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カクレクマノミ


日常は、指先に触れても実感のない温度みたいに、退屈だった。


深夜、スマホの白い光が部屋を照らす中、

私はタイムラインを目的も無くなぞる。


流れてくるのは、誰かの着飾った言葉、

真偽を疑いたくなるようなコスメのプロモーション。

どれも実体のない感情ばかり。


そんな中、一通の通知が届いた。

デフォルトアイコンの「おひさまる」というアカウントからのDM。


『にゃんこさんのポスト、分かるっす』

私がその日の夕方、仕事の帰りに見た「ぺたんこの紙パック」について呟いた、とりとめもない一言への反応だった。


お世辞でも何でもない、ただの共感。

その短すぎる言葉が、私の空虚な胸の中にするりと入り込んできた。


最初は、ただの気まぐれな返信だった。

ただ何となく……返事をした。


そこから始まったやり取りは、

凍りついていた私の毎日に、少しずつ熱を送り込んでくる。


彼が送ってくるのは、おしゃれな日常なんかじゃない。

『今日の朝トレ、きつかったっす』

『朝飯、これ。マジ、ベージュっすね』


送られてくる写真は、質素なアスリート飯。

レンジ調理した鶏胸肉にブロッコリーと、雑穀米。


『それ、美味しいの?』

『慣れっす』


文字はただの情報の羅列じゃない。

私にとっては、暗闇を照らすスポットライトのような、確かな「光」だった。


ある日彼は、私に名前を教えてくれた。

澄晴(すばる)、澄んだ晴れ。

いかにもサッカーやってそうな名前っす』と、不器用に伝えた。


『私は仁菜(にな)だよ。

あんまり被らない名前だから気に入ってる』


そう送ると彼は『仁菜さんめっちゃいいっすね。似合ってる』と返してくれた。


仕事で心が折れそうな夜は、

仁菜さんは、十分やってるっすよ……

という短い一言に、どれほど救われただろう。


画面越しの彼は、一度も私を否定しなかった。


一ヶ月、二ヶ月。

気づけば、私の日常は晴れ澄んだ空に侵食されていた。


やり取りが生活の一部になった夏の土曜日の午後、

彼からふらりと、でも逃げようのない真っ直ぐなメッセージが届いた。


『デート代出すんで、どっか行きたいとこないっすか?』


デートという言葉の響きに、心臓が跳ねる。


顔も知らない相手に、そんな風に言い切れる彼の強引さが、なぜか嫌じゃなかった。


『デート代出してくれるの?笑

そうだなぁ、じゃあ水族館とか……?』


この時は、本当に何も考えていなかった。

ただ、日差しがなくて焼けない、涼しそうな場所がいいな、くらいの軽い気持ち。


返信を待つ間、ふと想像してしまった。


暗い通路、巨大な水槽、青い光に満ちた密室。


あんな逃げ場のない場所を自分から指定してしまったことに、送った後で少しだけ後悔した。


もし、彼が期待外れだったら。

もし、私が彼を怖がってしまったら――


『いいっすね。じゃあ、来週』

後悔を飲み込む間もなく、約束は確定した。




約束の日、スカイツリーで待ち合わせすることになる。

方向音痴な私には押上ですら厳しかった。


人混みの中で、「仁菜さん?」と低く落ち着いた声がした。


振り返ると、そこにはスマホの画面越しでは想像もできなかった、澄晴が立っていた。


スラリと長い足、細身で筋肉質な身体と、端正な顔立ち。センターパートの重めの前髪から覗く切れ味のある瞳。


名前通りの爽やかさ、

正直なんでコイツ彼女いないのか。

おまけに、無駄にめっちゃいい匂いするコイツ。


「……澄晴?」

「うす、お待たせっす」


本名を呼び合った瞬間、

それまで積み重ねてきた文字のやり取りが、

一気に生々しい熱を帯びて皮膚に張り付いた。


少し緊張していて声が上ずってしまう。

それを察してか、澄晴は私に優しく声をかけた。


「とりあえず……カフェ行きません?スタバ」

「――行くぅ」


カフェでも彼はアスリートだった。

彼はブラックコーヒー、しかも夏なのにホット。


私はダークモカチップコーヒーフロート。

しかもチョコチップ増しで、チョコソースも盛り盛りで。


「うっわ、甘そ……」

「えー、それがいいんじゃん」

そんな会話を重ねてくれて、私の緊張がじわじわと解けてくる。


「そろそろ行きますか、調べたんすよ水族館」

そう言って彼は私の半歩前を歩く、歩調も自然と合わせてくれた。


水族館に着き、

薄暗いエントランスを抜けると、

空気が一気にひんやりとした水の匂いに変わる。


青い光がゆらゆらと通路を照らし、

外の世界とは切り離された空気の密度が濃い空間。


「……仁菜さん、そういや、なんで水族館なん?」


不意に、隣を歩く澄晴が低い声で問いかけてきた。

その響きが、静かな館内で驚くほど近くに聞こえて、私は少しだけ肩を揺らした。


「え……あ、涼しそうかなって。あと、焼けないし……」


取り繕うように答えたけれど、

心臓の鼓動は速くなる一方だった。


実際、足を踏み入れてみて気づいてしまった。


ここは、静かで、暗くて、逃げ場がない。

自分の選択を少しだけ後悔し始めた。


沈黙に耐えられず、その場を誤魔化すために、

私は流れる魚たちに視線を逸らす、


「水族館ってさ、泳いでる魚のお腹が見えるから、好きなんだよね」


少しでもこの緊張を解きたくて滑り出た言葉。


すると、隣で澄晴が「なんすかそれ」と低く笑った。


彼は私と一緒に水槽を覗き込み、

