覚書/猫ノ王の記憶
私が、五歳だったか七歳だったかの冬、磐越線で、親戚のいる会津に行ったときのことだった。郡山から猪苗代に抜ける白銀の中山峠。ここを抜けると猪苗代湖に臨んだ磐梯山を右横に仰ぎ見ることになる。
そこでだった、崖に生えた樹木に、二mはあろう黒猫が、鳩のようなものを食べているのを、客車の窓越しに見た。
あの巨体の黒猫は何者だったのだろうか?
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イエ猫は、十三万年前に、リビア砂漠及び周辺地域にいたリビア山猫が、九千年前に、穀倉地帯になったいたシナイ半島の穀物倉庫に巣食っていた鼠を捕食したことがきっかけで、人類と共生するようになったのが起源だと言われている。エジプト人が好んで猫を飼っていたことは有名で、現代アメリカのブリーダーが、エジプトから持ち帰り、世界に売り出したのがエジプシャン・マウである。
前漢武帝が、シルクロードを整備して、ペルシャとの往来が盛んになり、サーカスやらサッカー、占星術なんてものも中国に持ち込まれるわけだが、猫が中国へやってきたのも恐らくはそのころであろう。
日本にイエ猫がやってきたのは、弥生時代だ。長崎県壱岐市勝本町立石東触にある弥生時代の環濠集落遺「カラカミ遺跡」で遺骨が発見されている。
その後、奈良時代に、遣唐使が唐から仏典を持ち帰る際、鼠に咬まれないように、猫も積んで持ち帰ったという説がある。
歴史に登場する初代猫デレは、第五九代天皇・宇田天皇だ。この人は父である光考天皇から譲り受けた黒猫を飼っていたという。それから平安貴族間で猫ブームが生じ、清少納言も猫デレになった。ただ、猫はまだ希少で、特権階級のステータス的なペットである状態がしばらく続く。首に紐をつけて飼っていたらしい。猫が増えだすのは豊臣秀吉が、穀物を鼠害から防ぐため、庶民が飼うのを奨励したためだと言われている。そのためか生類憐みの令が布告された江戸時代、江戸のような大都市では、野良猫が増えるほどに増殖する。――とはいっても、江戸時代の田舎では、猫を飼育する層はまだ限られていたようだ。当時盛んになってきた絹産業・養蚕において、鼠が蚕を捕食するのを防ぐのに、猫の絵を描いた護符を神社から買って、室内に貼っていた。
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さて、郷里・福島県の火山に磐梯山がある。猪苗代湖の畔にあって、ときたま噴火する。有史以降の噴火では、八〇六年と一八八八年のものが記録にある。
実を言うと磐梯山は双子火山になっていて、兄にあたる古い火山を弟の火山が食い破ってできたものだ。
この兄にあたる火山というのは、雄国沼というカルデラ湖を中心に、大小の峰が連なった外輪山から構成されている。だが、全体を表した火山の名がない。
外輪山で一番高い峰が猫魔ヶ岳なので、自然科学関連記事を読むと、「猫魔火山」と書かれているものがあった。
奈良時代である七六四年、孝簾上皇が、恵美押勝こと相国藤原仲麻呂と宮廷闘争を行い粛清する。いわゆる「恵美押勝の乱」で、この乱に連座して処刑された皇族・貴族はかなりの数に及んだ。
藤原仲麻呂は、大化の改新の元勲・藤原不比等から分かれた藤原四家筆頭・南家筆頭であった。乱で南家は、根絶やしになったかというと、そうでもない。
中国留学帰りの六男の刷雄は、学識を惜しまれてか死刑を免れて隠岐国への流罪となり、のちに赦されて桓武天皇の時代に大学頭や陰陽頭を歴任。学者貴族として命脈を保つことになる。
そしてもう一人、幼い十一男の徳一が助けられた。法相宗東大寺に預けられていた彼は、後に、藤原氏にゆかりの深い常陸国(茨城県)に渡り、同国筑波山を本拠地に、陸奥国・越後国に布教して、一派をなした。『今昔物語』に慧日寺のさわりが紹介されている。
徳一は、留学帰りの最澄や空海が開いた、まだ新興宗教だった密教に論争をふっかけた。比叡山に拠る天台宗の最澄は「悪食」と罵り、ストレートに反駁した。これに対して高野山の空海は大人で、弟子を徳一の元に弟子を派遣、香を送り、「真言宗」写経をさせてもらうように懇願。その際に「徳一菩薩」と持ち上げた。
時代は奈良から平安時代に移った。八〇六年、磐梯山が噴火すると、徳一は、被災地復興を図り、拠点を猫魔ヶ岳の麓に移し、慧日寺を建立した。
