第1章:水曜日のデジャヴ(前編)
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三十六歳という年齢は、人生という長い物語において、もっとも「中途半端な」ページなのかもしれない。
二十代のような全能感はない。かといって、四十代のような達観もまだ手に入れていない。
間宮紗季は、ビルの窓ガラスに映る自分の姿を見るたび、出口のない迷路を歩いているような感覚に陥る。
肩に食い込むノートパソコンの重み。冷暖房で乾燥しきった肌。そして、誰にも必要とされていないわけではないが、代わりはいくらでもいるという、砂を噛むような事務職の日常。
「お疲れ様でした」
午後八時十五分。定型文のような挨拶をオフィスに残し、紗季は会社を後にした。
一月の夜気は、容赦なくコートの隙間を潜り抜けてくる。コンクリートの都会は、昼間の熱をすっかり失い、ただ冷たく、無機質な表情で紗季を迎え入れた。
いつもの駅へ向かう道。街灯が等間隔に、疲れ果てた労働者たちの影を路面に長く引き延ばしている。
紗季の十メートルほど前を、一人の男が歩いていた。
黒いロングコートに、深々と被った帽子。足早だが、どこか不安定な足取り。紗季は何とはなしにその背中を眺めていた。都会の夜、前を歩く誰かの背中を追うのは、一種の生存確認のようなものだ。
角を曲がろうとしたその時だった。
男の脇から、白い塊が滑り落ちた。
パサリ、と、乾いた音がした。
「あ……」
紗季の口から小さな声が漏れた。
男は気づかない。そのまま、大通りで客待ちをしていたタクシーのドアを開け、滑り込むように乗り込んだ。
「あ、ちょっと! 落とし物ですよ!」
紗季は駆け出した。パンプスのヒールがアスファルトを叩く音が、静かな夜の路地裏に響く。
しかし、非情にもタクシーのドアは閉まった。
排気ガスの臭いを残し、テールランプが夜の闇に溶けていく。
紗季は足を止め、荒い息を吐きながら、足元に落ちた「それ」を見つめた。
それは、真っ白な封筒だった。
宛名もなければ、差出人の名前もない。ただ、ずっしりとした厚みがある。
拾い上げると、上質な紙の感触が指先に伝わってきた。普通の事務用封筒ではない。どこか重厚で、触れてはいけない冷たさを孕んでいるような気がした。
「どうしよう……」
タクシーのナンバーは見ていない。
追いかけることもできない。
交番に届けるのが正解だろう。幸い、次の角を曲がれば、小さな地域交番があるはずだ。
紗季は封筒をしっかりと握りしめ、歩き出した。
だが、その瞬間。
背筋を、氷の刃でなぞられたような戦慄が走った。
コツ、コツ、コツ。
後ろから、足音が聞こえる。
自分が止まれば止まり、歩けば歩く。
最初は気のせいだと言い聞かせた。ここは東京だ。人が後ろを歩いていることなど、珍しくもない。
けれど、その足音は、あまりにも正確に自分の歩調に同期していた。
心拍数が、跳ね上がる。
紗季は不自然にならない程度に歩行速度を上げた。
後ろの足音も、速くなる。
怖くて振り返れない。振り返って、もし「誰か」と目が合ってしまったら、その瞬間に自分の日常が粉々に砕けてしまう。そんな予感があった。
(落ち着け、紗季。あと百メートルで交番だ。そこに行けばお巡りさんがいる。大丈夫。大丈夫だから)
自分を鼓舞するように、バッグのストラップを握り直す。
だが、背後の足音は確実に距離を詰めてきていた。
カチ、カチ、という、硬い靴音が、まるで死神のカウントダウンのように耳にこびりつく。
恐怖が限界を超え、紗季はなりふり構わず走り出した。
「はっ、はっ、はっ……!」
冷たい空気が肺を焼き、喉の奥が鉄の味がした。
角を曲がる。見えてきた。赤色灯が灯る、小さな交番。
そこは、この不確かな夜における唯一の聖域に見えた。
紗季は勢いよく交番の引き戸を開けた。
「すみません! お願いします、助けてください!」
叫びながら飛び込んだ室内。
しかし、そこに返ってくる声はなかった。
無人だった。
パイプ椅子、古い地図、壁に貼られた指名手配犯のポスター。
それらが、蛍光灯の青白い光に照らされ、沈黙を守っている。
机の上には『パトロール中』と書かれた、古びた立て札が置かれていた。
「嘘……でしょ……」
紗季は膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、震える手で中から鍵をかけた。
外を覗く勇気はない。
ただ、磨りガラスの向こう側を、誰かが通り過ぎないか、あるいはドアを叩きはしないか、それだけを凝視していた。
一分。二分。
静寂が、鋭利な刃物のように紗季の神経を削っていく。
外からはもう、あの足音は聞こえない。だが、それが逆に恐ろしかった。どこかで、潜んでいるのではないか。この壁のすぐ向こう側で、息を殺してこちらを窺っているのではないか。
その時だった。
――ウゥゥゥゥゥン。
遠くで、地鳴りのような音が聞こえた。
最初は一つだった。それが二つになり、三つになり、やがて夜の街全体を覆い尽くすような、夥しい数のサイレンへと変わった。
パトカーの、けたたましい警告音。
交番の前を、何台もの赤い光が通り過ぎていく。
一つ、また一つ。光の奔流が、無人の交番の壁を激しく明滅させる。
「何……? 何が起きているの?」
尋常ではない。
ただの事件ではない。この街で、今、何かが致命的に壊れようとしている。
紗季は、まだ自分の手の中にある「封筒」を見た。
タクシーの男が落とした、名もなき封筒。
これを拾ったから、自分は狙われたのか。
この中に、あのサイレンを呼び寄せる「何か」が入っているのか。
見てはいけない。
警察官が帰ってくるまで、待つべきだ。
好奇心は猫を殺す。三十六年生きてきて学んだ、平穏を守るための処世術だ。
けれど。
もし、この中に、自分の命を守るためのヒントが入っていたら?
もし、この沈黙した交番に、助けが永遠に来なかったら?
震える指先が、封筒の封じ目に触れた。
糊付けはされていない。ただ、重厚な紙が折り重なっているだけだ。
サイレンの音は、ますます激しさを増していく。
街が泣いているような、狂気を含んだ音色。
紗季は、覚悟を決めるように深く息を吸い、封筒の中に指を差し入れた。
中から出てきたのは、数枚の写真。
そして、色褪せた一枚のメモ。
一番上の写真を目にした瞬間、紗季の心臓は、止まった。
そこに写っていたのは、十五年前――。
自分が誰にも言わず、心の奥底の、最も暗い場所に葬り去ったはずの「あの日」の情景だった。
「……なんで」
震える声が、無人の交番に虚しく響く。
写真の中の若い自分が、今の自分をあざ笑うかのように、血溜まりの中で立ち尽くしていた。
彼女の平凡な生活は、この瞬間、音を立てて崩壊した。