頭上を通り過ぎる青魚の白い腹を見上げて、

「……あぁ、確かに」と、ふわりと笑う。


青い光に照らされた彼の横顔が、あまりに無防備で。

胸に刺さるような痛みが走った。マジ、メロちかった。


二人で見上げながら、

可笑しな理由を共有して笑い合う。


その穏やかな時間に、

ようやく少しだけ息がつけた気がした。


だけども、そんな安堵は一瞬で塗り替えられる。

不意に、澄晴が私の方を向いて、さっきまでの少年のような幼さを消した。


「仁菜さんのそういう所、可愛いね」


大人の余裕を湛えた表情と、射抜くような視線。


――ドクン、と心臓が跳ねた音がした。


自分の胸の高鳴りが、静かな館内に響いてしまうんじゃないかと思うほど、うるさく感じてしまう。


あまりに直球な言葉に、どう返していいか分からず戸惑っていると、彼は私の動揺を見透かしたように小さく口角を上げた。


「次、行きましょ」

言葉と同時に、大きな熱が私の手を包み込んだ。


「あ……」

熱かった。

彼の大きな手のひらが私の指先を、優しい強さで包み込む。ぐっと引き寄せられ、彼の前へと歩かされる。


そのまま、彼は空いた方の手を私の腰にそっと回した。


薄い服越しに伝わってくる、澄晴の体温。

逃げ場のない青い密室で、触れられた場所からじりじりと焼けるような熱が広がり、胸の高鳴りは止める術を失っていた。


導かれるままに歩いた先は、

それまでの深い青とは一変して、眩いばかりの色彩が溢れるエリアだった。


サンゴの隙間を縫うように、

色鮮やかな熱帯魚たちが宝石のように舞っていた。


「仁菜さん、熱帯魚好きって言ってましたよね。

お待たせしました、熱帯魚です」


澄晴が冗談めかしてそう言うと、

私の顔を覗き込んで悪戯っぽく笑ってみせた。


その気さくな響きに、私の肩の力も少しだけ抜ける。

「別に君が用意した訳じゃないよ」

うははと声を上げて笑う私を見て澄晴も笑う。


「わあ……マジキラキラしてるわ」

二人で水槽に歩み寄り、鮮やかな黄色や青の魚たちを眺める。


ふと、隣から浅く喉が鳴る音が聞こえた。

見上げると、さっきまで私をリードしていた「大人の表情」は見る影もなくなり、澄晴は子供のように身を乗り出して、水槽の中をじっと見つめていた。


彼はもう、私を口説くことも、エスコートすることも忘れたみたいに、熱帯魚たちの動きに全神経を集中させていた。


「……あ、ごめん」

ふと我に返った彼は、きまりが悪そうに頬を掻く。

自然に繋いでいた私の手を、無意識のように少しだけ強く握り直した。


「いや、本当に綺麗で。……俺、あいつなんか好きっす」

彼が指をさすけれど、あまりに魚が多すぎて、どの一匹のことを言っているのかさっぱり分からない。


「ふふ、いっぱい居て分からないよ」

私の口から、自然な笑みがこぼれた。


彼が熱中していたのは、あの小さな一匹だったんだ。

そのあまりにも純粋な「好き」の熱量に、私の心はいつの間にか、すっかり解かされていた。


水族館の出口、重い自動ドアが開くと、夜の気配を纏った湿り気のあるぬるい空気が一気に私たちを包み込む。


さっきまで触れていた澄晴の、あの高い体温が際立つような夏の空気。


「じゃ、今日は帰りましょう」

駅へと続く道すがら、彼はキッパリと言った。


名残惜しさが視線に混じってしまうのを隠せなかったけれど、彼は前を見据えたまま、迷いのない足取りで歩いていく。


初対面で深追いせず、ここで潔く幕を引く。

それが彼なりの、誠実さなのだと直感した。


その鮮やかな引き際が、私の独占欲を静かに刺激した。


駅のホームに滑り込んできた電車のドアが開く。

私は彼に促されるようにして車内へ入り、ドアのすぐ横に立って振り返った。


ホームにひとり残った澄晴は、さっきまでの余裕のある表情をふっと消して、射抜くような真剣な眼差しで私をじっと見つめていた。


「楽しかったです、本当に。……必ず、また今度」

念を押すような、熱を帯びた低い声。


「……うん、じゃあね」

私も精一杯の想いを込めて頷く。


閉まりゆくドアの向こう、電車がゆっくりと動き出す。


彼はホームに立ち尽くしたまま、私の姿が柱の影に隠れて見えなくなるまで、ずっと手を振り続けてくれていた。


座席に腰を下ろすと、一気に車内の静寂が耳に届く。

窓に映る自分の顔は、自分でも驚くほどのぼせていた。


腰に添えられていた手の重み、繋がれていた手の熱。

指先がまだ、彼の体温を鮮明に覚えている。


私は火照った顔を隠すように、すぐにスマホを取り出した。


画面の中の「おひさまる」という味気ない名前に、

あえて茶化すような言葉を打ち込む。


『お疲れさま。

あの後、ちゃんと迷子にならずに改札出られた?』


すぐに既読がついた。

『迷子になったっす。次はちゃんと送ってください』

思わず、ふふっと声が漏れそうになる。


さっきまであんなに男らしく私をリードし、大人びた表情を見せていたくせに、画面の中では急にこんな風に甘えてくる。


『え、私が送るの?』


電車の揺れに身を任せながら、

私はスマホをそっと胸元に抱き寄せた。


車窓を流れる街灯の光が、

今の私の心の中みたいに、小さく煌めいている。


「……はあ、可愛いな」


ぽつりと溢れた独り言は、

夜の気配が混じり始めた車内へと、優しく溶けていった。


――淡く、消えていく、夏の記憶として。

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