慧日寺は、平安末に、後の会津藩領域とほぼ重なる広大な寺領に、僧兵数千を擁する大寺院となる。だが、有力なスポンサーだった越後の城氏の子弟が宗門にあったため、平家側についたので、運命を共にすることになる。どさくさに紛れて侵略したのは、奥州藤原氏であった。ここで法相宗としての慧日寺は終わった。鎌倉殿による奥州藤原氏滅亡後は、彼の地の支配は芦名氏に移る。他方で、芦名氏から庇護を受けて、伽藍を再興させていく。このときの慧日寺の宗派は、天台宗であったようだ。それから因縁めいたもので、戦国末期に奥州藤原氏の末裔を名乗る伊達氏が会津を攻略。芦名氏を滅ぼす。その際に伽藍の大半を焼いた。江戸時代、蒲生氏、加藤氏を経て、徳川家親藩の保科氏が入封する。慧日寺は細々と命脈を保っていたが、明治時代の廃仏毀釈運動で廃止され、磐梯神社になった。それから地元の要請があって、寺の本堂は寺に戻り、神社は少し離れたところに新たな社殿を建てて移した。寺号は「恵日寺」で、現在は真言宗になっている。
会津地方、特に喜多方付近は養蚕地帯で、そこの養蚕農家が、慧日寺に近い磐梯神社で、猫を描いた護符を飼っていたという民族誌を読んだことがあった。現在、神社には神主が常駐しておらず、離れたところにある神社が祭礼のときにやってくるらしい。
磐梯神社はその名の通り、祭神は磐梯山そのものだ。猫の護符と磐梯山には因果関係はあまり感じられない。会津地方で猫の護符と関連付けられそうなのは、保食神を祭神とする蚕養国神社であろう。蚕の守り神はもともと中国が起源らしく、この女神が日本に伝来したという説がある。蚕の守り神は、『日本書紀』でいうところの保食神で、『古事記』でいうところの大気都比売神に相当する。『遠野物語』の「おしら様」も、保食神である。保神の眷属は、稲荷神の眷属神が狐であるように、眷属が猫とされている。猫が独立して猫神になる場合もある。――たぶん、磐梯神社の猫神は、裏山の猫魔ヶ岳に由来するのだろう。かつて慧日寺は修験道の聖地でもあり、修験者たちは、ここから猫魔ヶ岳に登山した。峰の頂近くには、塚状の石があって、五mほどか、猫がピンと耳を立てたようになっている。慧日寺は、近年大規模発掘調査が行われており、近くに博物館が建てられている。そこの学芸員によると、猫魔火山外輪山は、磐梯山山岳信仰の一端をなすものだったのだそうだ。会津地方の人々は、死者は猫魔火山の外輪山が連なる尾根道を通って、磐梯山の頂に登り、そこから天に上る。「磐梯」とは「岩の梯子」を意味するものだ。人の魂のゴールは磐梯山だが、猫の魂のゴールは猫魔ヶ岳であった。
こんな伝承がある。
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――鬼・悪魔としての猫――
病気とは、本来「猫鬼」と書かれたという説がある。「猫鬼」すなわち「猫又」の出現は、鎌倉時代に著された藤原定家『明月記』、吉田兼好『徒然草』からだ。当時、高貴な人が飼っていて、大半の庶民は見たことがない。江戸時代の画家が猫をモデルに描いた虎のように、聞いた噂を絵にしたら猫又になった。
先述したように戦国時代の会津地方の大名は芦名氏で、猪苗代湖付近は、芦名氏の分家・猪苗代氏が領主になっていた。猪苗代氏がいたころ、猪苗代氏の家臣が、一族郎党を引き連れて雄国沼のほとりにあった温泉宿を訪れた。釣りをしていると、昔世話になった姥が現れて、釣った岩魚を所望した。物言いや仕草に違和感がある。物の怪と判断した侍が一刀両断にすると、化け猫であった。化け猫は雌猫で、夫がいた。夫の猫を「猫王」という巨大な黒い猫又で、猫又の王だ。会津で十六歳になった猫は猫又となり猫魔ヶ岳にやってくる。岳の頂近くにある猫石こそ、猫王の宮殿で、猫又になった猫たちは、彼に仕えることになるのだ。宿に帰ると、夫人や供回りは虐殺されていた。猫王は妻の仇をとったのだろう。侍は、一度、館へ帰ると、猟師を雇って大規模な山狩りを行って、猫石を攻め、それから猫王を谷間に追い詰めて斬ったのだという。――話だけを聞くと、猫王夫妻よりも、侍のほうに問題があるように思われる。――この猫王退治に関して、猪苗代氏の家臣ではなくて、領主である猪苗代氏自身だという伝承もある。また、会津の猫又「猫王」に類する伝承は、九州の阿蘇山根子岳、四国の剣山にもある。
『世界魔法大全』翻訳者の一人、江口之隆氏の著書『西洋魔物図鑑』に、「猫の王様」が紹介されている。猫の国は遺跡と通じている。王位継承の際、遺跡を通りかかった旅人に儀式の幻術を見せる。旅人が儀式の模様を人に化けた新しい王に話すことで即位は完了する。恐らくは、同書にある「魔法猫」なのだろう。魔法猫に類するものは「ケイト・シー」という魔女が化けた猫だ。他方で、「ビッグアイ」という化け猫もいる。これは魔法使いが、猫を虐待死させて使い魔化したもので、漢代の中国で流行った「猫術」に酷似している。蟲毒の一種である。――では、猫魔ヶ岳の猫王はどういう性格のものだろうか?
