覚書/サマセット・モーム:富豪作家 × 英国諜報機関MI6ハンドラー
私が、英国作家ウィリアム・サマセット・モームを知ったのは、大学1年英語教科書として『女ごころ』が使用されていたからだった。モームの代表作は、青年医学生の成長を描く自伝的な教養小説『人間の絆』である。後に映画化もされているようだ。内容は、自分をふった女が、男に騙され娼婦に落ち、子を連れて転がり込んできたというもの。このほか、短編では、画家ゴーギャンをモデルにした作品『月と六ペンス』が有名。
モームの異色作は、1928年発表の連作短編小説で、世界初のスパイ小説として知られる『アシェンデン』(Ashenden: Or the British Agent)だ。
同作は、冷戦期を舞台にしたアン・フレミングの『007』、フレデリック・ホーサイスに影響を与えている。柳広司『ジョーカー・ゲーム』はもろに『アシェンデン』を戦間期日本に置き換えた物語である。D機関の結城中佐は、MI6のR大佐と見て間違いないだろう。遠藤達哉の人気漫画・アニメ『SPY×FAMILY』もスパイ小説の延長線上にある。
諜報員は、敵国側をスパイと呼び、味方側をエージェントと呼ぶ。スパイは、一般諜報員と、彼らの情報をまとめたり、活動資金を与えるハンドラーがいる。
『アシェンデン』の同名登場人物はハンドラーだ。物語は、表の顔・作家兼ジャーナリスト、裏の顔を情報機関MI6ハンドラーである彼の視点で、複数の一般諜報員の活躍を描いている。
作中の描写はモームの実体験に基づく。実際にモームは、1914年に始まった第一次世界大戦で、従軍軍医(医学校出身)から英国諜報機関MI6へ転属勤務となる。
モームの分身、アシェンデン。作中、作家である彼を誘ったのはR大佐だとある。R大佐のモデルは、個人的にチャーチルだと思っている。
第一次大戦開始時チャーチルは海軍大臣だったが、オランダ・アントワープ防衛戦、トルコ・ガリポリ上陸作戦を企画して失敗、辞職。直後、陸軍中佐としてフランスに従軍。激戦地であり、チャーチルの無駄死を危惧したロイド・ジョージ内閣は、呼び戻して軍需大臣にした。モームと親交があったチャーチルは、ロシア革命で混乱するロシアにモームを密使として派遣し、ロシア臨時政府と秘密交渉をさせた。
1917年、ロシア革命が勃発し、連合軍側にいたロシア帝国が倒れる。このとき、左翼系のいくつかの政党が分立した。大きなところでは、レーニンらのボリシェビキ(ロシア共産党)、ケレンスキーらの社会革命党などがあった。
モームは、ロシア帝国崩壊直後の臨時政府の首相になったケレンスキーと直談判し、ドイツと単独講和・降伏しないように説得した。臨時政府は、ドイツに降伏したら連合国から食糧支援が得られなくなので、継続しようとしたのだが、10月革命で、レーニン率いるボルシェビキによって倒され亡命する。
ミッションに失敗したモームは、ロシアからの帰国後、疲労から肺結核となり、サナトリュウムで療養。その後の戦間期に、フランス保養地ニースに豪邸を買い、大戦中の自身のスパイ活動を扱った『アシェンデン』を執筆。原稿を友人で上司だったチャーチルに読んで貰うのだが、エピソドの多くが機密事項に触れており、問題のないエピソドのみが出版された。失われた原稿が出てくれば、ちょっとしたセンセーションになるだろうけれども、モームは、死の直前に、秘書に命じてプライベート記録を焼かせているので、まず現存はしていないと思われる。
さて、
モームは、日本には、第一次世界大戦中と、第二次世界大戦後にやってきたことがある。
一回目は、閣僚の一人だったチャーチルの意向を受け、諜報部員エージェントとして、ロシア臨時政府との交渉のため海路をアメリカ・日本経由、シベリア鉄道でペテルスブルク入りしている。直接ロシアに赴かず、迂回路をとったのは、直接ルートが激戦地で渡航が困難だったからである。二回目は、戦後に第二次モーム・ブームというのがあり、ファン・サービスとして来日したものだ。
――モームが、ロシア行きに使った移動ルートは戦地を避けた迂回路――
英国:大西洋:船舶→合衆国:大陸横断鉄道→太平洋:船舶→日本:ポートトレイン(横浜港-敦賀港)→日本海:船舶→ロシア:シベリア鉄道
横浜港と敦賀港には、(たぶん往時の)ポートトレインのホームやた駅舎が残っている。
ノート20220524
引用参考文献
〇モーム著/中島賢二・岡田久雄訳『アシェンデン』岩波文庫に所収された岡田久雄氏による「解説」。岡田氏はモームの回顧録を引用している。
〇行方昭夫著『サマセット・モームを読む』
〇アンソニー・マクカーテン著, 染田屋 茂ほか訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男 』
〇wiki「アシェンデン」「サマセットモーム」「アレクサンドル・ケレンスキー」「ウラジミール・レーニン」『007』『ジョーカー・ゲーム』
〇フレデリック・ホーサイス著『ハイディング・プレイス』は、日本を舞台にした冷戦期のスパイもので学生時代に読んだ。当初、映画化が目論まれていたが、敵役が在日朝鮮人だったりして、タブー事項に触れていたためか映画は没になった。
〇柳広司『ジョーカー・ゲーム』
〇アン・フレミングの『007』は、原作未読で映画シリーズのみ視聴。
〇遠藤達哉『SPY×FAMILY』は、原作未読でアニメのみ視聴。
〇『アンシェンデン』の所収の2つの短編"The Traitor(裏切り者)"と"The Hairless Mexican(禿げのメキシコ人)"をもとに、1936年、アルフレッド・ヒッチコック監督が『間諜最後の日』として映画化した。私は市立図書館のDVDを借りて視聴した。
〇『女ごころ』は、フィリップ・ハース監督が『真夜中の銃声』として映画化している。中古書店で見つけ購入・視聴した。




