覚書/近代以前の製塩
Ⅰ 近代以前の製塩方法
製塩方法には大きく、池塩、海塩、井塩、土塩の4つがある。池塩は高濃度塩水湖沼を利用した製塩、海塩は海に面した地域の製塩、井塩は地下の塩水を利用した製塩、土塩は干上がった塩水湖沼や剥き出しになった岩塩鉱脈から採取したものだ。池塩・海塩・井塩の製法はほぼ同じ。塩田などの水槽に、天日を利用して濃縮塩水をつくり、乾燥させる。この段階では砂に付着した状態なので、さらに濃縮塩水で煮沸して、砂礫から塩を分離する。
濃縮塩水のMAX状態を計る手段として、中国では梅の実を水槽(塩田)に落とす。塩分濃度が薄ければ梅の実は沈んだままだが、濃くなると梅の実は浮いてくる。――「塩梅」の語源である。
以下に、4つの製塩方法を示す。
池塩
古代文明の塩はほぼ池塩らしい。エジプト、メソポタミアあたりだと、死海での製塩が有名だ。
中国だと解池という塩水湖がある。解池では塩田に塩水を引き、季節風の南風で一気に乾かす。解池沿岸は解県と呼ばれ。黄帝に仕えた応竜が棲むという伝説と三国志の関羽の故郷として知られている。
海塩
池塩よりも塩水濃度が薄くコストがかかるので、古代では、最初こそ池塩の風下にあったが、時代が下ると製塩の主流になってくる。
日本では、東日本・縄文晩期(=西日本・弥生早期)の遺跡から、製塩土器が見つかっている。2500年前のものだ。
井塩
地下塩水を汲み上げて製塩する。中国・四川省、フランス・サランの町の塩がそれだ。サランの町をめぐって近世神聖ローマとフランスが争った。
日本では、福島県北塩原村で温泉水から「山塩」が製塩され、近世・会津藩、近代・皇室に献上されてきた。井塩の一種とみていいと思う。
土塩
干上がった塩水湖や、剥き出した岩塩鉱脈から採取。中国では西域(青海省だったか)で産出。純度の高い結晶は青く「瑞塩」と呼ばれ、北宋(960-1127)の皇帝に献上された。土塩の派生タイプ・岩塩は比較的新しいタイプだ。欧州では13世紀、ポーランド・ヴィエリチカの岩塩坑で採掘が始まる。
ノート20220607
Ⅱ 塩・鉄と兌換紙幣
中国の近世は宋朝から始まる。紙幣は宋朝において、鉄貨の引換券「交子」としてスタートし、後に紙幣化した。世界初の紙幣だ。その後、中国宋朝から河北部を奪った金朝は、銅不足から、銀・銅貨に加え、紙幣「交鈔」を使用するようになった。元も銀・銅貨に加えて紙幣を用いていたが、インフレ原因になるので、ときたま銀貨や銅貨が主要通貨に戻ることもあった。
モンゴルの元朝クビライは、宋を滅ぼした後、耶律楚材の進言を受け、1260年(中統元年)に諸路中統元宝交鈔(中統鈔)を発行。以降、紙幣が主要通貨となり、統一される。だが、乱発により、インフレが生じたため、1287年(至元24年)に至元通行宝鈔を発行して、至元鈔と中統鈔の比率を1対5として回収し、通貨の安定化をはかるとともに、塩の引換券としての信用価値を付けた。
元朝を滅ぼした明朝でも、銅不足から、1368年に紙幣の大明宝鈔を発行。宝鈔を国内用通貨とし、銅貨を貿易用通貨とした。だがやはり、乱発によりインフレが起きたため、英宗年間では、銅貨や秤量銀貨の国内使用が許可されるようになった。
「交鈔」の製法・形状は、桑の樹皮であり、繊維状にした内皮にニカワを混ぜて薄くのばして縦長に裁断し、銅版画で印刷して皇帝の御璽を押印。中統鈔には皇帝の権威を表す龍や銅貨の図柄、額面金額、発行所、発行所の役人の名前、製造所、そして偽造者を惨殺刑とする文言が印刷された。この形式は、歴代王朝に踏襲される。中統鈔は、272×188㎜、至元鈔のサイズは300×222ミリが定められていた。
(引用:wiki)
ノート20221023