――ランベール:巨大な化け猫は神父をも倒す――
「ベルギーのアルデンヌ高原を縄張りとする巨大な化け猫。旅人を襲い、物品を奪い、殺しに来た猟師も祓いに来た神父も張り倒す大物である。高原近辺の都市リェージュやマルメディーにも出没し、ミューズ川をさかのぼることもあるという。/アルデンヌ高原は古来ヨーロッパの決戦場として有名であり、一九四四年12月のドイツ軍の採取反撃、いわりゅる、バルジ大作戦の時にも、ランベールを目撃したという連合国側兵士の談話が伝えられている」
小結として、ベルギーのランベールと日本の猫又「猫王」は近い印象がある。
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『広辞苑』で、「ねこ」【猫】を引く。鳴き声に接尾語コを添えられたものとある。同事典で「ねこま」も引いてみる。「ねこま」【猫】は、ネコの古称。〈倭名類聚鈔十八〉となっている。つまり、「猫魔ヶ岳」の「猫魔」についた「魔」は、音が残って、そこに魔を当て字したというわけだ。
阿蘇山外輪山の「根子」について、辞書を引くと、「ねっこ」と読むと「もの言わぬ民」になり、「こんし」と読むと長男坊を指す言葉となる。これとは別に、古墳時代豪族の尊称に「根子」というのもある。『日本書紀』に登場する、壱岐真根子命あるいは壹岐眞根子と表される壱岐島の豪族は、武内宿禰が弟の甘美内宿禰の讒言によって招かれた危機を姿が似ていたことから、代わりに自刃した。子孫は壱岐氏となり、氏神として真根子を祀り、真根子神社を建立した。つまるところこの場合の「根子」は貴紳の尊称である。高貴な山をして「根子」なのだろう。たまたま同音異義語の「猫」と掛けて化け猫伝説になったのだろう。
中世の日本では、童子信仰というものがあった。童子とは邪を払う天使である。他方で、インド系の悪魔・牛王頭大王の子だったのが、転じて、父親が悪魔から神に昇格したのに伴って、童子も悪魔から天使に昇格した。世の人が、子供を天使と言ってみたり、餓鬼と呼んでみたりするのは、そういうことだろうか。――たぶん猫も、貴賤、聖邪という矛盾した両面がある生き物として捉えられてきたのだろう。シャルル・ペローが著した『長靴を履いた猫』でイメージが固定される以前の元ネタ民話には、黒・白・斑の灰、三タイプの長靴猫が登場する。牡牝両方いる。
第一の「黒」は悪魔の化身。ともかくキリスト教世界での黒は悪の色なのだ。第二の「白」は女性的で、旅人青年を試す。対応次第で敵にも味方にもなる。そして第三の「斑の灰」は、イングランド伝承にあるもので、猫に変身した王族が、旅の王女の危機を救う物語である。「灰」というのは鉛だったか、水銀だったか、触媒として重宝されたので、錬金術師にとっては神聖な色とされていたという話をきいたことがある。『指輪物語』灰色のガンダルフが聖人であるのはそういうことだ。
猫は旅をする。長靴を履いた(灰色)猫は旅の果てに出会った少年をガラバ公爵にすえ、アルデンヌ高原(猫魔ヶ岳)に登った黒猫はランベール(猫又)になった。
天使(あるいは神)とも悪魔とも呼ばれた猫の本質は、結局のところ一枚のコインの裏表だった。
ノート20221122




