覚書/近代以前の製鉄
「たたら製鉄」
古代ヒッタイト帝国以来の、炭と鉄鉱石を熱して溶かし、ピカっと光る鉄塊を選び集める塊錬鉄製鉄技法の一種だ。日本では5世紀から本格化する。図は9世紀のもの。上段がフイゴ座で、下段が箱形炉と呼ばれる溶鉱炉。また右下の図は同時代のポット形炉。箱形とポット形の性能差はない。
挿図/(C)奄美「たたら製鉄」
Ⅰ 黎明期:隕鉄の時代
金属生産作業を冶金という。
新石器時代の人は、頁岩などの石材を、火で熱することでガラス化させ、割り易くしたようだ。こういう石材に銅鉱が付着している場合があり、銅鉱部分が溶けるので、鋳型に入れれば思い通りの形になることを知った。やがて銅に錫を混ぜると丈夫になることを知る。青銅の融点は1100度くらいだが、実際は800~900度くらいで、生産できるので、屋内の囲炉裏のような、小規模な炉があれば良い。こうしてイラクあたりの中東地域で、青銅器文化が発生する。9千年前のことだ。
青銅器文化が発展し、都市文明が繁栄してきたころ、隕石由来の鉄・隕鉄が登場する。隕鉄には、珪素が多いものや純度の高い純鉄といったものがあるが、ニッケルを含んだものは加工しやすく、青銅器技術でも製品化できた。
隕鉄は、天界の神からの贈り物とされたので、隕石を拾った臣民は王侯に献上した。当時の隕鉄は宝物だった。イラクの王侯は、お抱えの鍛冶職人に命じ、鉄環首飾りにし、エジプトではピラミッドの壁にはめ込んだりした。
――場所と時代は変わるが、私は、中国・上海博物館で、戦国時代の隕鉄剣レプリカを見たことがある。もともとは王墓にあったもので、出土時点ではピカピカだったのだが、空気に触れてくすんだのだそうだ。……ニッケルを含んだ鉄は加工しやすく、青銅器用の小鍛冶炉でも対応できる。ここで得られた鉄塊を棒状に伸ばして短剣の形にし、仕上げで、表面に炭素を加える「加炭」をして硬度を高め、刃先を鋭利になるよう微調整するのだ。この隕鉄剣レプリカには、越の霊王墓出土とあった。呉越春秋、呉越同舟の越だ。紹興酒で有名な紹興を都に、紀元前600年頃 - 紀元前306年に存続した王侯国である。
Ⅱ 塊錬鉄(タタラ製鉄)
もっとも早く鉄器時代に入ったのは、アナトリア(小アジア・現トルコ)だ。鉄の融点は1500度だが、不純物の関係で、実際のところは1200度くらいで、製錬できる。とくにニッケルが含まれていると作りやすくなる。1700年前、アナトリアの人は、箱型やポット型をした密封式の溶鉱炉を用い、隕鉄ではなく、鉄鉱石から鉄塊を得る技術を確立した。塊錬鉄技法といい、日本のタタラ製鉄もこれの一種だ。
アナトリアには車輪技術もあった。
やがて、アナトリアを支配したヒッタイト帝国は、3700年前、馬車と鉄製武器を用いて、当時の「世界」を席捲。その後、環境激変でヒッタイト帝国弱体化。地中海沿岸諸族からなる流民軍団「海の民」によって滅ぼされる。その後、ギリシャ神話にも登場するアナトリアのトロイ王国が、鉄生産技術を継承。同王国が「トロイ戦争(紀元前1700-1200年期間のどこか)」、ギリシャ連合軍の侵略で滅亡すると、欧州はもとより、ユーラシア・アフリカ一帯に鉄生産技術が伝播した。
さて製鉄には、鉱石・砂鉄から鉄を抽出する大鍛治と、抽出されえた鉄を加工して製品をつくる小鍛冶とがある。
中国・朝鮮半島で鉄が使用されるようになると、弥生時代(西日本は3000年前から、東日本は2500年前から1700年前)の日本に、鉄材(鉄丁)・鉄製品スクラップがもたらされ、同時代のいつからか、小鍛冶による鉄器生産がなされるようになった。本格的な大鍛治生産は、大和朝廷成立後の5世紀からである。大鍛治は足踏みフイゴのタタラ製鉄(塊練鉄)によるもので、アニメ『もののけ姫』でも紹介されている。
この塊錬鉄は、シーソー式や革製のジャバラ式フイゴで風を起こし、土管通して、溶鉱炉へ送風する。砕いた鉄鉱石に、木炭チップの燃料を混ぜて燃焼させ、冷やす。すると炉の中身は、鉄塊とガラス質のスラグ(鉄滓)とに分離される。飴状になった塊を取り出し割って、鉄塊を取り出すのだ。
製鉄炉は、草や砂を混ぜて造る大掛かりな炉体だが、いちいち鉄塊を取り出すたびに壊すのが、塊錬鉄の非効率的なところだ。
製鉄炉が近代化するのは、欧州における15世紀の高炉と18世紀の反射炉が発明されたことにる。
シャフト式製鉄炉には、ポットのような形をしたタテ型炉と、箱型炉の二つがある。タテ型炉の丈が、5、6mにも延びた、ノッポさんな製鉄炉が高炉である。
