまま死ねたのに」

 その時、交番の外を、爆音と共に数台のパトカーが猛スピードで走り抜けていった。

 青白いストロボのような光が室内を激しく照らす。

 その光の点滅の中で、紗季は見た。

 佐久間の背後の窓ガラスに、もう一人、黒いコートを着た「あのタクシーの男」が立っているのを。

 二人の男に挟まれた、逃げ場のない小部屋。

 外では鳴り止まない、不吉なサイレン。

 紗季は、震える手で隣の事務机にあった「裁断機ペーパーカッター」のレバーを握りしめた。

 それが、三十六歳の彼女が、初めて世界に対して剥き出しにした「牙」だった。

「……来ないで。来たら、叫ぶから」

 佐久間が冷笑し、一歩踏み出した。

 その瞬間、交番の電気が、音を立てて消えた。

 完全な暗黒。

 サイレンの音だけが、地獄の業火のように轟いている。

 紗季は闇の中で、全力で駆け出した。


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