タテ型炉の上方から鉄鉱石と木炭を、互層状に装入し、下方から空気を送って木炭を燃焼させると、発生した高温の一酸化炭素ガスが鉄鉱石中の酸化鉄から酸素を奪い(還元)、金属鉄に変える。
Ⅲ 高炉と反射炉
近代の欧州列強が、世界中を植民地化し、席巻したのは、砲筒・砲弾の量産化に成功したことにある。砲筒・砲弾の量産化を支えたのが、高炉と反射炉の発明だ。
まず高炉について――
高炉は、水車駆動のフイゴ送風機が用いられるようになると、従来の製鉄炉よりもはるかに高温が得られ、大量の鉄鉱石を、鉄とスラグに分離できるようになった。
製鉄炉で溶融した鉄鉱石は、従来の製鉄炉は熱が低いので、粘り気があったのに対し、高炉は高温のためサラサラと流動的である。
ただ、鉄が高温になると、炭素を吸収して鋳鉄化してしまう。ここでできた鋳鉄を業界用語で「銑鉄」という。触媒に石灰を用いると、鉄塊とスラグとをより効率的に分離できるようになった。近世・近代欧州での銑鉄は、鋳鉄砲や弾丸の需要があり量産さえるようになった。
――ゆえに、刀剣に関し、近代的な高炉を経由した鉄だと、炭素が残って脆くなうので、塊錬鉄(タタラ製鉄)技法のほうが、品質がいいということになる。大日本帝国時代の軍刀が、江戸時代以前の日本刀に及ばない原因はここにある。
古式ゆかしい大鍛治の塊練鉄技法で得た鉄塊は、小鍛冶職人が、製品化する。
鋳鉄は、粘土でできたビーカーくらいの坩堝に入れ、炭粉末を加え高温で再加熱し、粘土の鋳型に注ぐことで形を作る。
また刀鍛冶職人が、日本刀を鍛えるような、炭抜き「脱炭」し、「錬鉄」を得る所作「精錬」あるいは「鍛造」と呼ぶ。鉄塊を叩きながら炭素濃度を加減。硬度と軟度の違いのある鉄被膜を交互に重ねてゆく。硬い被膜は、叩く回数を少なめにして炭素を多くし、軟らかい被膜のところに炭素を少なくさせるのだ。
次に反射炉について――
近代の反射炉は、手工業である鍛冶職人の鍛造、少量生産から大量生産を可能にした。
反射炉は、18-19世紀の欧州で確立された、鍛造に代わる精錬用製鉄炉だ。高炉で得られた銑鉄を再溶解させて脱炭、純度の高い鉄「錬鉄」を得る。
熱を発生させる燃焼室と、精錬を行う炉床が、別室になっている構造が特徴だ。燃焼室で発生した熱線と燃焼ガスを、天井や壁で反射、側方の炉床に熱を集中させることで、炉床に溜めてある鉄の精錬を行うものだ。――タタラなど塊錬鉄の溶鉱炉には、天井がない。これだと高熱が上に逃げたままで下には戻ってこない。
以前、その道の研究者を集めた「たたら研究会」の総会が広島であり、のぞいたことがある。
嘘か真か招待された中国研究者がスライドを用いて説明するには、ヒッタイトが「世界」を席捲していた、紀元前14-16世紀ころの塊錬鉄技法による鉄塊が、西域地方で発見されたとのことだ。
また、早い時期から中国は高炉を用い、鋳鉄(銑鉄)を得ていた。戦国時代(紀元前476-221年)、青銅器生産技術を応用した鋳鉄技術を確立。草を混ぜた粘土「草泥層」、砂層を交互に重層化した、溶鉱炉の構造を示し、これにより数百回、数千回の連続使用が可能になったのだそうだ。
「高炉」使用による鉄の鋳造技術が、欧州よりも千年も早い。日本人研究者は息をのみ、中国人研究者がドヤ顔をしていたのを憶えている。
紀元前100年前後の中国・前漢の武帝は、北方騎馬民族を殲滅するため、たびたび西域地方に派兵した。莫大な軍資金が必要になり、塩と鉄を国家の専売とすることで、調達した。これが紀元前60年ごろ、武帝の孫・宣帝のころになると、人民が塩鉄の専売のために苦しんでいるというので、問題視された。
前漢の始元6年(紀元前81年)、専売を遵守したい法家側と、撤廃したい儒家側とが討論会「塩鉄会議」が催された。桓寛によりこのときの議事録を60篇にまとめたのが『塩鉄論』だ。
――結局のところ、民間に同情的な儒家側は、現状維持を主張する法家への対案をもたず、専売制は前漢末まで維持さえることになる。
ところで、古代中国における高炉・鋳鉄技法は、国家機密のハイテク産業だった。民間が、国家で内緒で作るヤミ鉄は、生産効率の悪い箱型炉による塊錬鉄(タタラ製鉄)によるものだ。
1637年、中国・明末の宋応星が著した産業技術書『天工開物』には、高炉ではないところの、塊錬鉄技法についての記述がある。その中に、砂鉄はどこにでもあるので、簡単に作れるとあった。日本のタタラ製鉄は、小規模な民間の手工業が、中国の中部・南部や朝鮮、半島から渡ってきたものであろうか。
ノート20221023




